資料(東京朝日新聞)

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1895年(明治28年)ー1896年(明治29年)

資料NO

掲載年月日

掲載面 資料名 備考
OM-01 1895年(明治28年)2月24日    寒中の富士登山者  
OM-02 1895年(明治28年)9月  1日    富士山の測候所  MZ-01
OM-04

1895年(明治28年)9月11日 

   富士山巓の気海探検 

 MZ-02 

OM-041 1895年(明治28年)9月11日     第二回冬期富士登山記(未完) 1/4 冬期に於ける富士頂上の積雪風力の模様等観察のため2回目の単独登山 (2月14日~15日)
MZ-03 1895年(明治28年)9月12日    第二回冬期富士登山記(承前) 2/4  同上(2月15日~16日)
MZ-04 1895年(明治28年)9月13日    第二回冬期富士登山記(承前) 3/4  同上(2月16日)
MZ-05 1895年(明治28年)9月14日    第二回冬期富士登山記(承前) 4/4  同上登山の考察
MZ-06 1895年(明治28年)9月15日    野中氏家族に送りたる書翰 家族あて書簡にて小屋の建築着手から竣功までを報告(8月10日~27日)
MZ-07 1895年(明治28年)9月19日    富士山測候所引払(ひきはらひ)の期  
OM-10 1895年(明治28年)9月26日    富士山頂気象観測続聞  中央気象台技手2名山頂観測(9月1日~20日)
OM-14 1895年(明治28年)9月29日    野中至氏の事業  
MZ-08 1895年(明治28年)10月29日    郡司氏と野中氏  
MZ-09 1895年(明治28年)12月17日    野中氏の消息  
MZ-10 1895年(明治28年)12月19日    野中氏の病勢危急  慰問登山
MZ-11 1895年(明治28年)12月21日    第二回冬期富士登山実記  慰問登山(勝又恵三氏による手記)
MZ-12 1895年(明治28年)12月22日    和田技師の富士登山  
OM-22 1895年(明治28年)12月25日    野中氏無事下山す  MZ-13
OM-23 1895年(明治28年)12月26日    野中氏夫妻の下山詳報     1/2  MZ-14
MZ-15 1895年(明治28年)12月27日    野中氏夫妻の下山詳報(続)  2/2  
MZ-16 1895年(明治28年)12月28日    野中氏の病状と三浦博士  
MZ-17 1896年(明治29年)1月 3日   和田技師の復命書  
OM-63 1896年(明治29年)1月12日   野中至と新演劇  
OM-65 1896年(明治29年)1月14日   野中氏夫妻の帰京  MZ-18
  1896年(明治29年)1月15日   富嶽越年法 次回の試みのために和田技師の意見 (未登録)
OM-76 1896年(明治29年)1月30日   寒中富士山頂滞在概況     1/4  MZ-19
MZ-20 1896年(明治29年)2月 1日   寒中富士山頂滞在概況(承前) 2/4  
MZ-21 1896年(明治29年)2月 2日   寒中富士山頂滞在概況(承前) 3/4  
MZ-22 1896年(明治29年)2月 4日   寒中富士山頂滞在概況(承前) 4/4  
MZ-23 1896年(明治29年)2月22日   市村座井伊山口一座の評  
         

1907年(明治40年)ー1909年(明治42年)    『この花會』

資料NO

掲載年月日

掲載面 資料名 備考
K-001   1907年(明治40年)7月6日    この花會▽會長は野中至氏の夫人  
K-007   1909年(明治42年)7月30日    この花會_男爵夫人の富士登山  
         

1934年(昭和9年)ー1935年(昭和10年)

資料NO

掲載年月日

掲載面 資料名 備考
F-001    1934年(昭和9年)8月29日  

 富士山頂の観測所閉鎖の難を免る 三井報恩会から7千円

 
F-002    1935年(昭和10年)1月1日  

 富士の絶巓で迎ふ 新婚の第一春

 
         

1895年(明治28年)

OM-01

資料番号g  OM-01
資料名 寒中の富士登山者
年代

 1895年(明治28年)2月24日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
旧字旧仮名 大日本気象学会員福岡縣人⁽けんじん⁾野中至氏は、予⁽かね⁾て富士山上に一の気象台を設けんと、其⁽その⁾準備の為⁽た⁾め、去⁽さる⁾二月十五日単身氷雪を冒⁽おか⁾して同山に登り、絶頂⁽ぜっちょう⁾に於⁽お⁾ける積雪の模様並びに風力等を観察したりと、其⁽その⁾以前一月四日、氏は鳶口⁽とびぐち⁾其他⁽そのた⁾を用意し第一回の登山を試みし所、不幸にして五合目に至り、右の積雪に打込みて攀登⁽よじのぼ⁾るの具⁽ぐ⁾に供せし鳶口折れ、裏に大釘を打ちたる鉄靴⁽てつぐつ⁾破れて復⁽また⁾用を為⁽な⁾さざるに至りしかば、一応下山し、更に去⁽さる⁾十五日を以⁽もっ⁾て再度の登山を試みたるものなり 扨⁽さて⁾此度⁽このたび⁾は是非⁽ぜひ⁾目的を貫徹⁽かんてつ⁾せんとの見込みて、鳶口に代⁽か⁾ふるに鶴の嘴⁽はし⁾を以⁽もっ⁾てし、堅固なる釘十本を打ちたる皮靴を穿⁽うが⁾ちて登山せしに、途次⁽とじ⁾非常なる暴風雨に合ふて、艱苦⁽かんく⁾⁽つぶ⁾さに至れり、去⁽さ⁾れど同日午後一時無事絶頂に達するを得⁽え⁾たり、其時⁽そのとき⁾温度は摂氏氷点下十八度二(華氏零下二度八)なりしも、其⁽その⁾割合には雪浅く、岩石の兀々⁽こつこつ⁾と現れたる所さへあり、越年するも左程⁽さほど⁾の困難はあらざるべしとて、氏の喜び一方⁽ひとかた⁾ならず、夏季に至らば直⁽ただ⁾ちに五六坪位の小屋を設け、食料薪炭⁽しんたん⁾等を用意して、今冬⁽こんとう⁾は自ら越年⁽えつねん⁾を試みる由⁽よし⁾、而⁽しか⁾して越年終わらば、更に気象台の設置に取り掛かる計画なり、欧米の如⁽ごと⁾きは既に十餘⁽よ⁾年来高山⁽こうざん⁾気象台の設置あるも、亜細亜⁽アジア⁾にては未⁽いま⁾だし、是⁽これ⁾氏が率先⁽そっせん⁾此挙⁽このきょ⁾を企てたる所以⁽ゆえん⁾にして、事成らば其⁽その⁾東洋第一の高山気象台たるは言ふを俟⁽ま⁾たず、寒中の富士登山さへも今回氏を以て嚆矢⁽こうし⁾と為⁽な⁾すと云⁽い⁾
新字新仮名

大日本気象学会員福岡県人野中至氏は、予⁽かね⁾て富士山上に一の気象台を設けんと、その準備のため、去る二月十五日単身氷雪を冒⁽おか⁾して同山に登り、絶頂における積雪の模様並びに風力等を観察したりと、その以前一月四日、氏は鳶口⁽とびぐち⁾その他を用意し第一回の登山を試みし所、不幸にして五合目に至り、右の積雪に打込みて攀⁽よじ⁾登るの具⁽ぐ⁾に供せし鳶口折れ、裏に大釘を打ちたる鉄靴⁽てつぐつ⁾破れて、復⁽また⁾用をなさざるに至りしかば、一応下山し、更に去十五日をもって再度の登山を試みたるものなり

さてこのたびは是非目的を貫徹せんとの見込みて、鳶口に代うるに鶴の嘴をもってし、堅固なる釘十本を打ちたる皮靴を穿⁽うが⁾ちて登山せしに、途次⁽とじ⁾非常なる暴風雨に合⁽お⁾うて、艱苦⁽かんく⁾つぶさに至れり、されど同日午後一時無事絶頂に達するを得たり、その時温度は摂氏氷点下十八度二(華氏零下二度八)なりしも、その割合には雪浅く、岩、石の兀々⁽こつこつ⁾と現れたる所さえあり、越年するも左程⁽さほど⁾の困難はあらざるべしとて、氏の喜び一方ならず、夏季に至らば直ちに五六坪位の小屋を設け、食料薪炭⁽しんたん⁾等を用意して、今冬は自ら越年を試みるよし、而⁽しか⁾して越年終わらば、更に気象台の設置に取り掛かる計画なり、欧米のごときはすでに十余年来高山気象台の設置あるも、亜細亜⁽アジア⁾にては未⁽いま⁾だし、これ氏が率先⁽そっせん⁾この挙⁽きょ⁾を企てたるゆえんにして、事成らばその東洋第一の高山気象台たるは言うをまたず、寒中の富士登山さえも今回氏をもって嚆矢⁽こうし⁾となすという



OM-02

資料番号  OM-2(MZ-01)
資料名 富士山の測候所
年代

 1895年(明治28年)9月1日

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
旧字旧仮名 大日本気象学会員野中至氏が、去る一月積雪を冒⁽おか⁾して富士山に登りことは其頃⁽そのころ⁾の紙上に記⁽しる⁾せしが、今度氏はいよいよ同山巓⁽さんてん⁾に一の測候所を設置することとし、此程⁽このほど⁾工事落成したるに付⁽つき⁾、一昨日中央気象台へ今後常に同山巓に在⁽あ⁾りて気象を観測する旨の報告あり、右に付⁽つき⁾中央気象台よりは技手⁽ぎしゅ⁾六笠八五郎、吉田清次郎氏等を登山せしめ、叉⁽また⁾来月上旬には台長和田雄治氏も自⁽みずか⁾ら登山する筈⁽はず⁾なりと
 新字新仮名 大日本気象学会員野中至氏が、さる一月積雪を冒して富士山に登りしことはその頃の紙上に記せしが、今度氏はいよいよ同山巓(さんてん)に一の測候所を設置することとし、この程工事落成したるにつき、一昨日中央気象台へ今後常に同山巓にありて気象を観測する旨の報告あり、右につき中央気象台よりは技手六笠八五郎、吉田清次郎氏等を登山せしめ、又来月上旬には台長和田雄治氏も自ら登山するはずなりと


OM-04

資料番号  OM-04 (MZ-02)
資料名 富士山巓の気海体験
年代

 1895年(明治28年)9月11日

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
旧字旧仮名

中央気象台技手近藤六笠両氏が富士山頂に気象観測を遂げたる概要は、去る七日の紙上に登載せしが、猶叉⁽なおまた⁾福岡縣人野中至氏の同探検事業に関する来歴の一二を挙げ、併⁽あわ⁾せて氏の第二回富士登山記を掲⁽かか⁾ぐ 

氏は曾⁽かつ⁾て記⁽しる⁾したる如⁽ごと⁾く、富士山巓⁽さんてん⁾に高層気象観測所を私設⁽しせつ⁾し、多年此⁽この⁾道の為⁽た⁾めに熱心研究せる所の人なり 気象学専門家の語る所によれば、今日気象の原因にして不明なるもの多き所以⁽ゆえん⁾は、全く其⁽その⁾発作⁽ほっさ⁾する空気上部の有様⁽ありさま⁾を探求し得ざるに在⁽あ⁾り、暴風電雷降雹⁽こうひょう⁾⁽もし⁾くは霜露⁽そうろ⁾の如き、皆⁽みな⁾⁽しか⁾らざるはなし、叉⁽また⁾天気の変化の如⁽ごと⁾きも、多くは上部より及ぼすものに似たれば、高山に於⁽おい⁾て不断⁽ふだん⁾観測をなし、之⁽これ⁾を平地のものと対照⁽たいしょう⁾せば、或⁽あるい⁾は数日若⁽もし⁾くは数週後の天気といへども、之⁽これ⁾を予報することを得んも図⁽はか⁾り難し、其他⁽そのた⁾星学、黴菌⁽ばいきん⁾学、生理学、地学、化学等に関し、研究上実験の場となすの必要あり、氏は爰⁽ここ⁾に大⁽おおい⁾に感じ、多年心を潜⁽ひそ⁾め思⁽おもい⁾を労⁽ろう⁾し苦画⁽くかく?⁾⁽ようや⁾く成りたるを以⁽もっ⁾て、本年夏期を俟⁽ま⁾ち仮小屋の建築に着手せんとて冬期に於ける富士頂上の積雪風力の模様等観察のため、本年一月四日及び二月十六日単身氷雪⁽ひょうせつ⁾を冒⁽おか⁾して登山せしが、初回登山は不幸にして五合目に至りし頃、鳶口⁽とびぐち⁾(是⁽これ⁾は積雪の凍りたる所に打込み攀上⁽よじのぼ⁾るに用ふるもの)折れ、鉄底⁽てつぞこ⁾の靴破れたるため、中途より下山し、次回には鳶口の代りに鶴嘴⁽つるはし⁾を携へ、一層堅固の靴を穿⁽うが⁾ち登山せしが、折節⁽おりふし⁾非常の暴風なりしにも拘⁽かかわ⁾らず、終⁽つい⁾に頂上に達したり(猶⁽なお⁾次の紀行に詳⁽つまびら⁾かなり) 斯⁽か⁾くて氏が第三回の登山は、八月二十五日より九月五日迄に於てし、其間⁽そのあいだ⁾非常の辛苦艱難⁽しんくかんなん⁾を以て、専⁽もっぱ⁾ら気海⁽きかい⁾観測の準備をなせしが、茲⁽ここ⁾に最も人をして感動せしむるに足るべきものは、氏の此⁽こ⁾の行⁽こう⁾に随行⁽ずいこう⁾したる健気⁽けなげ⁾なる細君が、繊弱⁽せんじゃく⁾の手を以て始終糧食衣服万般の準備を管理處弁⁽しょべん⁾し、良人をして毫⁽ごう⁾も後顧⁽こうこ⁾の憂⁽うれい⁾なからしめんことを期したるの一事⁽いちじ⁾なり、氏は斯くして第三回の探検を了⁽おわ⁾りたるを以て、来る九月十三日には愈々⁽いよいよ⁾第四回の登山をなし、徐⁽おもむ⁾ろに冬籠⁽ふゆごも⁾りの準備をなす筈⁽はず⁾にて、此行⁽このこう⁾に於ても氏の細君は是非とも同行辛酸⁽しんさん⁾を分⁽わか⁾たんことを希望し、三才の嬰児⁽えいじ⁾をさへ郷里福岡の親戚に託⁽たく⁾し、オサオサ準備に怠⁽おこた⁾りなしと云⁽い⁾ふ、此夫⁽このおっと⁾にして此婦⁽このふ⁾あり、一双⁽いっそう⁾の聯壁⁽れんぺき⁾といふべし

 新字新仮名

中央気象台技手近藤、六笠両氏が富士山頂に気象観測を遂げたる概要は、去る七日の紙上に登載せしが、なお又福岡県人野中至氏の同探検事業に関する来歴の一二を挙げ、併(あわ)せて氏の第二回富士登山記を掲ぐ 氏は曽(かつ)て記したるごとく、富士山巓に高層気象観測所を私設し、多年この道のために熱心研究せる所の人なり

気象学専門家の語る所によれば、今日気象の原因にして不明なるもの多き所以(ゆえん)は、全くその発作する空気上部の有様を探求し得ざるに在り、暴風、電雷、降雹もしくは霜露のごとき、皆しからざるはなし、又天気の変化のごときも、多くは上部より及ぼすものに似たれば、高山において不断観測をなし、これを平地のものと対照せば、あるいは数日若(もし)くは数週後の天気といえども、これを予報することを得んも図り難し、その他星学、黴菌(ばいきん)学、生理学、地学、化学等に関し研究上実験の場となすの必要あり、氏はここに大いに感じ、多年心を潜め思いを労し苦画漸(ようや)く成りたるをもって、本年夏期をまち仮小屋の建築に着手せんとて冬期における富士頂上の積雪風力の模様等観察のため、本年一月四日及び二月十六日単身氷雪を冒して登山せしが、初回登山は不幸にして五合目に至りし頃、鳶口(これは積雪の凍りたる所に打込み攀上るに用うるもの)折れ、鉄底の靴破れたるため、中途より下山し、次回には鳶口の代りに鶴嘴を携え、一層堅固の靴を穿ち登山せしが、折節(おりふし)非常の暴風なりしにも拘(かか)わらず、終(つい)に頂上に達したり(なお次の紀行に詳{つまびら}かなり)かくて氏が第三回の登山は、八月二十五日より九月五日までにおいてし、その間非常の辛苦艱難をもって、専ら気海観測の準備をなせしが、ここに最も人をして感動せしむるに足るべきものは、氏のこの行に随行したる健気なる細君が、繊弱(せんじゃく)の手をもって始終糧食衣服万般の準備を管理処弁し、良人をして毫(ごう)も後顧(こうこ)の憂いなからしめんことを期したるの一事なり、氏はかくして第三回の探検を終りたるをもって、来る九月十三日にはいよいよ第四回の登山をなし、徐(おもむ)ろに冬りの準備をなすはずにて、この行においても氏の細君は是非とも同行辛酸を分かたんことを希望し、三才の嬰児をさえ郷里福岡の親戚に託し、オサオサ準備に怠りなしという、この夫にしてこの婦あり、一双の連壁(れんぺき)というべし



OM-041

 場所  月日 発着時刻 気温 記事
東京 2月14日  4:45 発   徒歩 
山北 2月15日 9:13 着    
御殿場   10:02 着   徒歩約29時間
瀧河原   12:00 着

7.1

 
    12:30 発    
馬返し   14:30 着 6.1  
太郎坊   15:45 着 3.9  
         

 

資料番号  OM-041
資料名 第二回冬期富士登山記  1/4
年代

 1895年(明治28年)9月11日

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
 旧字旧仮名

第二回冬期富士登山記

⁽よ⁾は前に第一回登山の始末を報道したれども、其事⁽そのこと⁾半ばにして止⁽や⁾み、未だ予の本懐⁽ほんかい⁾を遂ぐること能⁽あた⁾はざりしを以⁽もっ⁾て、今回は気力の続かん限り万艱⁽ばんかん⁾を排して是非供⁽ぜひとも⁾⁽のぞみ⁾を達せずんば巳⁽や⁾まじと心中固く誓ひ、乃⁽すなわ⁾ち前回実験したる所を参酌⁽さんしゃく⁾して及ぶ限り十分に準備を整へ、二月十四日午前四時四十五分徒歩東京を発し、翌十五日午前十時二分御殿場に着す、是より先大磯を出るや、前途黒雲の横⁽よこた⁾はるを見しが、漸⁽ようや⁾く進むに従ひ次第に増加し、遥かに望めば、足柄箱根の諸山は降雨あるにあらざるかと怪しまる

⁽かえりみ⁾れば已⁽すで⁾に北東の間一方のみ僅かに晴天を残すに至れり、午前九時十三分山北⁽やまきた⁾に着せし頃は此辺⁽このへん⁾降雨あり、御殿場に至るに及び雨止み、雲際より少しく日光を漏らせり、此辺⁽このへん⁾樹陰に残雲あるを見たり、時已⁽すで⁾に午前十時三十分なり、寒暖計を見るに摂氏七八度を示せり、行くこと二十分程再び雨を催ほす、顧みて足柄箱根の諸山を望めば、点々積雪を見たりしが、此に至りて陰雲⁽いんうん⁾四山を隠蔽す、正午瀧河原⁽たきがわら⁾に着す、此辺七度一を示せり、是より先き御殿場を出てより間断なく降雨は衣を潤⁽うるお⁾すに至りしが、此時⁽このとき⁾少しく日光を漏⁽もら⁾せり、昨年夏期以来知る處⁽ところ⁾の佐藤與平次なるもの、雪中⁽せっちゅう⁾此辺にて用ゆる鉄靴⁽かなぐつ⁾(仮に鉄靴⁽かなぐつ⁾と名付づく)を貸与せしにより、参考の為め之⁽これ⁾を携帯せり、同人は先月中旬此辺⁽このへん⁾降雪あり五六寸に及ぶと云へり

零時三十分同處⁽どうしょ⁾を発す、雨未だ止まず大野原の殆んど半ばより上は晴陰一定せず、木立に入りて雨は全く止みしも四面朦朧として認知しがたし、而⁽しか⁾して道路積雪半ば渓流をなして流下⁽りゅうか⁾せり、蓋⁽けだ⁾し山上の積雪暖気に遭ふて融解するものならん故に、地盤固からず歩毎に逡巡するのみならず、樵夫(しょうふ)か切り倒したる路傍の樹枝⁽じゅし⁾風の為めに途上に横たはるを踏越つつ行くが故に歩を進むること意の如⁽ごと⁾くならず

屡々⁽しばしば⁾休息しつつ午後二時三十分馬返に達す、六度一を示せり、尚⁽なお⁾登ること十五分許⁽ばかり⁾風少しく来る、磁石を案ずるに南より吹くものの如し、颯々⁽さつさつ⁾の声は彼の渓流と相和し耳恰⁽あたか⁾も聾⁽ろう⁾するが如し、登ること三十分程積雪殆んど間隙なし、深さ平均四寸、此辺⁽このへん⁾四度六を示す、午後三時四十五分太郎坊に着す、三度九を示せり、其⁽その⁾荒敗前回に異ならず、前回は此辺⁽このへん⁾に未だ見ざりし積雪も、今回は殆ど寸隙⁽すんげき⁾あらざると、天候極めて険悪なるにより、日猶⁽なお⁾高けれども茲⁽ここ⁾に夜を明かすに決し、例の如く燃料を拾集せり  (未完) 

 新字新仮名

予は前に第一回登山の始末を報道したれども、その事半ばにしてやみ、いまだ予の本懐を遂ぐること能(あた)わざりしをもって、今回は気力の続かん限り、万艱(ばんかん)を排してぜひ望を達せずんばやまじと心中固く誓い、乃(すなわ)ち前回実験したる所を参酌して及ぶ限り十分に準備を整え、二月十四日午前四時四十五分徒歩東京を発し、翌十五日午前十時二分御殿場に着す、これよりまず大磯を出るや、前途黒雲の横たわるを見しが、漸(ようや)く進むに従い次第に増加し、遥かに望めば、足柄箱根の諸山は降雨あるにあらざるかと怪しまる

顧みれば已(すで)に北東の間一方のみ僅かに晴天を残すに至れり、午前九時十三分山北(やまきた)に着せし頃はこの辺降雨あり、御殿場に至るに及び雨止み、雲際(くもぎわ)より少しく日光を漏らせり、この辺樹陰に残雪あるを見たり、時すでに午前十時三十分なり、寒暖計を見るに摂氏七度八を示せり、行くこと二十分程再び雨を催す、顧みて足柄箱根の諸山を望めば、点々積雪を見たりしが、これに至りて陰雲四山を隠覆(いんぷく)す、正午滝河原に着す、この辺七度一を示せり、これよりさき御殿場を出てより間断なく降雨は衣を潤すに至りしが、この時少しく日光を漏らせり、昨年夏期以来知る処の佐藤与平次なるもの、雪中この辺にて用ゆる鉄靴(仮に鉄靴と名付づく)を貸与せしにより、参考のためこれを携帯せり、同人は先月中旬この辺降雪あり五、六寸に及ぶといえり

零時三十分同処を発す、雨未だ止まず、大野原のほとんど半ばより上は晴陰一定せず、木立に入りて雨は全く止みしも四面朦朧として認知しがたし、而(しか)して道路積雪半ば渓流をなして流下せり、けだし山上の積雪暖気に遭うて融解するものならん、故に、地盤固からず、歩毎ごとに逡巡するのみならず、樵夫(しょうふ)が切り倒したる路傍の樹枝風のために途上に横たわるを踏み越つつ行くが故に、歩を進むること意のごとくならず、

しばしば休息しつつ午後二時三十分馬返(うまがえし)に達す、六度一を示せり、なお登ること十五分ばかり風少しく来る、磁石を案ずるに南より吹くもののごとし、颯々(さつさつ)の声は彼の渓流と相和し耳あたかも聾するがごとし、登ること三十分程ほど積雪殆んど間隙なし、深さ平均四寸、この辺四度六を示す、午後三時四十五分太郎坊に着す、三度九を示せり

その荒廃前回に異ならず、前回はこの辺にいまだ見ざりし積雪も、今回はほとんど寸隙あらざると、天候極めて険悪なるにより、日なお高けれどもここに夜を明かすに決し、例のごとく燃料を拾集せり。(未完)



MZ-03

 場所  月日 発着時刻 気温 記事
東京 2月14日  4:45 発   徒歩 
山北 2月15日 9:13 着    
御殿場   10:02 着   徒歩約29時間
瀧河原   12:00 着

7.1

 
    12:30 発    
馬返し   14:30 着 6.1  
太郎坊   15:45 着 3.9  
 小屋    21:00 着   雨水屋内侵入
    21:55    

⛈️電光雷鳴

風雨猛烈

 

 2月16日

 

 6:30 発

 

 6.2

 

 3:00発予定を遅らす
一合目   7:00 着 4.6  
二合目   8:00 着 3.8  
二合二勺   8:30 着 3.0  
三合目   8:55 着

 1.7

 
資料番号  MZ-03
資料名

第二回冬期富士登山記(承前)

年代

 1895年(明治28年) 9月12日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ 溝口克己氏提供
旧字旧仮名

本日は朝来⁽ちょうらい⁾已に天候宜⁽よろ⁾しからず、加ふるに東京出発以来日々温暖なりしが、此の地も前回に比すれば遥かに暖かなり、午後四時果たして雨は風に和して降ること恰⁽あたか⁾も車軸⁽しゃじく⁾を流すが如し、勢ひ次第に加わり風に和して降る其の音は、雨水の奔流と積雪の融解して流下する音と相和して情勢極めて猛烈なり、燭を秉⁽とっ⁾て間隙より外面を窺⁽うかが⁾へば、暗黒にして物色を弁じがたきも、奔下⁽ほんか⁾する水は小屋の四面を囲み、恰も河中⁽かちゅう⁾の一亭に異ならず

午後九時頃雨水何れよりか屋内に侵入して、瞬時に深さ寸餘⁽すんよ⁾に及び、焚火⁽たきび⁾を打ち消し忽⁽たちま⁾ち暗黒となる、依⁽よ⁾って其⁽その⁾源を探り、鶴嘴を採⁽とっ⁾て庭の一隅⁽いちぐう⁾を穿⁽うが⁾ち以て水の侵入を防がんとすれども、地盤凝結して容易に打ち起こすべからず

已むを得ず庭内一段高き處⁽ところ⁾に移りたれども、風床下より烈⁽はげ⁾しく来⁽きた⁾りて火を吹き消し容易に燃え付かず、恰も好し石油の空缶⁽あきかん⁾ありたるを発見したれば、之を竈⁽かまど⁾に代用し、床上僅かに暖を採ることを得たり、午後九時五十五分北に当たりて電光雷鳴あり、十時十五分風叉強く其⁽その⁾怒号する雷鳴の如し、颪⁽おろし⁾の度毎⁽たびごと⁾に小屋の四隅⁽ぐう⁾ミシミシと響き、何時吹き倒れんかと危ぶむ許り、転⁽うた⁾た胆⁽たん⁾をして寒からしめたり

⁽この⁾小屋は室⁽むろ⁾にあらざるがゆへに、南西隅の床上に殆んど五寸角二間もあらんかと思ふ木材を数十本積累(つみかさ)ね置けり、前回甚⁽はなは⁾だ之⁽これ⁾を怪しみしが、今回大風に遭ひ、始めて小屋の圧⁽おさ⁾へなることを推知⁽すいち⁾し得たり、翌日午前二時に至るも風雨共に歇⁽や⁾まず、三時に至り雨少しく勢いを減ず、午前六時に及び全く静穏に帰したり、十五日午後六時より翌十六日午前六時迄、實に十二時間風雨終始殆ど同一の勢いを以て吹き続きたると其⁽その⁾⁽いきおい⁾の猛烈なるとは、予⁽よ⁾⁽いまだ曾て見ざる處なり、同處に着⁽ちゃく⁾したる以来滞留中試みに毎時温度を観測せり、以て聊⁽いささ⁾か其⁽その⁾一班を窺⁽うかが⁾ふに足らんか、今回も寒暖計の位置観測等一層注意をなしたり(温度の観測表は略す)

今回は気候甚だ温暖なしりを以て、前回に比すれば夜半と雖⁽いえど⁾も、聊⁽いささ⁾か寒気を覚ゆることなく、若⁽も⁾し異変の兆⁽ちょう⁾にあらざるかと心痛する程なりし、予は初め遅くとも午前三時には発足⁽ほっそく⁾の心算⁽しんさん⁾なりしも、温度極めて異常なり、且⁽か⁾つ風雨猛烈にして到底小屋を離れ難きにより、残念ながら静穏⁽せいおん⁾に帰するを俟⁽ま⁾ち、午前六時三十分同所を発せり、此の時六度二を示せり、空合⁽そらあい⁾⁽いま⁾だ全く旧に復せずと雖⁽いえど⁾も、時次第に移るを以て勇を鼓して急行す、昨日までは太郎坊より上は殆ど満面積雪なりしが、夜来の雨と暖気とにより陸地測量部の三角標の辺までは積雪大⁽おおい⁾に消失するを見る、此處⁽このところ⁾に半ば破損したる小屋あり、用材の折目⁽おれめ⁾の新しきを以て考ふれば、全く夜来⁽やらい⁾大風⁽たいふう⁾の為⁽た⁾め吹き折られたるものなるべし、西南の風は又少しく吹いて進行甚⁽はなは⁾だ苦しむ、且つ風に吹き去られんとする為め行李⁽こうり⁾を解いて眼鏡叉は靴等を取り出すに極めて困難なり、仰げば満山皚々⁽がいがい⁾として、積雪寸隙なし、然⁽しか⁾れども唯二つ塚と宝永山頂の南面の凹處⁽おうしょ⁾及び本山の頂は、白砂を被⁽こうぶ⁾るが如く雪極て薄し 

⁽しか⁾して此辺⁽このへん⁾は今だ前回の如くに氷結せず、白雪は時に宝永山頂の辺⁽ほとり⁾より斜めに本山を掠⁽かす⁾めて走る、其⁽その⁾光景⁽こうけい⁾朧朧⁽もうろう⁾として頗⁽すこぶ⁾る凄愴⁽せいそう⁾なり、漸⁽ようや⁾く進んで午前七時一合目に達す、此辺⁽このへん⁾四度六を示せり、而⁽しか⁾して太郎坊を出でてより實に一時間を費やせり、是⁽こ⁾れ他⁽た⁾なし、三角標の辺より上は、積雪深さ殆ど八寸且つ表面は薄く凍りたるも、暖気の為めに下部二三寸は已⁽すで⁾に融解せり、其の状⁽じょう⁾⁽あたか⁾も凝結せる水田を渉⁽わた⁾るに異ならず、故に踏み込み叉は引抜⁽ひきぬ⁾くに当り、氷の辺縁⁽へんえん⁾にて足を傷⁽きずつ⁾くるの恐れあるを以⁽もっ⁾て毛靴⁽けぐつ⁾に換えて進む、而して膝より下はズボン、靴共に浸潤して重く、且つ冷やかなること斫⁽き⁾るが如くなるを以て大率⁽おおむね⁾二十歩にして佇立⁽ちょりつ⁾休息せざれば進みがたし為めに、意外に時を費やしたり

漸く進んで午前八時二合に至る、室は僅⁽わずか⁾に其⁽その⁾軒口⁽のきぐち⁾を現はす、此辺⁽このへん⁾三度八を示せり、雪は益々深く殆ど一尺一寸許⁽ばかり⁾、此辺は外面稍⁽やや⁾固く凍⁽こお⁾りたる所あれども下部は猶⁽なお⁾融解して水となれり、故⁽ゆえ⁾に或⁽あるい⁾は幸いに右足⁽うそく⁾は没せざることを得るも、左足⁽さそく⁾は一尺内外も陥没し、為に之れに吸付⁽すいつき⁾且つ食糧、衣服、携帯品等を身辺に纏⁽まと⁾うが故に、眞⁽しん⁾に蹌々踉々⁽そうそうろうろう⁾として甚だ進み難し、自ら勇を鼓して登れども今は十歩にして休まざれば足堪えがたきを覚えたり、尤⁽もっと⁾も寒気は時々⁽じじ⁾手記する時の外、殆ど手套⁽しゅとう⁾を要せざる位なりしを以て、幸いに凍傷を患⁽うれ⁾ふるに至らざりし

前述の模様にては進行極めて困難にして、頂上に達せんには幾時⁽いくとき⁾を要すべきや測り難く、今回も亦⁽また⁾⁽あるい⁾は望みを達し得ざるかと躊躇しつつ、幾度か引き返さんかと思いたれども、今に至りて下るには上りよりも危険なりと自ら仮想しつつ、今より後ろを見まじと決心し、歩を拾いつつ午前八時三十分二合二尺に達す、此辺⁽このへん⁾三度を示せり

此室は雪の為に殆ど埋没し、室なるや否や予め知りたるものにあらざれば、弁知⁽べんち⁾し難き程なり、是より先き三角標の左方の凹所⁽おうしょ⁾に、富士には珍らしき巾二間許⁽ばかり⁾の一大渓流の轟々として波立ちて奔下⁽ほんか⁾するを見しが、一合の少し下にて二派に分⁽わか⁾る、一は宝永山の麓より、一は二ツ塚の北麓⁽ほくろく⁾より来⁽きた⁾るものなり、是れ前に記⁽しる⁾したる如く、俄⁽にわか⁾に暖気に遇ふて溶解したる雪の注流するなり、ゆえに之を渡らざれば近づくこと能はず、而して二合二勺⁽せき⁾⁽へん⁾は雪の深さ凡⁽およ⁾そ一尺三寸許⁽ばかり⁾、茲⁽ここ⁾に至り最も喜ぶべきは、漸次登るに従い温度を減ずるが為に積雪の表面次第に凝結するに在り、此辺⁽このへん⁾は已に足を没せず、始めて行路の難⁽かた⁾かりしを追想しつつ安堵の思⁽おもい⁾を為せり、是⁽ここ⁾に於て勇気頓⁽とみ⁾に加わりしも一笑⁽いっしょう⁾なりし、暫く氷上に踞⁽きょ⁾して休息し遥かに後方を望めば、足柄箱根其他の諸山は白雲の為に蔽⁽おお⁾われ、東京湾は未だ見ることを得ざりしも、伊豆の大島は望遠鏡を借らざるも能⁽よ⁾く雲を踰⁽こえ⁾て遥かに認むることを得たり

⁽ここ⁾に於て瀧河原より携⁽たずさ⁾ふる所の鉄靴⁽かなぐつ⁾を毛靴⁽けぐつ⁾の下に結着⁽ゆいつ⁾けて進行す、而⁽しか⁾して表面次第に凝結するが故⁽ゆえ⁾に行路極めて容易⁽たやす⁾く、恰⁽あたか⁾も夏期の登山に異ならず、極めて力行⁽りょくこう⁾しつつ午前八時五十五分三合に達す、顧⁽かいれみ⁾れば太郎坊辺は一帯の雲棚引⁽たなび⁾き、降雨あるものの如し(未完)

 新字新仮名

本日は朝来(ちょうらい)已(すで)に天候宜(よろ)しからず、加うるに東京出発以来日々温暖なりしが、この地も前回に比すれば遥かに暖かなり、午後四時はたして雨は風に和して降ることあたかも車軸を流すがごとし、勢い次第に加わり風に和して降る、その音は、雨水の奔流と積雪の融解して流下する音と相和して情勢極めて猛烈なり、燭(しょく)をとって間隙(かんげき)より外面を窺えば、暗黒にして物色を弁じがたきも、奔下する水は小屋の四面を囲み、あたかも河中の一亭に異ならず

午後九時頃雨水いずれよりか屋内に侵入して、瞬時に深さ寸余に及び、焚火を打ち消したちまち暗闇黒となる、よってその源を探り、鶴嘴を採て庭の一隅を穿(うが)ちもって水の侵入を防がんとすれども、地盤凝結して容易に打ち起こすべからず

やむを得ず庭内一段高き処に移りたれども、風床下より烈しく来たりて火を吹き消し容易に燃え付かず、あたかもよき石油の空缶ありたるを発見したれば、これを竃(かまど)に代用し、床上僅かに暖を採ることを得たり、午後九時五十五分北に当たりて電光雷鳴あり、十時十五分風差強くその怒号する雷鳴のごとし、颪(おろし)のたびごとに小屋の四隅はミシミシと響き、いつ吹き倒れんかと危ぶむばかり転(うた)た胆(たん)をして寒からしめたり

この小屋は室にあらざるがゆえに、南西隅の床上に殆んど五寸角二間もあらんかと思う木材を数十本積累(つみかさ)ね置けり、前回はなはだこれを怪しみしが、今回大風に遭い、初めて小屋のおさえなることを推知しえたり、翌日午前二時に至るも風雨共にやまず、三時に至り雨少しく勢いを減ず、午前六時に及び全く静穏に帰したり、十五日午後六時より翌十六日午前六時迄、実に十二時間風雨終始ほとんど同一の勢いをもって吹き続きたるとその勢いの猛烈なるとは、予未だかつて見ざる処なり、同処に着したる以来滞留中試みに毎時温度を観測せり、もっていささかその一班を窺うに足らんか、今回も寒暖計の位置観測等一層注意をなしたり(温度の観測表は略す)

今回は気候はなはだ温暖なしりをもって、前回に比すれば夜半といえども、いささか寒気を覚ゆることなく、もし異変の兆にあらざるかと心痛する程なりし、予は初め遅くとも午前三時には発足の心算なりしも、温度極めて異常なり、且つ風雨猛烈にして到底小屋を離れ難きにより、残念ながら静たんに帰するをまち、午前六時三十分同所を発せり、この時六度二を示せり、空合、未だ全く旧に復せずといえども、時次第に移るをもって勇を鼓して急行す、昨日までは太郎坊より上はほとんど満面積雪なりしが、夜来の雨と暖気とにより陸地測量部の三角標の辺までは積雪大に消失するを見る、この処に半ば破損したる小屋あり、用材の折れ目の新しきをもって考うれば、全く夜来大風のため吹き折られたるものなるべし、西南の風はまた少しく吹いて進行はなはだ苦しむ、且つ風に吹き去られんとするため行李(こうり)を解いて眼鏡又は靴等を取り出すに極めて困難なり、仰げば満山皚々(がいがい)として、積雪寸隙なし、しかれどもただ二つ塚と宝永山頂の南面の凹処及び本山の頂は、白砂を被るがごとく雪極めて薄し 

而(しか)してこの辺はいまだ前回のごとくに氷結せず、白雪は時に宝永山頂の辺より斜めに本山を掠(かす)めて走る、その光景朧朧(ろうろう)としてすこぶる凄愴なり、漸く進んで午前七時一合目に達す、この辺四度六を示せり、而して太郎坊を出でてより実に一時間を費やせり、これ他なし、三角標の辺より上は、積雪深さほとんど八寸かつ表面は薄く凍りたるも、暖気のために下部二三寸は已に融解せり、その状あたかも凝結せる水田を渉(わた)るに異ならず、故に踏み込み又は引き抜くに当り、氷の辺縁にて足を傷つくるの恐れあるをもって毛靴にかえて進む、而して膝より下はズボン、靴共に浸潤して重く且つ冷やかなること斫(き)るがごとくなるをもって大率(おおむね)二十歩にして佇立(ちょりつ)休息せざれば進みがたし、ために意外に時を費やしたり

漸く進んで午前八時二合に至る、室は僅かにその軒口を現わす、この辺三度八を示せり、雪は益々深くほとんど一尺ちょっとばかり、この辺は外面やや固く凍りたる所あれども下部はなお融解して水となれり、ゆえにあるいは幸いに右足は没せざることを得るも左足は一尺内外も陥没し、為にこれに吸い付きかつ食糧、衣服、携帯品等を身辺に纏(まと)うが故に真に蒼々踉々(そうそうろうろう)としてはなはだ進み難し、自ら勇を鼓して登れども今は十歩にして休まざれば足堪えがたきを覚えたり、最も寒気は時々手記する時の外、ほとんど手套(しゅとう)を要せざる位なりしをもって、幸いに凍傷をうれうるに至らざりし

前述の模様にては進行極めて困難にして、頂上に達せんには幾時を要すべきや測り難く、今回もまたあるいは望みを達し得ざるかと躊躇しつつ、幾度か引き返さんかと思いたれども、今に至りて下るには上りよりも危険なりと自ら仮想しつつ今より後ろを見まじと決心し、歩を拾いつつ午前八時三十分二合二尺に達す、この辺三度を示せり

この室は雪のためにほとんど埋没し室なるや否やあらかじめ知りたるものにあらざれば、弁知し難き程なり、これより先三角標の左方の凹所に、富士には珍しき幅二間ばかりの一大渓流の轟々として波立ちて奔下するを見しが、一合の少し下にて二派に分る、一は宝永山の麓より、一は二ツ塚の北麓より来るものなり

これ前に記したるごとく、にわかに暖気に遇うて溶解したる雪の注流するなり、ゆえにこれを渡らざれば近づくことあたわず、而して二合二勺辺は雪の深さおよそ一尺三寸ばかり、ここに至り最も喜ぶべきは、漸次登るに従い温度を減ずるがために積雪の表面次第に凝結するにあり、この辺は已に足を没せず、始めて行路の難かりしを追想しつつ安堵の思をなせり

これにおいて勇気頓(とみ)に加わりしも一笑なりし、しばらく氷上に踞(きょ)して休息し、遥かに後方を望めば足柄箱根その他の諸山は白雲のために覆われ、東京湾は未だ見ることをえざりしも、伊豆の大島は望遠鏡を借らざるもよく九尾を踰えて遥かに認むることをえたり

ここにおいて滝河原より携うる所の鉄靴を毛靴の下に結び着けて進行す、而して表面次第に凝結するが故に行路極めてたやすく、あたかも夏期の登山に異ならず、極めて力行しつつ午前八時五十五分三合に達す、顧みれば太郎坊辺は一帯の雲棚引き、降雨あるもののごとし(未完)



MZ-04

 場所  月日 発着時刻 気温  記事
東京小石川 2月14日  4:45 発   徒歩 
山北 2月15日 9:13 着    
御殿場   10:02 着   徒歩約29時間
瀧河原   12:00 着

7.1

 
    12:30 発    
馬返し   14:30 着 6.1  
太郎坊   15:45 着 3.9  
 小屋    21:00 着    
  2月16日  6:30 発  6.2  
一合目   7:00 着 4.6  
二合目   8:00 着 3.8  
二合二勺   8:30 着 3.0  
三合目   8:55 着

 1.7

 
五合目   9:35 着 -4.5  
七合目   10:20 着 -10.5  
頂上   12:55 着 -18.2  
    13:15 発   剣ヶ峯は断念
太郎坊   15:30 着 8.5  
瀧河原   16:30 着 9.8  
御殿場   17:14 着  

🏃‍♂️駆け足

    17:20 発   🚂汽車
資料番号  MZ-04
資料名

第二回冬期富士登山記(承前)

年代

 1895年(明治28年) 9月13日

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
旧字旧仮名

是より先一合辺より此の辺迄は、積雪の上を掠めて山上より吹下する風は時々小粒の雪塊を飛ばす、其の状恰も吹雪に異ならず、此の時は気息奄々たるのみならず面部を打つ、恰も劈(つんざ)くかを怪しまれ、到底面を向く可らず、此の辺一度七を示せり

室は二号二勺に比すれば稍々現出せり、須臾(しゅゆ)にして一天全く晴を放てり、日光の雪に映ずる有様は、前回に異ならざりしも、今回は積雪寸隙なきを以て、燦爛(さんらん)として殊に美観を呈せり

四合五合の室は、何れの辺なるや埋没して認知し難きも、予は夏期登山せしとき、五合は宝永山の北部に在ることを粗(ほぼ)知るが故に、茲にて寒暖計を案ずるに零度以下四、五を示せり、時に午前九時三十五分なり、瀧河原の與平治なるもの、五合の室は予が所有なり、昨夏下山の節薪炭少許を残し置きたれば、若し入ることを得ば暖を採られよと言ひしも、今来て見れば、雪中に埋没して何れの辺なるや案知し難し

此の辺より上は寒気俄かに加わり、凝結次第に固きを加ふ、是より以上の室も亦埋没して知るべからざるを以て、及ぶ限り直接に進みしが、僅かに室たることを認め得べき所に達したり

稍々進むに従ひ、始めて七合たることを知り得たり、此の辺零度以下十度五を示せり、時に十時二十分なり

是より先き五合と七合の殆ど半ばより、積雪は堅氷に変じ、前回三合の辺に於て見し者に異ならず、予は初めより鉄靴は恐らくは堅氷には堪え能はざらんと察せしに、是に至りて果たして滑りて用をなさず、乃ち予が前回経験の後作りし所の釘底の靴を穿ちて登りしに、案の如く好結果を奏したり、此の靴を以てすれば、十中の八九は滑る患いなし

予は前回に懲り、今回は俗に鶴嘴と称する工夫用の器具を携帯せしが、足元確かなりしため、強ち此の器を用ふるに及ばず、且つ其の目方頗る重きが故に終始携帯せんこと随分難渋なり、靴底の釘今回の如く好結果を奏する上は、少し大形の鳶口にて之を倒(さかさ)にすれば、杖に代用し得るもの最も便利なることを実験し得たり、然れども鶴嘴も七合辺より上は、常に之を打込み起立しつつ歩を進めたり

此の時身は俄かに雲中の人となれり、四方朦朧として方向を失せしが力(つと)めて路の易きを撰び、唯上へ上へと猛進せしに、零時五十五分俄然頂上に出でたり、零度以下十八度二を示せり、是に於て頓(とみ)に飢餓を催はせしかば、氷上風なき岩窟の陰に踞して、携ふる所の肉食麺麭(パン)等を取り出し昼食を喫す、此の度は前回に懲りたれば、麺麭は深く毛布の中に包み置きたれば、前回の如く乾燥せざりしも、味は更になし

此の處は銀水の傍らなりしを以て、夫(それ)より室の辺に攀じ上りしに、神社其の他二三の室は、夏期下山の時、入口に石を畳み下山したるものと見え、何れが入口なるや知り難きを以て、到底室内に入るべきやうなし、而して其の表面に凍り詰めたる雪を被ぶる有様は、恰も古代の塚を見るの想いをなせり、此の辺は表面凝結して、積雪の深さを測知し難しと雖も、おそらくは二尺を踰(こ)えざるべし

中央孔穴の淵に臨み、望遠鏡を採て其の周囲を望むに、一種凄愴なる光景は転(うた)た写真機を携へざりしを憾(うら)ましめたり、右方なる俗にセイシガ窪叉はサイの河原と称する辺は、地中猶ほ熱気を含み、鶏卵の如きは土中に埋むること十分時にして能く半熟となし、叉一瓶の酒須臾(しゅゆ)にして暖まり、時に或は風呂の湯を沸かすを得るは、夏期登山者の往々試むる所なるよしを聞きしが、此の辺は未だ全く雪を見ず

其の他左方にあたる剣ケ峯の如き、恰も白砂を被ひたるが如く透き徹りて、薄黒く峯の実態を認むることを得たり、而して孔穴は常に白雲を吐くが故に甲州側は確かに認め難し、孔内は夏期登山せし時見しよりも、幾分か浅きを感じたれば、極めて積雪の最も多かるべけれども、到底孔内に下り得べきに非ざるにより測知し難し

初め予は行き得べくんば剣ケ峯に至らんと期せしも、昨夏登山の時、大風のために不幸にして頂上を一周すること能はざりしを以て、今其の案内を知るに由なきのみならず、西南の風極めて強く寒気も亦次第に厳烈を加へ、且つ茲より詳らかに見ることを得たれば、遂に之を断念したり、予は記念として一小石塊なりとも携へ帰らんと欲し、之を求めたれども、凝結せる積雪は満面を封じて手を下さざらしめたり、予が此の行は、専ら積雪の量を観測するにあるを以て、強ち滞在するの必要を見ず、且つ天候次第に悪しきを以て、午後一時十五分下山に決し戦々兢々として元(もと)来し道を下る

前回は足元確かならざりしため、匍匐しつつ退歩せしが、今回も前回に劣らざる堅氷なるも、靴裏の釘確かなりしため、處によりては殆ど夏期の下山に異ならず、意外に容易なりしは無上の幸なりし、登山の時の如く凝結の模様により、便宜、或は革靴、或は毛靴を用ひつつ急行す、勿論途中屡々滑りしことあるも、前回の如く甚だしからず、二合二勺辺より身は再び雲中の人となりしも、渓流に沿ふて下り、幸いに太郎坊を失はざることを得たり、午後三時三十分太郎坊に帰着す、此の時八度五を示す

午後四時三十分瀧河原與平治方に着す、九度八を示せり、是より先き頂上にて下山に決するや、午後五時二十分御殿場発車前に同所に至らんと欲し、及ぶ限り急行し、太郎坊より御殿場までは殆ど駆け足しつつ急ぎしに、幸いに五時十四分同所に達することを得たり、須臾(しゅゆ)にして発車帰途に就きたり              (未完)

新字新仮名

これより先一合辺よりこの辺迄は、積雪の上を掠(かす)めて山上より吹下する風は時々小粒の雪塊を飛ばす、その状あたかも吹雪に異ならず、この時は気息奄々(きそくえんえん)たるのみならず面部を打つ、あたかもつんざくかを怪しまれ、到底面を向くべらず、この辺一度七を示せり

室は二号二勺に比すれば稍々(やや)現出せり、須臾(しゅゆ)にして一天全く晴を放てり、日光の雪に映ずる有様は、前回に異ならざりしも、今回は積雪寸隙(すんげき)なきをもって、燦乱(さんらん)としてことに美観を呈せり

四合五合の室は、何れの辺なるや埋没して認知し難きも、予は夏期登山せしとき、五合は宝永山の北部にあることをほぼ知るが故に、ここにて寒暖計を案ずるに零度以下四、五を示せり、時に午前九時三十五分なり、滝河原の与平治なるもの、五合の室は予が所有なり、昨夏下山の節薪炭少しばかりを残し置きたれば、もし入ることを得ば暖を採られよと言いしも、今来て見れば、雪中に埋没していずれの辺なるや案知し難し

この辺より上は寒気にわかに加わり、凝結次第に固きを加う、これより以上の室もまた埋没して知るべからざるをもって、及ぶ限り直接に進みしが、僅かに室たることを認め得べき所に達したり

稍々(やや)進むに従い、始めて七合たることを知り得たり、この辺零度以下十度五を示せり、時に十時二十分なり

これよりさき五合と七合のほとんど半ばより、積雪は堅氷に変じ、前回三合の辺において見しものに異ならず、予は初めより鉄靴は恐らくは堅氷には堪(た)えあたわざらんと察せしに、これに至りて果たして滑りて用をなさず、乃(すなわ)ち予が前回経験の後作りしところの釘底の靴を穿ちて登りしに、案のごとく好結果を奏したり、この靴をもってすれば、十中の八九は滑る患いなし

予は前回に懲り、今回は俗に鶴嘴と称する工夫用の器具を携帯せしが、足元確かなりしため、強(あなが)ちこの器を用うるに及ばず、且つその目方すこぶる重きが故に終始携帯せんこと随分難渋なり、靴底の釘今回のごとく好結果を奏する上は、少し大形の鳶口にてこれを倒(さかさ)にすれば、杖に代用し得るもの最も便利なることを実験し得たり、然れども鶴嘴も七合辺より上は、常にこれを打込み起立しつつ歩を進めたり

この時身はにわかに雲中の人となれり、四方朦朧(もうろう)として方向を失せしが力(つと)めて路の易きを選び、ただ上へ上へと猛進せしに、零時五十五分俄然頂上に出でたり、零度以下十八度二を示せり、これにおいて頓(とみ)に飢餓を催わせしかば、氷上風なき岩窟(がんくつ)の陰に踞して、携うる所の肉食、麺麭(パン)等を取り出し昼食を喫す、この度は前回に懲りたれば、麺麭は深く毛布の中に包み置きたれば、前回のごとく乾燥せざりしも、味は更になし

この処は銀水の傍らなりしをもって、それより室の辺に攀じ上りしに、神社その他二三の室は、夏期下山の時、入口に石を畳み下山したるものと見え、いずれが入口なるや知り難きをもって、到底室内に入るべきようなし、而(しか)してその表面に凍り詰めたる雪を被(こう)ぶる有様は、あたかも古代の塚を見るの想いをなせり、この辺は表面凝結して、積雪の深さを測知し難しといえども、おそらくは二尺を踰(こ)えざるべし

中央孔穴の淵に臨み、望遠鏡を採てその周囲を望むに、一種凄愴なる光景は転(うた)た写真機を携えざりしを憾(うら)ましめたり、右方なる俗にセイシガ窪又はサイの河原と称する辺は、地中なお熱気を含み、鶏卵のごときは土中に埋むること十分時にして能(よ)く半熟となし、又一瓶の酒須臾(しゅゆ)にして暖まり、時にあるいは風呂の湯を沸かすを得るは、夏期登山者の往々試むる所なるよしを聞きしが、この辺は未だ全く雪を見ず

その他左方にあたる剣ケ峯のごとき、あたかも白砂を被いたるがごとく透き徹りて、薄黒く峯の実態を認むることを得たり、而して孔穴は常に白雲を吐くが故に甲州側は確かに認め難し、孔内は夏期登山せし時見しよりも、幾分か浅きを感じたれば、極めて積雪の最も多かるべけれども、到底孔内に下り得(う)べきに非(あら)ざるにより測知し難し

初め予は行き得べくんば剣ケ峯に至らんと期せしも、昨夏登山の時、大風のために不幸にして頂上を一周すること能(あた)わざりしをもって、今その案内を知るに由(よし)なきのみならず、西南の風極めて強く寒気もまた次第に厳烈を加え、かつここより詳らかに見ることを得たれば、ついにこれを断念したり、予は記念として一小石塊なりとも携へ帰らんと欲し、これを求めたれども、凝結せる積雪は満面を封じて手を下さざらしめたり

予がこの行は、専ら積雪の量を観測するにあるをもって、強(あなが)ち滞在するの必要を見ず、且つ天候次第に悪しきをもって、午後一時十五分下山に決し戦々恐々として元(もと)来し道を下る、前回は足元確かならざりしため、匍匐(ほふく)しつつ退歩せしが、今回も前回に劣らざる堅氷なるも、靴裏の釘確かなりしため、処(ところ)によりてはほとんど夏期の下山に異ならず、意外に容易なりしは無上の幸いなりし、登山の時のごとく凝結の模様により、便宜、あるいは革靴、あるいは毛靴を用いつつ急行す、もちろん途中しばしば滑りしことあるも、前回のごとくはなはだしからず、二合二勺辺より身は再び雲中の人となりしも、渓流に沿うて下り、幸いに太郎坊を失わざることを得たり、午後三時三十分太郎坊に帰着す、この時八度五を示す

午後四時三十分、滝河原、与平治方に着す、九度八を示せり、これよりさき頂上にて下山に決するや、午後五時二十分御殿場発車前に同所に至らんと欲し、及ぶ限り急行し、太郎坊より御殿場まではほとんど駆け足しつつ急ぎしに、幸いに五時十四分同所に達することを得たり、須臾(しゅゆ)にして発車、帰途につきたり  (未完)


MZ-05

資料番号  MZ-05
資料名

第二回冬期富士登山記(承前)

年代

 1895年(明治28年) 9月14日

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 旧字旧仮名

要するに予は今回僅かに頂上に達することを得たりと雖も、東京出立前巳に三四日以来気候俄かに温暖なりしが、登山前日及び其の翌日も太郎坊滞留中観測せし結果の如く、気味悪きまでに暖かに且つ降雨ありしを以て、上層も亦其の割合に暖かなりしが如し

従って積雪も余程溶解したるには相違なし、然れども今回目撃せし所を以て推究すれば、稍々察知するに足るものあるが如し

前回にも記せし如く、上層に至るに従い積雪の薄きは疑いなきが如し、蓋し上るに風力の増すと時々吹雪の如く山下に吹き下ろすを見れば、到底雪のまま永く形を存すること能はざるによるものなるべし

畢竟(ひっきょう)一方には烈風のために時々吹き下されつつ、他方には酷烈なる寒気のために、次第に氷に化して収縮するが為めに、頂上には積雪割合に薄きにあらざるが、独り温度に至りては、不幸にも天候の異変に遭い、正確なるものを得ることと能はざりしは、頗る遺憾とする所なり

然れども夏期中、山居する古老の言に、異変は多くは三合前後の地に起こるが如しと云ヘルを以て考ふれば、五合以上に於て今回測りたる温度は、或は当山に於ける二月中旬相当の温度なるべきか、暫く疑いを存す

而して寒気は猶ほ此の上強くとも、充分に防寒具を備えなば、敢て畏るるに足らざるべし、叉雪も勿論處によりて厚薄はあるべきも、適当の地を撰ばば全く小屋を埋むるが如きことは、十中の八九は無かるべきを信ず

然るに風は已に太郎坊滞留中幸いに実験したる所を以て考ふれば、右三者中最も畏るべき者なるが如し、太郎坊辺に於てすら已に胆をして寒からしむることあり、頂上は果たして如何に猛烈なるべきか、想像するに餘あり

古老は往年一時に八人を失ひしことありと云へり、衣服は全く前回に異ならず、叉日の出の後は例に依りて須臾(しゅゆ)も青色眼鏡を放たざりし、而して今回携帯したものは工夫用の鶴嘴、毛布製の靴と通常の皮靴の底に、各十本宛の釘を打たるものと瀧河原より携へたる鉄靴なり

前回は通常の釘の如きものを靴底に打込みたりしが、堅氷に至りては円錐形に尖りたるものにては矢張り滑りて用を為す能はざりしを以て、今回作らしたる釘は、其の形漏斗の肩を両方より削り卸して中央に歯を立てるものに異ならず、歯の巾凡そ二分、其の脚の大きさ二寸釘位にして、長さ凡そ四分あり之を底に二列に歯を横に並行して各三本づつまた左右に滑るを防がんために中央に歯を縦に一本打込みたれば、恰も二分鑿を打ち並べたるが如くなるを以て、氷上を行くに殆ど滑るの患いなかりし

瀧河原にて猟師等の用ふる彼の鉄靴は、其の形靴にあらず、巾七分餘、厚さ一分強、長さ三寸の鉄の十字形にして、四方の端の裏に長さ四分の脚あり、而して十字形の内、其の一の両端に直径五分の鉄圏を附せり、之に紐を付け俗に土踏まずと称する辺に押し当て、足の甲に結び付くるものなり、之れは平地若しくは餘り堅からざる氷上には至って適当なるも、峻坂堅氷の上に試しに尚改良を加えざれば用を為し難し

而して茲に注意すべきは、年によりて異なるべきは勿論なれども、二月に入りて登山せんと欲せば、必ず粗大の藁靴を携ふるを可とす、否らざれば峻坂に臨み足を抜けば、其の跡に水凡そ三四寸も溜まるに至りては、進行實に容易ならず

此の一事は今回も亦殆ど登山の望みを絶たしめんとしたり、此の点より之を思えば、靴と杖と確かなれば斯かる困難を見んこと、夏期よりは寧ろ却って厳寒堅氷の候登攀する方、遥かに容易からんことを想はしめたり

予は前回までは、左程に登山の困難を感ぜざりしが、今回は前夜の大風雨と積雪の多く、且つ融解せると登るに従い、風の強かりしと吹き下ろす吹雪とは殊に困難を覚え得たるを以て、若し冬期登山せんとする人は或は二人同行するか、叉は充分に準備を整えざれば万一危急に臨むも四面茫漠として救助を求むるに由なく、遂には徒らに貴重の生命を失ふに至るべし、予が今回の行は、座上の想像を以て軽挙に出るの最も危険なることを告知するの已むを得ざるに至りたるの感なきにあらざるなり

予は又頂上に設くべき小屋組、地割用材若しくは備付物品の運搬方法等諸般の用事を帯び、五月二十日登山を試みたり、而して昨今の暖気は最早、満面氷雪の残留を許さず、僅かに二号二勺以上に残雪の散点するを見しが、遉(さすが)に五合目より七合五勺辺までは積雪猶ほ五寸内外にして、未だ地盤を見ること能はざりし、然れども表面は稍融解したるを以て之を攀づるに堅氷に於けるが如く困難ならず

而して六合目より以上の室は入口に石を畳みて密閉せり、故に室内を窺ふに由なしと雖も、五合目以下は開放するが故に、能く其の内に出入することを得たり、室内多くは雪の堆積するを見る、叉夏期所用の桶中には、猶ほ氷を結べり、午後二時三十分頂上に達す、氷点下八度を示せり、帰途積雪ある部分は多くは滑りて直下するを得たれば、意外に僅少の時間を以て帰着することを得たり、爾後(じご)瀧河原佐藤與平治方に宿泊し諸般の打合せをなし二十四日帰京の途に就きたり(完)

 新字新仮名

要するに予は今回僅かに頂上に達することを得たりといえども、東京出立前已に三、四日以来気候にわかに温暖なりしが、登山前日及びその翌日も太郎坊滞留中観測せし結果のごとく、気味悪きまでに暖かにかつ降雨ありしをもって、上層もまたその割合に暖かなりしがごとし

従って積雪もよほど溶解したるには相違なし、然(しか)れども今回目撃せし所をもって推究すれば、稍々(やや)察知するに足るものあるがごとし

前回にも記せしごとく、上層に至るに従い積雪の薄きは疑いなきがごとし、蓋(けだ)し上るに風力の増すと時々吹雪のごとく山下に吹き下ろすを見れば、到底雪のまま永く形を存すること能(あた)わざるによるものなるべし

畢竟(ひっきょう)一方には烈風のために時々吹き下されつつ、他方には酷烈なる寒気のために、次第に氷に化して収縮するがために、頂上には積雪割合に薄きにあらざるが、独り温度に至りては、不幸にも天候の異変に遭(あ)い、正確なるものを得ることと能わざりしは、すこぶる遺憾とする所なり

然れども夏期中、山居する古老の言に、異変は多くは三合前後の地に起こるがごとしといえるをもって考うれば、五合以上において今回測りたる温度は、あるいは当山における二月中旬相当の温度なるべきか、しばらく疑いを存す

而(しか)して寒気はなおこの上強くとも、充分に防寒具を備えなば、敢(あえ)て畏(おそ)るるに足らざるべし、又雪ももちろん処によりて厚薄はあるべきも、適当の地を選ばば全く小屋を埋むるがごときことは、十中の八九はなかるべきを信ず

しかるに風は已に太郎坊滞留中幸いに実験したる所をもって考うれば、右三者中最も畏るべき者なるがごとし、太郎坊辺においてすら已に胆をして寒からしむることあり、頂上は果たしていかに猛烈なるべきか、想像するに余りあり

古老は往年一時に八人を失いしことありといえり、衣服は全く前回に異ならず、又日の出の後は例によりて須臾(しゅゆ)も青色眼鏡を放たざりし、而して今回携帯したものは工夫用の鶴嘴、毛布製の靴と通常の皮靴の底に、各十本宛の釘を打ちたるものと滝河原より携えたる鉄靴なり

前回は通常の釘のごときものを靴底に打込みたりしが、堅氷に至りては円錐形に尖(とが)りたるものにてはやはり滑りて用をなす能わざりしをもって、今回作らしたる釘は、その形漏斗(ろうと)の肩を両方より削り卸して中央に歯を立てるものに異ならず、歯の巾およそ二分、その脚の大きさ二寸釘位にして、長さおよそ四分ありこれを底に、二列に歯を横に並行して各三本ずつまた左右に滑るを防がんために中央に歯を縦に一本打込みたれば、あたかも二分鑿(のみ)を打ち並べたるがごとくなるをもって、氷上を行くにほとんど滑るの患(うれ)いなかりし

滝河原にて猟師等の用うる彼の鉄靴は、その形靴にあらず、幅七分余、厚さ一分強、長さ三寸の鉄の十字形にして、四方の端の裏に長さ四分の脚あり、而して十字形の内、その一の両端に直径五分の鉄圏(てつかん)を付せり、これに紐を付け俗に土踏まずと称する辺に押し当て、足の甲に結び付くるものなり、これは平地もしくは余り堅からざる氷上には至って適当なるも、峻坂(しゅんぱん)堅氷の上に試しになお改良を加えざれば用をなし難し

而してここに注意すべきは、年によりて異なるべきはもちろんなれども、二月に入りて登山せんと欲せば、必ず粗大の藁靴を携うるを可とす、否(しか)らざれば峻坂に臨み足を抜けば、その跡に水およそ三四寸も溜まるに至りては、進行実に容易ならず

この一事は今回もまたほとんど登山の望みを絶たしめんとしたり、この点よりこれを思えば、靴と杖と確かなれば斯(か)かる困難を見んこと、夏期よりはむしろかえって厳寒堅氷の候登攀する方、遥かに容易(たやす)からんことを想わしめたり

予は前回までは、左程に登山の困難を感ぜざりしが、今回は前夜の大風雨と積雪の多く、かつ融解せると登るに従い、風の強かりしと吹き下ろす吹雪とはことに困難を覚え得たるをもって、もし冬期登山せんとする人はあるいは二人同行するか、または充分に準備を整えざれば万一危急に臨むも四面茫漠として救助を求むるに由なく、ついには徒らに貴重の生命を失うに至るべし、予が今回の行は、座上の想像をもって軽挙に出るの最も危険なることを告知するの已むを得ざるに至りたるの感なきにあらざるなり

予はまた頂上に設くべき小屋組、地割用材もしくは備付物品の運搬方法等諸般の用事を帯び、五月二十日登山を試みたり、而して昨今の暖気はもはや、満面氷雪の残留を許さず、僅かに二合二勺以上に残雪の散点するを見しが、さすがに五合目より七合五勺辺までは積雪なお五寸内外にして、未だ地盤を見ること能わざりし、然(しか)れども表面は稍(やや)融解したるをもってこれを攀ずるに堅氷におけるがごとく困難ならず

而して六合目より以上の室は入口に石を畳みて密閉せり、故(ゆえ)に室内を窺うに由(よし)なしといえども、五合目以下は開放するが故に、能(よ)くその内に出入することを得たり、室内多くは雪の堆積するを見る、又夏期所用の桶中には、なお氷を結べり、午後二時三十分頂上に達す、氷点下八度を示せり、帰途積雪ある部分は多くは滑りて直下するを得たれば、意外に僅少の時間をもって帰着することを得たり、爾後(じご)滝河原、佐藤与平治方に宿泊し諸般の打合せをなし二十四日帰京の途に就(つ)きたり(完)


MZ-06

資料番号  MZ-06
資料名

野中氏家族に送りたる書翰

年代

 1895年(明治28年) 9月15日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 内容

野中氏の富士登山記は前号にて完了せしが、猶⁽なお⁾⁽これ⁾に就き同氏より家族に送りし書面あり、乃⁽すなわ⁾ち左に掲ぐ

(前略)日々用材切組方督促、八月十日⁽ほぼ⁾成り、山上への運搬に着手、剛力共⁽ごうりきども霧中⁽むちゅう⁾列をなし背負⁽しょ⁾ひ上る有様は群蟻⁽ぐんぎ⁾が假山⁽つきやま⁾に餌物⁽えもの⁾を運ぶに異らず

同十二日 石工両名相伴ひ翌日剣が峯に至り、共々鶴嘴を執り敷地掘下た處⁽ところ⁾、偶々⁽たまたま⁾炎暑難堪⁽たえがたく⁾一名眩暈⁽げんうん⁾岩上に横臥⁽おうが⁾し業を執る能⁽あた⁾はず、他も疲労甚しきを以て休業

十四日 同様炎暑甚しく漸々⁽ようよう⁾掘下つつ殆んど二尺に及ぶ頃、左隅に堅硬なる岩石露出右隅は鶴嘴も入り難き程の堅氷にて自ら層をなし、今は如何とも為し難きに付、建前の日迄日光に晒⁽さら⁾すこととなし一先⁽ひとま⁾づ下山

同十八日 叉々⁽またまた⁾登山

翌十九日 石工人夫合わせて十六名登山

二十日 風雨寒気ともに強く仕事遣り切れ不申、人足⁽にんそく⁾二名労に堪えずして下り申し、午後霧弥々⁽いよいよ⁾深く咫尺⁽しせき⁾を辨ぜず衣服湿潤寒気に堪えず、一同人間の顔色を具⁽そな⁾ふるもの無之⁽これなし⁾(此夜⁽このよ⁾剣が峰に積み置きたる木材、杉皮、大澤内院辺へ吹き飛ばさんとせしも、幸いに一も失はざるを得申候)不得已⁽やむをえず⁾業を休み申候、此の夜雨少しく止みたるに乗じ、昨日来六合目に宿泊し居りたる大工五名登山

翌二十二日 建前に取り掛かり申候去れども、叉々濃霧咫尺⁽しせき⁾を辨⁽べん⁾ぜず、寒気漸く強く手足の働き意の如くならず、人足業を休むもの十三人、残りて共に働き呉るもの僅かに三人に至りたる時の如き、殆ど当惑致し候、併し桁廻り羽目板まで打付け、石屋は前面下段半ば相済み午後六時引取

二十三日 炎暑の為に頭痛を患ふる者三人、労に堪えずして岩上に臥し終に業を休む

二十四日 石工前廻り石垣成る、大工中仕切りの野地⁽のじ⁾成る、午後七時業を終わる

二十五日 濃霧正午頃より風雨寒気共に強く午後不得巳⁽やむをえず⁾一旦休業、風雨の歇⁽や⁾むを俟⁽ま⁾ちしも、漸く強くなるのみにして其⁽その⁾甲斐なし、四時半帰室、此⁽この⁾夕建前の祝いのためにとて瀧河原を始め途室⁽としつ⁾仲間一同より大鏡餅二重小生へ寄贈し来る

二十六日 風雨尚⁽なお⁾⁽や⁾まず午後休業、今日人夫一人労に堪えずして下山、午前風雨寒気にも拘わらず、大工取り急ぎ仕事致し、悉皆⁽しっかい⁾落成、大工一同下山、此日⁽このひ⁾酷烈なる風雨を冒して屋根裏板の上に杉皮を葺きし時などは随分酷烈なる仕事にて、職人等一同に対し誠に気の毒に思ひたりしも、或は慰め、或は励まし、辛うじて之⁽これ⁾を果たすことを得候ひき、然れども時候の関係と最終登山の期相迫り候とにより、破竹の勢を以て工事を迫り立てたるも不得已⁽やむをえざる⁾次第に候

二十七日 杉皮圧へ縁を亜鉛線にて〆付⁽しめつ⁾け、其⁽その⁾上に寸隙もなく石を畳み、茲⁽ここ⁾に全く工事を終わりしは此⁽この⁾日正午なりし、社頭⁽しゃとう⁾叉は気象台出張所其他⁽そのた⁾室々等へ一々用事相済まし、午後四時半石工十二名と共に下山同九時瀧河原に目出度⁽めでた⁾く帰着⁽きちゃく⁾仕候⁽つかまつりそうろう⁾、剣ケ峯は社⁽やしろ⁾より五丁ほど左りの方⁽かた⁾高く聳⁽そび⁾えたる一峯⁽ぽう⁾に有之⁽これあり⁾候故⁽ゆえ⁾、石工⁽いしく⁾が大⁽だい⁾なる岩石に上り石を打ち割る有様⁽ありさま⁾、叉⁽また⁾は空洞⁽くうどう⁾になりたる岩石の上に鶴嘴⁽つるはし⁾を揮⁽ふる⁾ひ、叉は石を背負梯子⁽しょいばしご⁾にて濃霧⁽のうむ⁾断続⁽だんぞく⁾の中を運ぶ有様⁽ありさま⁾を社⁽やしろ⁾の辺⁽へん⁾より望⁽のぞ⁾むときは、人間は豆程⁽まめほど⁾に見え随分⁽ずいぶん⁾見ものに御座⁽ござ⁾候、山上風の強きため雨微塵になり恰⁽あかた⁾も濃き霧⁽きり⁾に異⁽こと⁾ならず、此の霧の衣服を潤すことは叉⁽また⁾格別に御座候、畢竟⁽ひっきょう⁾風の強きため吹き込む故かと存⁽ぞんじ⁾候、四面朦朧⁽もうろう⁾として咫尺⁽しせき⁾を辨⁽べん⁾じ難く、風凛々⁽りんりん⁾として手足の働き自由ならず、眉、口、髭、頭髪等白髪の如く霧を結び一同ウヅぶるひをなしつつ面⁽かお⁾を背⁽そむ⁾け、風雨を避けつつ仕事を致すときは随分猛烈にも亦⁽また⁾凄まじきものに御座候、殊⁽こと⁾に平地と異なり少し烈しく労働致すときは温和なる日にても息の切るるには困り申候、別而⁽べつして⁾烈風の時風に向へば大饅頭を口中に押し込まれたるかの如く呼吸出来申さず候、併し工事中一名の怪我人ありしのみにて、別段大怪我致したるものも無、之先づ仕合せに御座候

此度の工事に付いては、頂上本社並びに頂上表口室室瀧河原の佐藤與平次を始め、玉穂村有志の人々殊⁽こと⁾の外⁽ほか⁾盡力⁽じんりょく⁾致し呉⁽くれ⁾候、叉大工石工人夫等は別て場所の難儀なるにも拘わらず、一同必死と相成り働き呉れたるは、感歎の至りに候、明日より須山口一合目より薪炭を直ちに頂上に運ばせ候筈に御座候、母様祖母様等へ久敷御無音致し候に付き、此の書状の中危険叉は凄凄なる文詞は御省き相成り、面白き處⁽ところ⁾⁽だ⁾け御読み聞かせ被下⁽くだされ⁾無事の趣き御安心下候様⁽ごあんしんくだされそうろうよう⁾御伝声相願候⁽ごでんせいあいねがいそうろう⁾

 

野中氏の富士登山記は前号にて完了せしが、なおこれに就き同氏より家族に送りし書面あり、乃(すなわ)ち左に掲ぐ

 

(前略)日々用材切組方督促、八月十日粗(ほぼ)成り、山上への運搬に着手、剛力共霧中列をなし背負い上る有様は群蟻が築山(つきやま)に餌物(えもの)を運ぶに異らず

同十二日 石工両名相伴い翌日剣が峯に至り、共々鶴嘴を執り敷地掘下げた処、たまたま炎暑難堪一名眩暈(めまい)岩上に横臥し業を執る能(あた)わず、他も疲労甚しきをもって休業

十四日 同様炎暑甚しく漸々掘下しつつ殆(ほと)んど二尺に及ぶ頃、左隅に堅硬なる岩石露出、右隅は鶴嘴も入り難き程の堅氷にて自ら層をなし、今はいかんともなし難きにつき、建前(たてまえ)の日迄日光に晒すこととなし一まず下山

同十八日 又々登山

翌十九日 石工人夫合わせて十六名登山、

二十日  風雨寒気ともに強く仕事遣り切れ申さず、人足二名労に堪えずして下り申し候、午後霧弥々(いよいよ)深く咫尺(しせき)を弁ぜず衣服湿潤寒気に堪えず、一同人間の顔色を具(そな)うるもの無之(これなく)《この夜剣が峰に積み置きたる木材、杉皮、大沢内院辺へ吹き飛ばさんとせしも、幸いに一も失わざるを得(え)申候(もうしそうろう)》不得已(やむをえず)業を休み申候、この夜雨少しく止みたるに乗じ、昨日来六合目に宿泊しおりたる大工五名登山

翌二十二日 建前に取り掛かり申候、されども、又々濃霧咫尺(しせき)を弁ぜず、寒気漸く強く手足の働き意のごとくならず、人足業を休むもの十三人、残りて共に働き呉(くれ)るもの僅かに三人に至りたる時のごとき、ほとんど当惑致し候、しかし桁(けた)回り羽目板まで打付け、石屋は前面下段半ば相済み午後六時引取

二十三日 炎暑のために頭痛を患うる者三人、労に堪えずして岩上に臥し終(つい)に業を休む

二十四日 石工前回り石垣成る、大工、中仕切りの野地成る、午後七時業を終わる

二十五日 濃霧正午頃より風雨寒気共に強く午後不得巳(やむをえず)一旦休業、風雨の欠(や)むをまちしも、漸(ようや)く強くなるのみにしてその甲斐なし、四時半帰室、この夕、建前の祝いのためにとて滝河原を始め途室(としつ)仲間一同より大鏡餅二重、小生へ寄贈し来る

二十六日 風雨なお欠(や)まず午後休業今日人夫一人労に堪えずして下山、午前風雨寒気にも拘わらず、大工取り急ぎ仕事致し、悉皆(しっかい)落成、大工一同下山、この日酷烈なる風雨を冒して屋根裏板の上に杉皮を葺きし時などは随分酷烈なる仕事にて、職人等一同に対し誠に気の毒に思いたりしも、あるいは慰め、あるいは励まし、辛うじてこれを果(は)たすことを得候いき、然(しか)れども時候の関係と最終登山の期相迫り候とにより、破竹の勢をもって工事を迫り立てたるも不得已(やむをえざる)次第に候

二十七日 杉皮おさへ縁を亜鉛線にて〆付け、その上に寸隙もなく石を畳み、ここに全く工事を終わりしはこの日正午なりし、社頭又は気象台出張所その他室々等へ一々用事相済まし、午後四時半石工十二名と共に下山、同九時滝河原に目出たく帰着仕候、剣ケ峯は社より五丁ほど左の方高くそびえたる一峯に有之候故、石工が大なる岩石に上り石を打ち割る有様、又は空洞になりたる岩石の上に鶴嘴を揮い、又は石を背負梯子にて濃霧断続の中を運ぶ有様を社の辺より望むときは、人間は豆程に見え随分見ものに御座候、山上風の強きため雨微塵になりあたかも濃き霧に異ならず、この霧の衣服を潤すことは又格別に御座い、畢竟(ひっきょう)風の強きため吹き込む故かと存じ候、四面朦朧として咫尺を弁じ難く風凛々として手足の働き自由ならず、眉、口、髭、頭髪等白髪のごとく霧を結び一同ウヅぶるいをなしつつ面を背(そむ)け、風雨を避けつつ仕事を致すときは随分猛烈にもまた凄まじきものに御座候、ことに平地と異なり少し烈しく労働致すときは温和なる日にても息の切るるには困り申候、別而(べつして)烈風の時風に向えば大饅頭を口中に押し込まれたるかのごとく呼吸でき申さず候、しかし工事中一名の怪我人ありしのみにて、別段大怪我致したるものも無く、之(これ)まず仕合せに御座候

 

この度の工事に付いては、頂上本社並びに頂上表口室滝河原の佐藤与平次を始め、玉穂村有志の人々殊の外尽力致しくれ候、又大工石工人夫等は別(わ)けて場所の難儀なるにも拘わらず、一同必死と相成り働きくれたるは、感嘆の至りに候、明日より須山口一合目より薪炭を直(ただ)ちに頂上に運ばせ候筈(はず)に御座候、母様祖母様等へ久敷(ひさしく)御無音致し候につき、この書状の中危険又は凄凄なる文詞は御省き相成り、面白き處丈(ところだけ)御読み聞かせ被下(くだされ)無事の趣き御安心下候様(ごあんしんくだされそうろうよう)御伝声相願候(ごでんせいあいねがいそうろう)


MZ-07

資料番号  MZ-07
資料名

富士山測候所引払(ひきはらい)の期

年代

 1895年(明治28年) 9月19日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
旧字旧仮名 

目下中央気象台員出張の富士山頂の測候所は、来る二十日を以て最初予定の如く四十日の期限に充(みつ)るを以て、同日限り之を引き払ふ都合なりと、尤も予て同山の気象観測に熱心なる野中至氏が、冬期の観測を遂ぐる目的に今回私設測候所を設立するに付いては、中央気象台に於ても便宜上或る事項を同氏に嘱託する筈にて、此程和田技師が同山へ出張したるも、同台出張の測候所観察方々、野中氏へも気象観測の方法を指示するが為なりと

 新字新仮名

目下中央気象台員出張の富士山頂の測候所は、来(きた)る二十日をもって最初予定のごとく四十日の期限に充(みつ)るをもって、同日限りこれを引き払う都合なりと、尤もかねて同山の気象観測に熱心なる野中至氏が、冬期の観測を遂ぐる目的に今回私設測候所を設立するに付いては、中央気象台においても便宜上ある事項を同氏に嘱託するはずにて、この程和田技師が同山へ出張したるも、同台出張の測候所観察方々(かたがた)、野中氏へも気象観測の方法を指示するがためなりと


OM-10

資料番号  OM-10
資料名 富士山頂気象観測続聞
年代

 1895年(明治28年) 9月26日

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
旧字旧仮名

●富士山頂気象観測続聞

富士山頂気象観測の為め中央気象台より第二回として出張せる吉田清次郎、諏訪貫一両技手の担当に係る本月一日より同二十日の夜半に至る迄の観測の模様を聞くに、同山頂は追々寒気を増し、当時日中の最高温度大抵十度(摂氏)位にして、夜間は氷点以下に降れり、去る七八日頃九州より中国を経て日本海へ吹き抜けたる暴風の際は、同山頂も甚だしき影響を被り、七日の朝より暴風起り、剰(あまつ)さへ雨さへ加はりて、其の勢ひ頗る猛烈なりしが、翌八日の朝は極点に達し、観測用の器械中屋上に据付け置きたる雨量計に小破を生じ、風力計の如きも予備の分は屋上より吹き飛ばされて大破を受け、再び使用に堪えざらしめたれども、幸に観測に差支えを生ずる程には至らざりし、何様山頂の事とて小屋の動揺甚だしく、宛がら船中に在るが如く今にも転覆するかと思はるるばかりにて、観測の時は屋外に直立すること能はざるを以て匍匐(ほふく)して用を辨じたれども、小石飛び来たりて面を打ち、小屋の戸口は恰も小銃の乱発を受けるが如く、最も物凄き光景にて甚だ危険なりし、斯くの如き有様なれば耳の鼓膜は圧迫を受け心地悪しきと覚へんに、物なく依って綿を耳に嵌めて僅かに其の圧迫を防ぎたり、八日午後二時の風力一秒時間に五十八米突㍍一三なりしを以て見るも、其の猛烈なりしを知るに足らん為めに非常に寒気を増し、八日の正午は氷点下五度に降りたるを以て室内に在る物にても少しく湿気を帯びたる品は恰も棒の如く凍結せしが、其の後三四日は稍々平穏に帰したれども、時々濃霧の襲来甚だしく、咫尺(しせき)を辨ずるを能はず、十三日午後六時三十分頃より雪降り出し、翌十四日も終日飛雪(ひせつ)繽紛(ひんぷん)として降り、満山皚々として白砂を敷きたるが如き観を為したり、是れ同山に於ける本年の初雪なり、爾来一層寒気を増し、最低温度氷点下一度七なりしが、翌十五日午前六時には最低温度氷点下二度八に降りたり、是れ去八月十二日同山の観測に着手せし以来の最低度なりと、然るに其の後十七八日頃、即ち東京辺が俄かに暑気を増したる時は同山も暖気に復し、十八日の最高温度は十四度七なりしを以て、之が為めに雪は忽ち消滅したり

 新字新仮名

富士山頂気象観測のため中央気象台より第二回として出張せる吉田清次郎、諏訪貫一両技手の担当に係る本月一日より同二十日の夜半に至る迄の観測の模様を聞くに、同山頂は追々寒気を増し、当時日中の最高温度大抵十度(摂氏)位にして、夜間は氷点以下に降(くだ)れり、去る七八日頃九州より中国を経て日本海へ吹き抜けたる暴風の際は、同山頂もはなはだしき影響を被り、七日の朝より暴風起り、剰(あまつ)さえ雨さえ加わりて、その勢いすこぶる猛烈なりしが、翌八日の朝は極点に達し、観測用の器械中屋上に据付け置きたる雨量計に小破を生じ、風力計のごときも予備の分は屋上より吹き飛ばされて大破を受け、再び使用に堪えざらしめたれども、幸いに観測に差支えを生ずる程には至らざりし、何様(かよう)山頂の事とて小屋の動揺はなはだしく、さながら船中にあるがごとく今にも転覆するかと思わるるばかりにて、観測の時は屋外に直立すること能(あた)わざるをもって匍匐(ほふく)して用を弁じたれども、小石飛び来たりて面を打ち、小屋の戸口はあたかも小銃の乱発を受けるがごとく、最も物凄き光景にてはなはだ危険なりし、斯(か)くのごとき有様なれば耳の鼓膜は圧迫を受け心地悪しきと覚えんに、物なくよって綿を耳に嵌めて僅かにその圧迫を防ぎたり、八日午後二時の風力一秒時間に五十八米突㍍一三なりしをもって見るも、その猛烈なりしを知るに足らん、ために非常に寒気を増し、八日の正午は氷点下五度に降りたるをもって室内にある物にても少しく湿気を帯びたる品はあたかも棒のごとく凍結せしが、その後三四日は稍々(やや)平穏に帰したれども、時々濃霧の襲来はなはだしく、咫尺(しせき)を弁ずるを能(あた)わず、十三日午後六時三十分頃より雪降り出し、翌十四日も終日飛雪(ひせつ)繽紛(ひんぷん)として降り、満山皚々(がいがい)として白砂を敷きたるがごとき観をなしたり、これ同山における本年の初雪なり、爾来(じらい)一層寒気を増し、最低温度氷点下一度七なりしが、翌十五日午前六時には最低温度氷点下二度八に降りたり、これ去る八月十二日同山の観測に着手せし以来の最低度なりと、しかるにその後十七八日頃、即ち東京辺がにわかに暑気を増したる時は同山も暖気に復し、十八日の最高温度は十四度七なりしをもって、これがために雪はたちまち消滅したり


OM-14

資料番号  OM-14
資料名 野中至氏の事業
年代

 1895年(明治28年) 9月29日

新聞社

  東京朝日新聞

元データ 国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供 
旧字旧仮名

野中至氏の事業  社員昨日彼⁽か⁾の野中至氏に邂逅⁽かいこう⁾せしに、氏の曰⁽いわ⁾く、余⁽よ⁾は名聞⁽みょうもん⁾を売らんが為⁽た⁾めに富士山の冬期観測を企てたる者に非⁽あら⁾、大⁽おおい⁾に心に期⁽き⁾する所あり、多年⁽たねん⁾の宿志⁽しゅくし⁾を遂げんが為なるを以⁽もっ⁾て半途⁽はんと⁾に蹉跌⁽さてつ⁾せざらんことを欲し、成⁽な⁾るべく危険を避けんとして越年小屋の如⁽ごと⁾きも剣の峯の山腹に設置したり、是れ風弱き場所は積雪多く之⁽これ⁾に反して風強き場所は積雪少なかるべしとの見込を以て、殊更⁽ことさら⁾風強き剣の峯を選⁽えら⁾みたる次第なり 

⁽また⁾同山⁽どうさん⁾は九月十三日を以て山終⁽やまおわり⁾と称し、毎年此⁽この⁾日に至れば浅間神社の社務所員は勿論、途中の休息室の如きは悉皆⁽しつかい⁾閉鎖して登山季節の終⁽おわり⁾を告ぐる習慣⁽かんしゅう⁾なるを以て、十月以後⁽いご⁾明年⁽みょうねん⁾四五月に至る七八カ月間は、頂上と下界との交通全く絶ゆる見込にて、糧食⁽りょうしょく⁾の如⁽ごと⁾きも已⁽すで⁾に明年五六月頃迄⁽まで⁾の分を頂上に送付したり 

⁽しか⁾るに此の間、観測上中央の時計と頂上の時計を合わせ、且⁽か⁾つ時々⁽じじ⁾山頂の気象を報告するの必要あれども、他⁽た⁾に工風⁽くふう⁾なきにより夫⁽か⁾の回光器⁽かいこうき⁾を以て沼津測候所と相通ずる計画なるが、是迚⁽これとて⁾も濃霧に遮⁽さえ⁾ぎられ、到底毎日使用すること能⁽あた⁾はざあるべし 

先づ来⁽きたる⁾十月より明年四五月頃迄は、全く人間界を脱し、仙人⁽せんにん⁾気取りにて専⁽もっぱ⁾ら此⁽この⁾⁽ぎょう⁾に従事する覚悟なり云々、因⁽ちな⁾みに記⁽しる⁾す、氏は愈々⁽いよいよ⁾⁽こん⁾二十九日午前十一時四十五分新橋発の汽車にて出発、⁽みょう⁾三十日登山、来⁽きたる⁾十月一日より頂上の気象観測に着手する手筈⁽てはず⁾なりと云⁽い⁾

 新字新仮名

野中至氏の事業  社員昨日彼の野中至氏に邂逅⁽かいこう⁾せしに、氏の曰⁽いわ⁾く、余⁽よ⁾は名聞⁽みょうもん⁾を売らんがために富士山の冬期観測を企てたる者に非⁽あら⁾ず、大⁽おおい⁾に心に期⁽き⁾する所あり、多年⁽たねん⁾の宿志⁽しゅくし⁾を遂げんがためなるをもって半途⁽はんと⁾に蹉跌⁽さてつ⁾せざらんことを欲し、なるべく危険を避けんとして越年小屋のごときも剣の峯の山腹に設置したり、これ風弱き場所は積雪多く、これに反して風強き場所は積雪少なかるべしとの見込みをもって、殊更⁽ことさら⁾風強き剣の峯を選⁽えら⁾みたる次第なり 

また同山は九月十三日をもって山終⁽やまおわり⁾と称し、毎年この日に至れば浅間神社の社務所員⁽しゃむしょいん⁾はもちろん、途中の休息室のごときは悉皆⁽しつかい⁾閉鎖して登山季節の終⁽おわり⁾を告ぐる習慣なるをもって、十月以後明年四五月に至る七八カ月間は、頂上と下界との交通全く絶ゆる見込みにて、糧食⁽りょうしょく⁾のごときもすでに明年⁽みょうねん⁾五六月頃迄の分を頂上に送付したり 

しかるにこの間、観測上中央の時計と頂上の時計を合わせ、かつ時々⁽じじ⁾山頂の気象を報告するの必要あれども、他に工風⁽くふう⁾なきによりその回光器⁽かいこうき⁾をもって沼津測候所と相通⁽あいつう⁾ずる計画なるが、これとても濃霧に遮⁽さえ⁾ぎられ、到底毎日使用すること能⁽あた⁾わざるべし 

まず来十月より明年四五月頃迄は、全く人間界を脱し、仙人⁽せんにん⁾気取りにて専らこの業に従事する覚悟なり云々⁽うんぬん⁾、ちなみに記⁽しる⁾す、氏はいよいよ今二十九日午前十一時四十五分新橋発の汽車にて出発、明三十日登山、来⁽きた⁾る十月一日より頂上の気象観測に着手する手はずなりという


MZ-08

資料番号  MZ-08
資料名

郡司氏と野中氏

年代

 1895年(明治28年) 10月29日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ 溝口克己氏提供
 旧字旧仮名 野中至氏の富士山越年は、彼の郡司成忠氏の短艇遠征に次で近来の壮挙とも称せらるる所のものなり、去れば是の彼に対する殊に同情の深きもの在て存するなるべく、郡司氏は此の程、報効義会員松井峰吉、女鹿角英の二氏をして富士山に上り、野中氏を慰問せしむる事となしたりと、占守(しむしゅ)島と富士山頂の越年と苦何れか多き、蓋し亦両々相慰むるに足るものと謂うべし、因みに記す郡司氏は本年中は都合に依り滞京すると云ふ
 新字新仮名 野中至氏の富士山越年は、かの郡司成忠氏の短艇遠征に次いで近来の壮挙とも称せらるる所のものなり、さればこれの彼に対することに同情の深きものありて存するなるべく、郡司氏はこの程、報効義会員松井峰吉、女鹿角英の二氏をして富士山に上り、野中氏を慰問せしむる事となしたりと、占守(しむしゅ)島と富士山頂の越年と苦いずれか多き、蓋(けだ)しまた両々相慰むるに足るものと謂(い)うべし、ちなみに記す、郡司氏は本年中は都合により滞京するという


MZ-09

資料番号  MZ-09
資料名

野中氏の消息

年代

 1895年(明治28年) 12月17日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 

静岡県駿東郡の有志者が、野中氏慰問の為め再度富士登山を企て、去十二日漸く目的を達して野中氏夫妻に面会せし趣は前号電報中にも見えし如くなるが、尚其の詳細を聞くに、御厨警察分署新橋駐在所巡査平岡鐘次郎、玉穂村勝又恵造及び野中氏の実弟野中清等の諸氏は、剛力勝又熊吉、西藤鶴吉の両名を従え、鐘次郎、清の両氏は騎馬にて、十日午前六時瀧河原出発、午前八時十分太郎坊着、同所に於て登山の準備何呉となく用意なし馬を返して出発せしに、二合五勺目辺より早く已に一面の銀世界となり一歩は一歩より困難を感ぜるを以て、携帯の鳶口、唐鍬等を以て氷雪を砕き、辛うじて五合目に至る

之より積雪益々深く加ふるに、寒気零度下十度を示し、時々旋風吹き起りて岩の如き雪塊を巻上げ面を打って来る勢い凄まじ、一行は勇を鼓して上り、七合目にて積雪の為めに埋もれ居る室の戸を開きて休憩、時に午後三時なりし、是より風雪は益々甚だしかりしも、雪の積もり方は各所一様ならず、或は深く、或は浅し、是全く風の為なるべし、八合目の室に達せしは、午後五時二十分にて、其の夜は同所に一泊せしに、夜もすがら烈風吹き荒み、一行九人少刻だに微睡む能はず

翌朝に至つて尚止まざりしが、素より此処に逗留する訳にも行かざれば、午前八時半頃一行は苦痛を忍びて九合目の胸突下迄登る、然るに風雪益々烈しく、剛力の負へる荷物の如きは残らず吹き飛ばされ、最早一歩も進む能はざるより、止むを得ず八合目迄引き返し、再び其の夜を其処に明せり、翌朝は一行二手に分かれ、勝又恵造氏は剛力勝又熊吉を従へて先発、風を侵し雪を攀じて備に艱難辛苦を嘗めたる末、午前十一時四十分漸く頂上に達し、野中氏夫妻に面会することを得たり

夫妻は明年春暖の頃迄は、到底下界との交通はなきものと諦めて、只管(ひたすら)気象研究にのみ余念なかりし折柄、斯くゆくりなくも有志者に訪寄られたるとなれば、其の喜び喩へん方なし、時に頂上の最低温度は零度以下二十七八度位にて、佐藤氏の如きは口の上下髭は悉く氷結して、発音する能はず、火にて解かしたる上、漸く口を開くを得たり、扨(さて)野中氏夫妻の模様を見るに、別に異状は認めざるも、其の談話に拠れば、夏時と異なり逆上殊に甚だしきより、可成(なるべく)精神を労せざる様、書見(しょけん)等は一切廃止し、専ら気象観測にのみ従事し居れり

叉寒気の甚だしき一班を挙ぐれば、野中氏の居室には絶えず暖室爐(ストーブ)を焚きつつありて、時々入浴に代ふるに湯を以て身体を拭ふを例とせしに、近来は身を裂かるるほどの寒気にて、肌脱ぐこと能はず、為に数日来は是すら見合せとなしたる由、扨(さて)氏は記念として、過日郡司大尉より贈られし耐風マッチ一箱ずつを一行に配與し、一行は盡きぬ名残を惜しみながら午後一時十分出発、帰路に就きぬ、帰る時も風雪は前に劣らず、一行匍匐しつつ辛うじて八合目に着し、同所の室に夜を明かし、翌十二日午前八時出発、午後二時頃無事瀧河原に着したり

一行五人の内、剛力勝又熊吉は綽名を鬼熊と称し、富士山麓の剛力中最も屈強の者にて、今回の登山には殊に與(あずかつ)て効ありしとぞ、之が為五人共手足は凍傷を起し、今は火膨れの如く腫上れり、野中氏に向ひ諸方より送りし慰問状は、数十通の多きに及び居るも、突然の訪問といひ、殊には時間もなく、且つ寒気の為め、筆を執ること困難なれば、氏は何方へも返書を出し能はざれど、唯厳父勝良(東京控訴院判事)氏にのみは、鉛筆を以て左の覚書のものを認め送りたりと

 思ひ掛けず有志者の御慰問に預かり難有奉存候両人共先づ攝生を専一とし兎に角凌ぎ中候

頂上は夏時とは全く具合異なり逆上甚だしく返書杯認むること能はず木炭、石炭、薪三種の燃料中薪が最も適当致候に付き此の薪の盡きる迄は滞在の積もりに候

妻千代下山のことは迚も聞き入れ間敷に付き先ず只今の所にては引き続き滞在の積もりに候今日正午の温度零度下二十七度五分なり室内の物悉く凍らざるはなし毎日風と戦争を致し居候

下界の事思い出ずとやるせなく果ては大息するのみ併しツラキは固より覚悟の上の事なれば何事も辛抱辛抱気象學會を始め慰問状を辱うせし所へ返書を出さざれば可燃御伝えへ被下度此の地には医師もなく薬餌もなければ只風雪に身体をならすの外なし諸事試験中とは申しながらツラキは覚悟の前何事も御国の為めと唯々辛抱ズクに候

兎に角無事越年を遂げ度候頂上は一日として寧日なし此の地の寒気は到底筆に盡し難し一度寒中当地に浸食せしものは下界に於て苦いのマズイのと申す人の腹がわからん實に勿体なくて口に出された沙汰にあらず其の他の事は今回登山せられし諸君御聞取被下度候云々 

 新字新仮名

静岡県駿東郡の有志者が、野中氏慰問のため再度富士登山を企て、去十二日漸く目的を達して野中氏夫妻に面会せし趣は前号電報中にも見えしごとくなるが、なおその詳細を聞くに、御厨警察分署新橋駐在所巡査平岡鐘次郎、玉穂村勝又恵造及び野中氏の実弟野中清等の諸氏は、剛力勝また熊吉、西藤鶴吉の両名を従え、鐘次郎、清の両氏は騎馬にて、十日午前六時滝河原出発、午前八時十分太郎坊着、同所において登山の準備何呉(なにくれ)となく用意なし馬を返して出発せしに、二合五勺目辺より早く已に一面の銀世界となり一歩は一歩より困難を感ぜるをもって、携帯の鳶口、唐鍬等をもって氷雪を砕き、辛うじて五合目に至る

これより積雪益々深く加うるに、寒気零度下十度を示し、時々旋風吹き起りて岩のごとき雪塊を巻上げ面を打って来る勢い凄まじ、一行は勇を鼓して上り、七合目にて積雪のために埋もれいる室の戸を開きて休憩、時に午後三時なりし、これより風雪は益々はなはだしかりしも、雪の積もり方は各所一様ならず、あるいは深く、あるいは浅し、これ全く風のためなるべし、八合目の室に達せしは午後五時二十分にて、その夜は同所に一泊せしに、夜もすがら烈風吹き荒(すさ)み、一行九人少刻だに微睡(まどろ)む能(あた)わず

翌朝に至ってなお止まざりしが、もとよりここに逗留する訳にも行かざれば、午前八時半頃一行は苦痛を忍びて九合目の胸突下迄登る、しかるに風雪益々烈しく、剛力の負える荷物のごときは残らず吹き飛ばされ、もはや一歩も進む能わざるより、止むを得ず八合目迄引き返し、再びその夜をそこに明かせり、翌朝は一行二手に分かれ、勝又恵造氏は剛力勝又熊吉を従えて先発、風を侵し雪を攀じて備(つぶさ)に艱難辛苦(かんなんしんく)を嘗(な)めたる末、午前十一時四十分漸く頂上に達し、野中氏夫妻に面会することを得たり

夫妻は明年春暖の頃迄は、到底下界との交通はなきものと諦めて、只管(ひたすら)気象研究にのみ余念なかりし折柄、斯くゆくりなくも有志者に訪寄(といよ)られたるとなれば、その喜び例えん方なし、時に頂上の最低温度は零度以下二十七八度位にて、佐藤氏のごときは口の上下髭はことごとく氷結して、発音する能わず、火にて解かしたる上、漸く口を開くを得たり、さて野中氏夫妻の模様を見るに、別に異状は認めざるも、その談話によれば、夏時と異なり逆上ことにはなはだしきより、なるべく精神を労せざる様、書見(しょけん)等は一切廃止し、専ら気象観測にのみ従事しおれり

また寒気のはなはだしき一班を挙ぐれば、野中氏の居室には絶えず暖室炉(ストーブ)を焚きつつありて、時々入浴に代ふるに湯をもって身体を拭うを例とせしに、近来は身を裂かるるほどの寒気にて、肌脱ぐこと能わず、為に数日来はこれすら見合せとなしたる由、さて氏は記念として、過日郡司大尉より贈られし耐風マッチ一箱ずつを一行に配与し、一行は尽きぬ名残を惜しみながら午後一時十分出発、帰路に就きぬ、帰る時も風雪は前に劣らず、一行匍匐(ほふく)しつつ辛うじて八合目に着し、同所の室に夜を明かし、翌十二日午前八時出発、午後二時頃無事滝河原に着したり

一行五人の内、剛力勝又熊吉は綽名(あだな)を鬼熊と称し、富士山麓の剛力中最も屈強の者にて、今回の登山には殊(こと)に与(あずか)って効ありしとぞ、これがため五人共手足は凍傷を起し、今は火膨れのごとく腫上れり、野中氏に向い諸方より送りし慰問状は、数十通の多きに及びいるも、突然の訪問といい、殊(こと)には時間もなく、かつ寒気のため、筆を執ること困難なれば、氏は何方へも返書を出し能わざれど、ただ厳父勝良(東京控訴院判事)氏にのみは、鉛筆をもって左の覚書様のものを認(したた)め送りたりと

思い掛けず有志者の御慰問に預かり難有奉存候(ありがたくぞんじそうろう)、両人共まず摂生を専一とし、とにかく凌ぎ中候

頂上は夏時とは全く具合異なり逆上は甚だしく返書など認むること能わず、木炭、石炭、薪三種の燃料中、薪が最も適当致候につき、この薪の尽きるまでは滞在の積もりに候

妻千代下山のことはとても聞き入れ間敷(まじく)につき、まず只今の所にては引き続き滞在のつもりに候、今日正午の温度零度下二十七度五分なり室内の物ことごとく凍らざるはなし、毎日風と戦争を致し居候(おりそうろう)

下界の事思い出ずとやるせなく果(は)ては大息するのみ、しかしつらきはもとより覚悟の上の事なれば何事も辛抱辛抱、気象学会を始め慰問状を辱(かたじけの)うせし所へ返書を出さざれば可然(しかるべく)御伝え被下度(くだされたく)この地には医師もなく薬餌もなければただ風雪に身体をならすの外なし、諸事試験中とは申しながらツラキは覚悟の前、何事も御国のためとただただ辛抱ズクに候

とにかく無事越年を遂げたく候、頂上は一日として寧日(ねいじつ)なし、この地の寒気は到底筆に尽し難し、一度寒中当地に寝食せしものは下界において苦いのマズイのと申す人の腹がわからん、実に勿体(もったい)なくて口に出された沙汰にあらず、その他の事は今回登山せられし諸君御聞取被下度候云々(しょくんおききとりくだされたくそうろううんぬん)。


MZ-10

資料番号  MZ-10
資料名

野中氏の病勢危急

年代

 1895年(明治28年) 12月19日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ 溝口克己氏提供
 旧字旧仮名

富士山頂に気象観測を為せる野中至氏夫妻無事なりしことは、此の程同氏慰問の為登山せし富士山麓有志者並びに至氏の弟清氏等の報に依りて伝えられし所なれど、其の実は至氏の病勢頗る危殆(きたい)に瀕し居れるなり、然るに慰問登山者が同氏より硬く口止めせられしを以て、之を秘し居たりしなりとぞ、其の次第は昨日の報知新聞に詳しく掲げられたれば、乃ち同新聞に拠り之が大要を左に記さん

野中清氏の紀行中にも絶えて至氏の記さざるは、全く野中氏が固く口止めしたる結果にして、其の実を云えば、氏は目下病に侵され、到底今後数月間を山巓に送るべからざる危急の有様に立ち至り居れり、山麓玉穂村の有志者が、報知社に寄せたる書面及び玉穂村長松井永賜氏が此の儘に打ち捨て置くべきに非ず、何とか応急の手段を相談せんとて自身態々出京しての物語に依るに、至氏の容体は北海道其の他寒地に行わるる特殊の病気たる水腫病に罹れることにして、顔貌其の他痛く憔悴し、足部は脚気と同様に水腫を来し、氏が居室より観測室へ出掛くる間にも、ニ三回は小休みせねば一息には歩まれぬ危殆の容体を呈し居れりと云ふ、然るに野中氏は何故に健全なりと報ぜしめたるかといふに、氏は飽く迄も斃れて後に止むの決心を有すればなり、叉此の容体が如何にして知れたるか、慰問者勝又恵造氏が親切なる注意に依りてなり、過日山頂に野中氏を訪ひたる玉穂村の有志勝又恵造氏が野中氏に面会するや、氏の顔貌憔悴せるを見て、必定身体に異状あるべしと思ひて、心痛に堪えず之を問ひたるに、野中氏は平気な面色にて何事もあらずと答へしが、勝又氏は押し返して「不肖ながら僕は同志数百名の村民を代表し、此の慰問の任に當れるものにして、中心君の容貌に不安の恐れあるを感じながら其の由縁をも問い極めずして下山しては、独り僕の良心が許さぬのみならず、親切なる我が郷党に対しても済まぬ次第なれば、是非共包まず語られよと」切に問い質せしに、良人の心を酌みて、今まで黙し居りし至氏の令閨は、今は遂に思い切りて具に右の容体を勝又氏に告げたるより、至氏も左らば是非なしとて、其の脚部を勝又氏に示し、指にて押すに水腫の兆候歴然たり、且つ食欲も痛く減退して、気分甚だ宜しからずと其の実を明かしたれば、勝又氏此に至りて愈々其の容易ならぬに驚き、命ありての物種なれば是非に下山して、療養を盡し更に再挙を企てられよと、言葉を盡して至氏を諫めたれども、至氏は「段々の御芳志且つは山麓諸君の此の友愛、身に余りて千万忝なけれども始めより斃れて止むの決心を抱き、此の山巓に閉じ籠れる事なれば、病気に罹ればとて今更驚くべきに非ず、此の山上に観測の事業に従ふは至が天職なり、天職を全うし得んとて中道に倒れなば至は天命と諦めむべし、至に冬季越年高層観測の天職あるを知り、至は身命を此の天職に捧ぐべきを誓う、此の他には栄誉も無く、生命も無く、有らゆる何ものも無し、況や区区の病気をや、厳父慈母良師益友諸君の力に依りて建設せる此の観測所を枕にし浩然剣ケ峯に絶命せば、至の能事おわれり、亦何をか憾みんや、至は此の心を以て心とせる事なれば、友愛なる君よ、願わくは至をして此の微志を成さしめられよ、至は實に此処一寸も動かざるの決心を定めたり」と断然言い放ち、復た動かすべくもあらず、勝又氏も其の熱心に感激し、暗然涙を飲みて復た一語なし、至氏は重ねて「君よ、願わくば僕をして僕の志を成さしめよ、果たして僕の願いを容れられなば、下山の後は堅く此の事の秘密を保ち、至の親戚朋友何人たりとも、実を告げ給ふこと勿れ、只至は無事に山巓に在りと語り給へ」と懇々依嘱したれば、勝又氏も是非なく之を承諾し、此に袂を分かちたり、勝山氏は下山の後、至氏への約語を重んじ一たびは世間へ向けて同氏の無事を報じたるが、考ふれば考ふる程、打ち捨て置き難く、玉穂村長松井永賜氏に実を告げ、尚先に慰問の為め登山して其の行を果たさざりし御厨警察署長警部等へも事情を密航したるより諸氏は協議の上、筑紫警部は中央気象台の和田技師へ急報し、松井氏勝又氏等は厳父野中勝良氏への其の由を告げ、尚報知新聞に依頼して之を公表し、世の志士仁人に告げ、如何に此の鉄石の如き志士を救護すべきかの方案を求めんと手配する内、一昨日に至り松井村長も出京せり、此の松井氏は当初より頗る野中氏の挙を賛し、村民を糾合して大に氏の為に尽力する所ありし人なるが、勝又氏の報を得しより憂慮に堪えず其の後種々村内を斡旋する所あり、同村の医師瓜生駒太郎氏は豪侠快活頗る侠骨あるを以て、氏を山頂に赴かしめ、焦眉の手当を為すことを嘱せんか抔(など)種々考えしが、一先ず厳父を訪ひて百事を相談するに如かずと決し、態々上京して野中氏に至り、下山勧告救援者派遣の相談に及び周旋頗る勉めり、時に中央気象台の和田技師は予て野中氏の事業を嘉みし居りしが、此の急報に接して大に此の気象上有益の事業が中道にして挫折せんことを憂へ、其の筋にも稟議する所あり、沼津測候所出張の命を帯びて同地に至るを幸いとし昨日午前出発して雪中の登岳を試み、野中氏を要して下山せしむるの考へなりと云ふ、叉勝又氏の咄に依れば、至氏の夫人は登山の初発には疲労の為、疾病を起し後には扁桃腺(咽喉仏の近所に)蚕豆代の腫物を生ぜしが、至氏に迫りて之を切開し呉れよ求め、治療功を奏せざれば其れ迄のみ、死は初めより決し居れば請ふ人事を盡して止まんと云ふにぞ、至氏も是非なく錐にて右の腫物を突き破り化膿を排出せしが、此の気象家の外科治療意外に功を奏し、右腫物の治癒せし後は身体頗る健全と為り、甲斐甲斐しく良人を助け居れりと云ふ

 新字新仮名

富士山頂に気象観測を為せる野中至氏夫妻無事なりしことは、この程同氏慰問のため登山せし富士山麓有志者並びに至氏の弟清氏等の報によりて伝えられし所なれど、その実は至氏の病勢すこぶる危殆(きたい)に瀕しおれるなり、しかるに慰問登山者が同氏より硬く口止めせられしをもって、これを秘しいたりしなりとぞ、その次第は昨日の報知新聞に詳しく掲げられたれば、すなわち同新聞に拠りこれが大要を左に記さん

 

野中清氏の紀行中にも絶えて至氏の記さざるは、全く野中氏が固く口止めしたる結果にして、その実をいえば、氏は目下病に侵され、到底今後数月間を山巓に送るべからざる危急の有様に立ち至り居れり、山麓玉穂村の有志者が、報知社に寄せたる書面及び玉穂村長松井永賜氏がこのままに打ち捨て置くべきにあらず、何とか応急の手段を相談せんとて自身態々(わざわざ)出京しての物語によるに、至氏の容体は北海道その他寒地に行わるる特殊の病気たる水腫病に罹れることにして、顔貌その他痛く憔悴し、足部は脚気と同様に水腫を来たし、氏が居室より観測室へ出掛くる間にも、ニ三回は小休みせねば一息には歩まれぬ危殆の容体を呈し居れりという、しかるに野中氏はなぜに健全なりと報ぜしめたるかというに、氏は飽くまでも斃(たお)れて後に止むの決心を有すればなり、またこの容体がいかにして知れたるか、慰問者勝又恵造氏が親切なる注意によりてなり、過日山頂に野中氏を訪いたる玉穂村の有志勝また恵造氏が野中氏に面会するや、氏の顔貌憔悴せるを見て、必定身体に異状あるべしと思いて、心痛に堪えずこれを問いたるに、野中氏は平気な面色にて何事もあらずと答えしが、勝又氏は押し返して「不肖ながら僕は同志数百名の村民を代表し、この慰問の任に当れるものにして、中心君の容貌に不安の恐れあるを感じながらその由縁をも問い極めずして下山しては、独り僕の良心が許さぬのみならず、親切なる我が郷党に対しても済まぬ次第なれば、是非共包まず語られよと」切に問い質(ただ)せしに、良人の心を酌(く)みて、今まで黙しおりし至氏の令閨は、今はついに思い切りて具(つぶさ)に右の容体を勝又氏に告げたるより、至氏もさらば是非なしとて、その脚部を勝又氏に示し、指にて押すに水腫の兆候歴然たり、かつ食欲も痛く減退して、気分はなはだ宜しからずとその実を明かしたれば、勝又氏これに至りていよいよその容易ならぬに驚き、命ありての物種なれば是非に下山して、療養を尽くし更に再挙を企てられよと、言葉を尽くして至氏を諌めたれども、至氏は「段々の御芳志かつは山麓諸君のこの友愛、身に余りて千万忝(かたじけ)なけれども始めより斃れて止むの決心を抱き、この山巓に閉じ籠れる事なれば、病気に罹ればとて今更驚くべきにあらず、この山上に観測の事業に従うは至が天職なり、天職を全うし得んとて中道に倒れなば至は天命と諦めむべし、至に冬季越年高層観測の天職あるを知り、至は身命をこの天職に捧ぐべきを誓う、この他には栄誉もなく、生命もなく、あらゆる何ものもなし、いわんや区々(くく)の病気をや、厳父慈母、良師益友諸君の力によりて建設せるこの観測所を枕にし浩然(こうぜん)剣ケ峯に絶命せば、至の能事(のうじ)畢(おわ)れり、また何をか憾(うら)みんや、至はこの心をもって心とせる事なれば、友愛なる君よ、願わくは至をしてこの微志を成さしめられよ、至は実に此處(ここ)一寸も動かざるの決心を定めたり」と断然言い放ち、また動かすべくもあらず、勝又氏もその熱心に感激し、暗然涙を飲みてまた一語なし、至氏は重ねて「君よ、願わくは僕をして僕の志を成(な)さしめよ、果たして僕の願いを容れられなば、下山の後は堅くこの事の秘密を保ち、至の親戚朋友何人たりとも、実を告げ給うことなかれ、ただ至は無事に山巓に在りと語り給え」と懇々依嘱したれば、勝又氏も是非なくこれを承諾し、これに袂を分かちたり、勝又氏は下山の後、至氏への約語を重んじ一たびは世間へ向けて同氏の無事を報じたるが、考うれば考うる程、打ち捨て置き難く、玉穂村長松井永賜氏に実を告げ、なお先に慰問のため登山してその行を果たさざりし、御厨警察分署長警部等へも事情を密航したるより、諸氏は協議の上、筑紫警部は中央気象台の和田技師へ急報し、松井氏、勝又氏等は厳父野中勝良氏へその由(よし)を告げ、なお報知新聞に依頼してこれを公表し、世の志士仁人に告げ、いかにこの鉄石のごとき志士を救護すべきかの方案を求めんと手配する内、一昨日に至り松井村長も出京せり、この松井氏は当初よりすこぶる野中氏の挙を賛し、村民を糾合して大いに氏のために尽力する所ありし人なるが、勝又氏の報を得しより憂慮に堪えず、その後種々村内を斡旋する所あり、同村の医師瓜生駒太郎氏は豪侠快活すこぶる侠骨あるをもって、氏を山頂に赴かしめ、焦眉の手当を為すことを嘱せんかなど種々考えしが、ひとまず厳父を訪いて百事を相談するにしかずと決し、態々(わざわざ)上京して野中氏に至り、下山勧告救援者派遣の相談に及び周旋すこぶる勉めり、時に中央気象台の和田技師は予(かね)て野中氏の事業を嘉(よ)みしおりしが、この急報に接して大にこの気象上有益の事業が中道にして挫折せんことを憂え、その筋にも稟議する所あり、沼津測候所出張の命を帯びて同地に至るを幸いとし昨日午前出発して雪中の登岳を試み、野中氏を擁して下山せしむるの考えなりという、また勝又氏の咄(はなし)によれば、至氏の夫人は登山の初発には疲労のため、疾病を起し後には扁桃腺(咽喉仏の近所に)そら豆大の腫物を生ぜしが、至氏に迫りてこれを切開しくれよと求め、治療功を奏せざればそれまでのみ、死は初めより決しおれば請う人事を尽して止まんというにぞ、至氏も是非なく錐にて右の腫物を突き破り化膿を排出せしが、この気象家の外科治療意外に功を奏し、右腫物の治癒せし後は身体すこぶる健全となり、甲斐甲斐しく良人を助けおれりという


MZ-11

資料番号  MZ-11
資料名

第二回冬期富士登山実記

年代

 1895年(明治28年) 12月21日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 旧字旧仮名

是は先に記したる野中至氏夫妻慰問の為め登山せし五人中の一人、勝又恵造氏の自ら筆記して特に寄送せられたるものなれど、其の概要は既に掲げし所と大差なきに依り、今前号に漏れたる部分のみを摘採する左の如し

(前略)勝又熊吉は剛力中の最も健全なるを以て八貫目以上を、斎藤鶴吉は五貫目の荷物を負い、十一日午前八時一同八合目を発す、此の日堪え難き烈風と寒気とを冒し登山したる、途中ムチツキと云う處にかからんとせし時、非常の烈風起り、剛力勝又熊吉は其の中心に当たりて吹き倒されしが幸いに身体には負傷なかりし、然れども負ひたる荷物は傍らの医師に触れ、荷縄を切りて散乱し、玉穂村中畑勝又利十郎氏より野中氏に贈られたる飯入器(藁にて製造したる飯の凍るを防ぐに最も必要なるもの)を山下に吹き飛ばされたり、斯かるが故に強いて登山せんには人名も危険なれば止むを得ず八合目迄引き返し帰着したるは、午前第九時四十五分なり、同所に於て風の止むを待ちしも風勢益々猛烈なる故、遂に八合目に叉一泊せり、同夜風力殊に甚だしく大なる医師の風の為に山下に転落する、昔の凄まじさ實に危険千万の思いを為したり、翌日午前九時に至るも尚引きも切らず打ち続きしが漸く午前十時に至り少しく静まりたり然れども全く止みたるにあらず、只少しづつ絶え間あるなり、依って一同協議したるに剛力も荷を負て登ることを肯せず、残らず登山するには重き荷物を持ち行かざるを得ず、依って野中清君、平岡鐘次郎君と強力斎藤鶴吉を同所に留め置き、余と剛力勝又熊吉は登山する事と定め、別れの際約するに、下山の時刻は確定せざれども、翌十三日正午十二時迄には下山するの予定なれども、如何なる出来事にて後るるも測り難し、依って同時過ぎなば野中清君外二名は余等に関せず下山せらるることと約して別れを告げ、余と剛力勝又熊吉は諸方より野中至君に宛て託せられたる書状を携帯したるのみにて出発す、途中大ダルミと唱ふる所を越え、ムチツキの急坂に至りし時、例の烈風吹き来り、岩際に平伏して風の止むを待しも、止むべき模様なし故に、剛力勝又熊吉は余に告げて曰く、私は此の山は自分の田畑程様子を知り居れり、故に烈風の来るときは岩の陰を匍匐して、速やかに登るに若かずと、依って同人の言に随い余同人に随いて行きしに、如何にも山馴れたるものと見え、風南より来れば北に避け、北より来れば南に避け、自由自在に危険を避け、漸くにして山頂の本社前に達し、其れより西行し、馬の背と云ふ處に至り突然烈風起り、二人共雪中に吹き倒されしも幸い負傷なく、辛うじて剣ケ峯野中至君の石室前に着し、窓より同君を呼びたるに、細君千代子殿戸口に来たり戸を開かる、依って同君の居間なる南室に入り、五分間許リ無言にて暖を取り、口辺の凍りを解かし、手袋、頭巾等を取り去り、先ず野中君と久闊(きゅうかつ)の応対をなし、余は細君とは初めての面会なれば名刺を出して挨拶をなし、此の時海中の時計を見るに午前十一時五十五分なり、夫より野中君へ処々より託送せられたる書状数通を渡したる後、雑談に移り、野中君に現今の寒暖を聞きたるに、零度下二十七八度乃至三十度を昇降せりと云ふ、余は又斯くの如き厳寒にても観測器械には障りなきやと問ひしに、今の處にては別に異状なしと答えられたり、余は更に登山後夫婦の身体の様子を尋ねたるに別に障りなしと答えらる、然れども余は同君の顔色其の他を見るに衰弱したるの兆しあり、依って押し返して其の様子を聞きたりしも只無事なりと云はるるのみ故に、余は再三実際を告げられんことを乞ひしに、君遂に余等の請を許され告げて曰く、決して親族盟友にも此の事は話されざる様に願いたし、余は只君等が此の烈風と氷雪を侵して厳寒を凌ぎ千辛万苦の危険を冒して、態々慰問し給ひたる厚意に対し君等の言に随はざれば良心に恥ずる所あり、止むなく事実を告げん、妻は登山後十五六過ぎ、頭痛を発し、叉咽喉い腫れを生じたりしが、妻の乞ひにて三つ目錐にて突きたるに其の後幸い快復し、食気は進まざれども、目下達者の方なり、自分は漸時、衰弱の模様なりとて足部を示されたるに大に膨れを生じたり、依って余は君は死するが目的にあらず、實に此の大業を遂げ、社会を益せんとするにあれば、一時下山して充分身体を快復し、再び此の目的にあらむ、實に此の大業を遂げ、社会を益せんとするにあれば、一時下山して充分身体を快復し再び此の目的を達せらるべしと忠告したれども君は断固として肯せず、想うに斃れて後止むの決心ならん、余等は八合目より食物の用意なきを以て細君は牛肉の缶詰を煮て與へられたり、余等は之を食し終わり、長く居らば却って限りある食料を減ずるの恐れあるを以て、是より下山することとし、別れに臨んで余は細君に謂つて曰く、洋の東西、余の古今を論ぜず、英名を轟かしたる人は皆善良なる夫人の補佐に依らざるはなし、貴婦の行為實に感服に餘りあり、願わくは益々英気を振るって此の大業を補佐せられんことを望み、尚終りに臨み、御夫婦共御自愛御健康を祈ると別れを告げ、其れより下山の途に就き、此処を出発する時は午後一時十分なり、是より銀明水に至りたるに人声の聞こゆるを以て行き見れば、八合目に残り居りたる野中清、平岡鐘次郎、剛力斎藤鶴吉の三氏の来れるなり、然れども此の日山頂は殊に風力甚だしく日も西に傾きたれば、共に是より下山することに決し、一同の八合目に帰着せしは午後三時三十分なり、叉此処に宿泊せり(下略)

 新字新仮名

これは先に記したる野中至氏夫妻慰問のため登山せし五人中の一人、勝又恵造氏の自ら筆記して特に寄送(きそう)せられたるものなれど、その概要はすでに掲げし所と大差なきにより、今前号に漏(も)れたる部分のみを摘採する、左の如し

(前略)勝又熊吉は剛力中の最も健全なるを以て八貫目以上を、斎藤鶴吉は五貫目の荷物を負い、十一日午前八時一同八合目を発す、此の日堪え難き烈風と寒気とを冒し登山したる、途中ムチツキと云う處にかからんとせし時、非常の烈風起り、剛力勝又熊吉はその中心に当たりて吹き倒されしが幸いに身体には負傷なかりし、しかれども負いたる荷物は傍らの医師に触れ、荷縄を切りて散乱し、玉穂村中畑勝又利十郎氏より野中氏に贈られたる飯入器(藁にて製造したる飯の凍るを防ぐに最も必要なるもの)を山下に吹き飛ばされたり、かかるが故に強(し)いて登山せんには人名も危険なれば止(や)むを得ず八合目迄引き返し帰着したるは、午前第九時四十五分なり、同所に於て風の止むを待ちしも風勢益々猛烈なる故、遂に八合目に又一泊せり、同夜風力殊に甚だしく大なる医師の風の為に山下に転落する、昔の凄まじさ實に危険千万の思いを為したり、翌日午前九時に至るも尚引きも切らず打ち続きしが漸く午前十時に至り少しく静まりたり然れども全く止みたるにあらず、只少しづつ絶え間あるなり、依って一同協議したるに剛力も荷を負て登ることを肯せず、残らず登山するには重き荷物を持ち行かざるを得ず、依って野中清君、平岡鐘次郎君と強力斎藤鶴吉を同所に留め置き、余と剛力勝又熊吉は登山する事と定め、別れの際約するに、下山の時刻は確定せざれども、翌十三日正午十二時迄には下山するの予定なれども、如何なる出来事にて後るるも測り難し、依って同時過ぎなば野中清君外二名は余等に関せず下山せらるることと約して別れを告げ、余と剛力勝又熊吉は諸方より野中至君に宛て託せられたる書状を携帯したるのみにて出発す、途中大ダルミと唱ふる所を越え、ムチツキの急坂に至りし時、例の烈風吹き来り、岩際に平伏して風の止むを待しも、止むべき模様なし故に、剛力勝又熊吉は余に告げて曰く、私は此の山は自分の田畑程様子を知り居れり、故に烈風の来るときは岩の陰を匍匐して、速やかに登るに若かずと、依って同人の言に随い余同人に随いて行きしに、如何にも山馴れたるものと見え、風南より来れば北に避け、北より来れば南に避け、自由自在に危険を避け、漸くにして山頂の本社前に達し、其れより西行し、馬の背と云ふ處に至り突然烈風起り、二人共雪中に吹き倒されしも幸い負傷なく、辛うじて剣ケ峯野中至君の石室前に着し、窓より同君を呼びたるに、細君千代子殿戸口に来たり戸を開かる、依って同君の居間なる南室に入り、五分間許リ無言にて暖を取り、口辺の凍りを解かし、手袋、頭巾等を取り去り、先ず野中君と久闊(きゅうかつ)の応対をなし、余は細君とは初めての面会なれば名刺を出して挨拶をなし、此の時海中の時計を見るに午前十一時五十五分なり、夫より野中君へ処々より託送せられたる書状数通を渡したる後、雑談に移り、野中君に現今の寒暖を聞きたるに、零度下二十七八度乃至三十度を昇降せりと云ふ、余は又斯くの如き厳寒にても観測器械には障りなきやと問ひしに、今の處にては別に異状なしと答えられたり、余は更に登山後夫婦の身体の様子を尋ねたるに別に障りなしと答えらる、然れども余は同君の顔色其の他を見るに衰弱したるの兆しあり、依って押し返して其の様子を聞きたりしも只無事なりと云はるるのみ故に、余は再三実際を告げられんことを乞ひしに、君遂に余等の請を許され告げて曰く、決して親族盟友にも此の事は話されざる様に願いたし、余は只君等が此の烈風と氷雪を侵して厳寒を凌ぎ千辛万苦の危険を冒して、態々慰問し給ひたる厚意に対し君等の言に随はざれば良心に恥ずる所あり、止むなく事実を告げん、妻は登山後十五六過ぎ、頭痛を発し、叉咽喉い腫れを生じたりしが、妻の乞ひにて三つ目錐にて突きたるに其の後幸い快復し、食気は進まざれども、目下達者の方なり、自分は漸時、衰弱の模様なりとて足部を示されたるに大に膨れを生じたり、依って余は君は死するが目的にあらず、實に此の大業を遂げ、社会を益せんとするにあれば、一時下山して充分身体を快復し、再び此の目的にあらむ、實に此の大業を遂げ、社会を益せんとするにあれば、一時下山して充分身体を快復し再び此の目的を達せらるべしと忠告したれども君は断固として肯せず、想うに斃れて後止むの決心ならん、余等は八合目より食物の用意なきを以て細君は牛肉の缶詰を煮て與へられたり、余等は之を食し終わり、長く居らば却って限りある食料を減ずるの恐れあるを以て、是より下山することとし、別れに臨んで余は細君に謂つて曰く、洋の東西、余の古今を論ぜず、英名を轟かしたる人は皆善良なる夫人の補佐に依らざるはなし、貴婦の行為實に感服に餘りあり、願わくは益々英気を振るって此の大業を補佐せられんことを望み、尚終りに臨み、御夫婦共御自愛御健康を祈ると別れを告げ、其れより下山の途に就き、此処を出発する時は午後一時十分なり、是より銀明水に至りたるに人声の聞こゆるを以て行き見れば、八合目に残り居りたる野中清、平岡鐘次郎、剛力斎藤鶴吉の三氏の来れるなり、然れども此の日山頂は殊に風力甚だしく日も西に傾きたれば、共に是より下山することに決し、一同の八合目に帰着せしは午後三時三十分なり、叉此処に宿泊せり(下略)


MZ-12

資料番号  MZ-12
資料名

和田技師の富士登山

年代

 1895年(明治28年) 12月22日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 旧字旧仮名

中央気象台技師和田雄治氏は、富士山頂気象観測者野中至氏の危急を救はん為め同山へ出張せし次第は既に報せしが、猶聞く所に依れば、同技師は去十八日午前八時五分新橋発、正午頃御殿場停車場に着、直ちに筑紫御厨警察分署長平岡巡査及有志者と打合せの上、登山の準備に着手し、翌十九日も終日之が準備を為し、午後四時中畑(富士山麓)に赴きて其の夜は同地に一泊、翌廿日午前六時和田技師の一行、即ち警部、巡査、郡書記、有志者等はモッコ人夫六人、食糧夜具運搬夫四人、都合十五人連にて瀧河原を発し、愈々登山の途に上りたる由、一行の山頂に達せるまでには少くも三昼夜を要し、野中氏夫妻はモッコに載せて下山せしるむ計画なりといふ、尚去十九日付を以て、和田技師より野中至氏の厳父勝良氏に送りし書面を得たれば、左に其の摘要を掲ぐ

小生儀十八日午前八時五分新橋発正午御殿場着同所には筑紫所長、平岡巡査、勝又兼造氏、佐藤與平次氏外に両名の有志者出迎呉れ万事好都合にて御座候

暫時同所にて休息の上午後四時頃中畑村村役場前なる福島某方到着同署に於て村長にも面会仕候以上の数名は皆懇切に世話致呉れ雪カンジキ鳶口など一切小生のため新調用意致し呉れ大に安心仕候

早速人夫選定を相謀り候處屈強の者五名は已に決定致居り候得ども迚も此れ位にては不充分の由付き更に五名増員方相謀り夫等用意の為且つ中央気象台の電報にて本日山頂強風ならんとの事に付き明廿日未明に出発候事に決定

頻りに糧食等の用意中に御座候勝又氏等の説にては凡そ四五日位相掛る積りにて糧食薪、炭、水壺、石油、蝋燭等の用意を為さざれば今回は危険の趣により先づ其覚悟仕候

尤も登山人は小生の外署長巡査(官命)、書記、勝又、人夫頭熊吉、人夫十名の筈にて令息ご夫婦は「モッコー」にて荷い下すとの事に有之候将叉(はたまた)当地有志者二十名は山腹室々に出張り薪炭、飲食料を用意し登山者の不慮を救わんとの申し出にて実に奇特の儀に御座候

右様の次第につき明早朝登山は可仕候得共下山は三四日位相遅れ可申に付き決して御心配被下間敷候云々

 新字新仮名

中央気象台技師和田雄治氏は、富士山頂気象観測者野中至氏の危急を救はんため同山へ出張せし次第はすでに報せしが、なお聞く所によれば、同技師は去十八日午前八時五分新橋発、正午頃御殿場停車場に着、直ちに筑紫御厨警察分署長平岡巡査及有志者と打合せの上、登山の準備に着手し、翌十九日も終日之が準備をなし、午後四時中畑(富士山麓)に赴きてその夜は同地に一泊、翌二十日午前六時和田技師の一行、即ち警部、巡査、郡書記、有志者等はモッコ人夫六人、食糧夜具運搬夫四人、都合十五人連にて瀧河原を発し、いよいよ登山の途に上りたるよし、一行の山頂に達せるまでには少くも三昼夜を要し、野中氏夫妻はモッコに載せて下山せしるむ計画なりという、なお去る十九日付をもって、和田技師より野中至氏の厳父勝良氏に送りし書面を得たれば、左にその摘要を掲ぐ

小生儀十八日午前八時五分新橋発正午御殿場着同所には筑紫所長、平岡巡査、勝又兼造氏、佐藤與平次氏外に両名の有志者出迎えくれ万事好都合にて御座候、暫時同所にて休息の上、午後四時頃中畑村村役場前福島某方到着、同署において村長にも面会仕候、以上の数名は皆懇切に世話致しくれ、雪カンジキ、鳶口など一切小生のため新調用意致しくれ大いに安心仕候、早速人夫選定を相謀り候処、屈強の者五名はすでに決定致居り候得ども、とてもこれ位にては不充分のよしにつき、更に五名増員方相謀りそれ等用意のため、かつ中央気象台の電報にて本日山頂強風ならんとの事に付き、明二十日未明に出発候事に決定、しきりに糧食等の用意中に御座候、勝又氏等の説にてはおよそ四五日位相掛るつもりにて糧食、薪、炭、水壺、石油、蝋燭等の用意をなさざれば今回は危険の趣によりまづその覚悟仕候、もっとも登山人は小生の外署長巡査(官命)、書記、勝又、人夫頭熊吉、人夫十名のはずにて令息ご夫婦は「モッコー」にて荷い下すとの事に有之候、はたまた当地有志者二十名は山腹室々に出張り薪炭、飲食料を用意し登山者の不慮を救わんとの申し出にて実に奇特の儀に御座候

右様の次第につき明早朝登山は可仕候得共(つかまつりそうらえども)下山は三四日位相遅れもうすべきに付き決して御心配被下間敷候(ごしんぱいくださるまじくそうろう)云々


OM-22

資料番号  OM-22(MZ-13)
資料名 野中氏無事下山す
年代

 1895年(明治28年)12月25日

新聞社

  東京朝日新聞

元データ 国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供 
旧字旧仮名

●野中氏無事下山す

野中至氏は別項電欄に見ゆる如く、夫の和田技師の勧告に従ひ遂に下山することとなり、一昨二十三日夫妻とも無事瀧河原に着したりといふ、猶昨日吾社員の許に達したる至氏の厳父勝良氏二十三日瀧河原発書面は、山麓村民の義侠撲實の程観賞するに足るものあるを以て左に録す

 前略 昨日午後四時御殿場着同所にて巡査部長守谷芳太郎氏の懇切なる指示により六時前瀧河原佐藤與平次方に到着致し候處、同方には野中至夫婦下山今日なるべしとて出迎えたる数人待ち合せ、或は二合五勺の室叉は五合目の室叉は太郎坊迄出迎えたる人々も二十名以上に及び、其の内六七名は昨夜右室々に宿泊し(医師瓜生駒太郎氏も宿泊す)、其の外十五名許リは一旦下山、本日更に出迎えに登る筈なり、右登山者は各防寒の支度厳重に面部を覆い、身体を包み居れり、而して小生が村民に会う毎に皆曰く「我々共は深き事は知らざれども日々の天気叉は暴風叉は寒暖の知らせにより、世上に天気仕事をする人々命を助かり叉は損耗を免かるる事幾程多きや、斯かる御方叉其のおかみさんを見殺しにする事が出来るものか、何とかして本人に納得させ、是非とも下山の上助けねばならぬ」と依って拙者思うに、倅夫婦は元来決死なるべければ、其の生死の事は暫く差置き、年末多忙の時にも不拘、村民一同私を忘れ銘銘公共の為め甲斐甲斐しく懇切の世話をなす義侠の程、只管感歎の至に儀猶余は後便に申し上げべく候頓首

十二月二十三日朝

追申 此の書認め中にも迎えの登山者二十名余追どしどし集まり来られ応接に暇なし茲に勿々

 新字新仮名

野中至氏は別項電欄に見ゆるごとく、かの和田技師の勧告に従いついに下山することとなり、一昨二十三日夫妻とも無事河原に着したりという、なお昨日吾社員のもとに達したる至氏の厳父勝良氏二十三日滝河原発書面は、山麓村民の義侠撲実の程、観賞するに足るものあるをもって左に録す

前略 昨日午後四時御殿場着、同所にて巡査部長守谷芳太郎氏の懇切なる指示により六時前滝河原佐藤与平次方に到着致し候処、同方には野中至夫婦下山今日なるべしとて出迎えたる数人待ち合せ、あるいは二合五勺の室叉は五合目の室叉は太郎坊まで出迎えたる人々も二十名以上に及び、その内六、七名は昨夜右室々に宿泊し(医師瓜生駒太郎氏も宿泊す)、その外十五名ばかリは一旦下山、本日さらに出迎えに登るはずなり、右登山者は各防寒の支度厳重に面部を覆い、身体を包みおれり、而(しか)して小生が村民に会う毎に皆いわく「我々共は深き事は知らざれども日々の天気叉は暴風叉は寒暖の知らせにより、世上に天気仕事をする人々命を助かり叉は損耗を免かるる事幾程多きや、かかる御方叉そのおかみさんを見殺しにする事ができるものか、何とかして本人に納得させ、ぜひとも下山のうえ助けねばならぬ」とよって拙者思うに、倅夫婦は元来決死なるべければ、その生死の事はしばらく差し置き、年末多忙の時にもかかわらず、村民一同私を忘れ銘銘公共のため甲斐甲斐しく懇切の世話をなす義侠の程、ひたすら感歎の至に儀、なお余は後便に申し上げべく候頓首

十二月二十三日朝

追申 この書認め中にも迎えの登山者二十名余追追(おいおい)どしどし集まり来られ応接に暇なしここに勿々

 


OM-23 (MZ-14)

資料番号  OM-23(MZ-14)
資料名 野中氏夫妻の下山詳報
年代

 1895年(明治28年)12月26日

新聞社

  東京朝日新聞

元データ 国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供 
旧字旧仮名

●野中氏夫妻の下山詳報

野中氏夫妻無事下山の事は、巳に前号に記したるが、猶其の詳報を聞くに、和田技師は野中氏夫妻の下山を促さんが為め、随員御厨警察署長筑紫忠晴、御殿場停車場詰巡査平岡鐘次郎の二氏並びに剛力斎藤鶴吉、勝又熊吉、鈴木政太郎、福島與一、勝又万次郎(以上玉穂村中畑の者)高杉宇之吉、稲葉五三郎、同菊平(以上御殿場の者)の八名と共に、去る廿日午前六時三十分、瀧河原出発富士山巓に向かひたり

此の日は天気晴朗、午後三時頃五合目迄到着、和田技師は尚登山を欲したりしも、到る處石室雪に閉じられて、之を開くに意外の時間を要すべければとて、剛力等の留むる儘に其の夜は此處に一泊、翌二十一日午前八時、再び同所を発して登山七合目に到りし時、勝又万次郎は一行に向かひ今日は山上も殊の外平穏に見ゆれば、某は是より近道を取りて山上に直行せんといふを、和田技師は危険なればとて留めたれど聞き入れず、加ふるに高杉宇之吉、福島與一、鈴木政太郎の三名も之に同行を申出でしより、一行は遂に二手に分かれて、本隊なる和田技師以下は其の日本道より八合目に達し、同所の石室を開きて一泊する事とし、枝隊なる勝又ほか三名は、其の日の内に字黒石といへる處より頂上さして登行く

此の日枝隊の運動は、山上に於ては實に剛勇極まれるものにして、既に七合目迄の氷雪を穿ち非常の艱苦を嘗めたる上に、尚坂路一層の急を冒して強いて絶頂まで赴くことなれば、和田技師が当初一行の無事を欲して之を留めたるも偶然にあらず

扨(さて)枝隊の一行は、本体が八合目に達せし時、早く既に頂上まで攀じ行きて彼絶頂観測の為に一身を犠牲にし、加ふるに病已に其の体を侵して死期漸く至らんとなるにも屈せず、依然として頂上の越年室に閉居し居る野中氏夫妻への面会をこそは申し入れたれ

談話変わりて野中至氏は、其の後病状益々悪しく、全身腫れふくれて、早や行歩さへも自由ならざるに至りしかば、此の数日来は已むを得ず臥床を設けて打ち臥し居り、生死只之を天に任してある中にも、平素考心深き生れとて其の日は、恰も祖父野中勝郎氏の命日に當れるより、座の正面に三友軒閑哉大居士といへる戒名を掲げ出て、夫妻共々心許リの回向などなしてあり、素よりさきに勝又恵蔵氏の登りしより後は、冬季叉下界との交通あるべしとは夢にも知らざる折柄に、突然人界よりの飛信は至りぬ

瀧河原から参りましたとの声は、聞こえぬ夢かあらぬが怪しむべきは今の声と、妻女は起ちて戸を開くるに、是夢にもあらず幻にもあらずして、瞭然たる四個の人影は、慥かに其の屋前に見受けられぬ

扨(さて)四名は先ず内に入りて、今回和田技師足下の下山を勧めん為態々登山して今八合目まで来れる由を告げ、夫より浅間本社の傍らに至りて石室前の雪を払い、其の夜は其処に宿泊して、技師一行の登山を待つ事となしたるは、蓋し野中氏の越年室余りに狭くして、到底余人を容るるに足らざるを以てなり、茲に感ずべきは、此の枝隊の剛力等は、かねて測候所より野中氏の必要品を欠かざるやう注意すべき旨の指図を受け居りしより、此の面会の時を期して、氏に心ばかりの饗応を為さんとせしも氏は辞して受けざりしと

斯くて明くれば二十二日午前八時三十分、本隊は和田技師を始めとして八合目より登山なし、正午頃漸く絶頂まで登り付きければ、技師は先ず筑紫警部、平岡巡査並びに勝又熊吉の三名を伴い、其の他は何れも浅間神社前に在らしめて、野中氏の室に入り行きたるが、此の時氏は辱上に端座し居り強いて病なきものの如く粧ひ居るは、其の意技師の下山を勸めんことを恐れてなるべし

去れど其の顔面の蒼白にして、血気なき四肢の太く腫れ出でたる、實に登山前の野中氏とは思はれざる程にて、技師の如きも初め相見るや、是は別人にはあらずやとの念を起したる程なりし

扨(さて)両者相見し時は、共に胸中無限の感に閉ざされて暫時は互に言葉さへ出でざりしが、斯くて果つべきことならねば技師は先ず口を開き、本日拙者は官命を奉じて態々御身を連れ降るが為め、此処に登山なしたるものなり、素より御身が此の気象観測上一身を犠牲にして此の山頂の越年を試むる段は、萬謝も尚足らず、世人と共に深く其の功績を欽慕すと雖も、斯く見る處にては御身は已に容易ならざる大患に罹られたるものの如し、然るに尚強いて越年の目的を達せんとせば、其の結果蓋し今より計るべからず、不幸御身にして此の山頂の鬼となるが如きことあらば、独(ひとり)御身が其の目的を達せざるを恨むべきのみならず、斯の道の上にも亦何の益する所あらざるべし、去れば今日下山して病癒へば、更に越年するも亦難きにあらざるに何事ぞ自ら有為の身を軽じて、此の山頂観測の犠牲とはならんとする曟(さき)に勝又恵造氏御身を見舞ふが為めに登山し、爰(ここ)に始めて御身が已に大患に罹れることを知り得たり

當時御身は、勝又に対して強いて此の事を口外すべからざる旨依頼されし由なれど、此の事たる實に御身の生死に関する事なり、有為の士人を殺すも活かすも、一に之を口外すると否とに在り、故に勝又氏は断然御身に対して食言の人となるも、寧ろ御身の生命を救うことに決心し、密に此の事を拙者の許に密告しぬ、是に於てか拙者は即ち官命を奉じて登山したる次第なれば、今日は一個の和田雄治にあらず、御身若し尚之を否まざ強いても山下に連れ行くべしと粛然として言い放てば、野中氏は嘆息すること稍久しく、御親切の程は骨身に染みて辱(かたじけ)なし、去りながら僕の当初此の事を計画する、死は素より既に期する所、殊に僕中道にして此の事を廃せば、誰か叉撲の宿志を継ぐものあらんや、去れば僕は仮令志成らずして不幸、此の頂上の鬼となるも、寧ろ山を下る能はず、先生願わくは僕の心中を忖度せよと、更に聞き入るべき模様もなし

 新字新仮名

野中氏夫妻無事下山の事は、すでに前号に記したるが、なおその詳報を聞くに、和田技師は野中氏夫妻の下山を促さんがため、随員御厨警察署長筑紫忠晴、御殿場停車場詰巡査平岡鐘次郎の二氏並びに剛力斎藤鶴吉、勝又熊吉、鈴木政太郎、福島與一、勝又万次郎(以上玉穂村中畑の者)高杉宇之吉、稲葉五三郎、同菊平(以上御殿場の者)の八名と共に、去る二十日午前六時三十分、滝河原出発富士山巓に向かいたり

この日は天気晴朗、午後三時頃五合目まで到着、和田技師はなお登山を欲したりしも、到る処石室雪に閉じられて、これを開くに意外の時間を要すべければとて、剛力等の留むるままにその夜はここに一泊、翌二十一日午前八時、再び同所を発して登山七合目に到りし時、勝又万次郎は一行に向かい、今日は山上も殊の外平穏に見ゆれば、某(なにがし)はこれより近道を取りて山上に直行せんというを、和田技師は危険なればとて留めたれど聞き入れず、加うるに高杉宇之吉、福島與一、鈴木政太郎の三名もこれに同行を申し出でしより、一行は遂に二手に分かれて、本隊なる和田技師以下はその日、本道より八合目に達し、同所の石室を開きて一泊する事とし、枝隊なる勝又ほか三名は、その日の内に字黒石といへる処より頂上さして登行く、この日枝隊の運動は、山上においては実に剛勇極まれるものにして、既に七合目までの氷雪を穿ち非常の艱苦を嘗めたる上に、なお坂路一層の急を冒してしいて絶頂まで赴くことなれば、和田技師が当初一行の無事を欲してこれを留めたるも偶然にあらず、さて枝隊の一行は、本体が八合目に達せし時、早く既に頂上まで攀じ行きてかの絶頂観測のために一身を犠牲にし、加うるに病すでにその体を侵して死期漸く至らんとするにも屈せず、依然として頂上の越年室に閉居しいる野中氏夫妻への面会をこそは申し入れたれ

談話(はなし)変わりて野中至氏は、その後病状益々悪(あ)しく、全身腫れふくれて、早や行歩(こうほ)さへも自由ならざるに至りしかば、この数日来はやむを得ず臥床を設けて打ち臥しおり、生死ただこれを天に任してある中にも、平素孝心深き生れとてその日は、あたかも祖父野中勝郎氏の命日に当れるより、座の正面に三友軒閑哉大居士といへる戒名を掲げ出て、夫妻共々心許リの回向(えこう)などなしてあり、もとよりさきに勝又恵蔵氏の登りしより後は、冬季叉下界との交通あるべしとは夢にも知らざる折柄に、突然人界よりの飛信は至りぬ、滝河原から参りましたとの声は、聞こえぬ夢かあらぬが怪しむべきは今の声と、妻女は起ちて戸を開くるに、これ夢にもあらず幻にもあらずして、瞭然たる四個の人影は、確かにその屋前に見受けられぬ、さて四名は先ず内に入りて、今回和田技師足下の下山を勧めんためわざわざ登山して今八合目まで来たれるよしを告げ、夫より浅間本社の傍らに至りて石室前の雪を払い、その夜はそこに宿泊して、技師一行の登山を待つ事となしたるは、けだし野中氏の越年室余りに狭くして、到底余人を容るるに足らざるをもってなり、ここに感ずべきは、この枝隊の剛力等は、かねて測候所より野中氏の必要品を欠かざるよう注意すべき旨の指図を受けおりしより、この面会の時を期して、氏に心ばかりの供応をなさんとせしも氏は辞して受けざりしと、かくて明くれば二十二日午前八時三十分、本隊は和田技師を始めとして八合目より登山なし、正午頃漸く絶頂まで登り付きければ、技師は先ず筑紫警部、平岡巡査並びに勝又熊吉の三名を伴い、その他はいずれも浅間神社前に在らしめて、野中氏の室に入り行きたるが、この時氏は辱上に端座しおり、しいて病なきもののごとく粧いいるは、その意技師の下山を勸めんことを恐れてなるべし、されどその顔面の蒼白にして、血気なき四肢の太く腫れ出でたる、実に登山前の野中氏とは思はれざる程にて、技師の如きも初め相見るや、これは別人にはあらずやとの念を起したる程なりし、さて両者相見し時は、共に胸中無限の感に閉ざされて暫時は互に言葉さへ出でざりしが、かくて果つべきことならねば技師はまず口を開き、本日拙者は官命を奉じてわざわざ御身を連れ降りるがため、ここに登山なしたるものなり、もとより御身がこの気象観測上一身を犠牲にしてこの山頂の越年を試むる段は、万謝もなお足らず、世人と共に深くその功績を欽慕すといえども、かく見る処にては御身はすでに容易ならざる大患に罹られたるもののごとし、しかるになおしいて越年の目的を達せんとせば、その結果けだし今より計るべからず、不幸御身にしてこの山頂の鬼となるがごときことあらば、ひとり御身がその目的を達せざるを恨むべきのみならず、この道の上にもまた何の益する所あらざるべし、されば今日下山して病癒えば、更に越年するもまた難きにあらざるに何事ぞ自ら有為の身を軽んじて、この山頂観測の犠牲とはならんとする、さきに勝又恵造氏御身を見舞うがために登山し、ここに始めて御身がすでに大患に罹れることを知り得たり、当時御身は、勝又に対して強いてこの事を口外すべからざる旨依頼されしよしなれど、この事たる実に御身の生死に関する事なり、有為の士人を殺すも活かすも、一にこれを口外すると否とにあり、故に勝又氏は断然御身に対して食言(しょくげん)の人となるも、むしろ御身の生命を救うことに決心し、密(ひそか)にこの事を拙者の許に密告しぬ、ここにおいてか拙者は即ち官命を奉じて登山したる次第なれば、今日は一個の和田雄治にあらず、御身もしなおこれを否まば強いても山下に連れ行くべしと粛然として言い放てば、野中氏は嘆息することやや久しく、御親切の程は骨身に染みて辱(かたじけ)なし、さりながら僕の当初この事を計画する、死はもとよりすでに期する所、ことに僕中道にしてこの事を廃せば、誰か叉撲の宿志(しゅくし)を継ぐものあらんや、されば僕は例え志成らずして不幸、この頂上の鬼となるも、むしろ山を下るあたわず、先生願わくは僕の心中を忖度(そんたく)せよと、更に聞き入るべき模様もなし


MZ-15

資料番号  MZ-15
資料名

野中氏夫妻の下山詳報(続)

年代

 1895年(明治28年) 12月27日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 旧字旧仮名

和田技師は尚、さまざまに野中氏夫妻に下山の然るべき旨を諭し、結局御身の志望は拙者当初より之を知り居れば、此の事業の善後策に就いては、拙者必ず十分の責任を負い、決して中道にして此の観測を廃止するが如きことなきやう盡力すべしと述べしに、野中氏も此の一言を聞きて、其れ程までの御言葉ある以上は僕も謹んで先生の命に応ずべしと漸く爰(ここ)に下山の事を諾したれば、和田氏も大に喜びて、かねて東京出発の際に預かり居りし野中氏の厳父並びに令弟よりの書簡を渡し、且つ浅間神社近傍に控え居る人夫等を呼び寄せれば、何れも急ぎ内に入りて、下山の用意に取り掛かる

扨(さて)野中氏は剛力の中にても殊に剛勇の聞こえある勝又熊吉之を負ひ、妻女は斎藤鶴吉をして負はしむる事とし、観測器の如きは大切なるもののみを持出し、其の他は其の儘残し置く事として戸を閉ざし、一同下山の途に就きしは午後二時頃のことなりし

是より先、和田技師は登山の次手(ついで)山頂の観測をなし置かんものと、流石は其の職掌柄の事とて、斯かる際にも之を忘れず、野中氏の観測室の方へ入り行きしに、今迄更に一言の言葉もなく技師の話を聞き居りし妻女千代子は、潜かに技師を逐ふて入り来り、妾(わらわ)女の身として斯かる事や出づるは何となく出過ぎたるようにもあれど、夫至が高地の観測を思い立ちしは、人様にこそ此の一二年のことのやうに言わるれ、本人はなかなか去る事にはあらず、已に十数年来計画に計画を重ねて、漸く爰(ここ)に其の目的を達したる次第なるに、今日先生のお言葉ゆえに此の山を下りては、其の計画も遂に夫が為に廃絶するに至るべければ、責めて本年内なりとも茲に留め置く訳には行くまじきやといふに、技師も其の気丈には感じたれど、今更其を聞き入るべき由もなければ訳の分からぬも程があると一図に𠮟り付けて、遂に下山なさしむることに取り極めたりと、斯く死に至るも変わらざる夫妻の熱心想い見るべし

斯くて下山の途ながら、野中氏は平素流石は斯かる事を企つる程ありて、身体強健今病あの為めに体量頓に減じ居るも、尚十七貫目以上あり、殊に防寒の為多くの衣類を着け居れば、其の重きこと喩へん方なく、加ふるに氏は心臓部を下方に置くの苦痛を感ずる模様なるより、中頃一度背中合わせに負う事となしたるも、是亦具合悪しくして、再び旧形に復する等雪中坂路にてのことなれば、さすがの勝又も太く之には当惑せしが、漸々に負ひ通して、一先ず八合目の石室まで下りし時には、妻女は既に到着し居り、此処に其の夜は石室を開きて一泊する事に定めたり、然るに野中氏は衰弱の上に無理に身体を動かしたるが為にや、石室に入ると其の儘悶絶したるより、和田氏大に驚きて之を介抱し、辛うじて蘇生せしめしと

叉下山の際、鈴木政太郎は胸突といへる處にて足をすべらし、看る看る毬の如く雪上を滑り行くにぞ咄嗟(あわや)と許リ人々は驚きたれども、救はん由なく、只其の落ち付く先を眺め居る中、幸いにも雪塊のある處に至りて命を拾へり

去れど之が為めに一日は食事をなす能はざりしと、其の翌二十三日午前八時一行は野中氏の負ひ方に付き協議を凝らす中、鈴木の発議にて西洋風に倣い、負ひ道具を鍵形に作り、其の上に乗らしめて背中合わせに負ひ行く事とし、一同八合目を出発せしに、此の方法は殊の外病者に適し、安穏に下山するを得しは幸いなりし

八合目を発する時、鈴木政太郎、高杉宇之吉の二名は、食料並びに燃料取り寄せの為、一足先に下山なし、已に馬返しの辺に到りし時、彼初度の登山者なる勝又恵蔵氏が一行出迎えの為、多くの人々を随えて登り来るに逢ふ

かねて野中氏の為に盡力至らざる所なかりし勝又氏のこととて、右両名に取り敢えず野中氏のことを質問し、右両名に取りあえず野中氏のことを質問し、重体ながら尚異状なき由を聞きて半ば安堵し、尚其の日瀧河原まで来たり居る野中氏の厳父に其の事を報告し、且つ東京へ急電を発することを依頼して引き別れぬ

是より勝又氏は次第に進みて、三合目の處まで到りしに、此処に一行の下山し来るに行き逢ひたれば、何は扨置き先ず野中氏の傍らに立ち寄り見るに、前日面会の時よりは病勢一層甚だしく、眼も腫れ塞がりて見えざるにや、姓名を名乗るまでは、更に勝又氏の来れることを気付かざるものの如くなりし

尤も妻女は異状なく、勝又氏を見るや否や一礼なして進み寄り、御親切有難う、命の親とは貴君の事でございますと涙と共に挨拶すれば、至氏も苦しき息を衝きながら、諸君の御厚意にて今日遂に下山することとなりたるが、實病のためとはいえ、思えば此の身の不甲斐なさ、只残念といふの外なし

併し御心労の段は至が言葉に盡しがたし、只之を心肝(しんかん)に銘ずるの一事あるのみと腫れ潰れたる目元を拭へば、一行何れも其の心中を思い遣りて、誰とて袖を濡らさるはなし、此の時、勝又氏は一旦の約束を破りて、足下の病気を人に告げしは慙愧に堪えぬ次第なるが、食言の罪は拙者之を甘受せん、只天下の為に足下の如き偉丈夫を殺す能はざる旨を語りしに、野中氏は言葉もなく太く氏の懇切に感ずるものの如くなりし

斯くて二合目半の處にて野中氏を駕籠に乗せ太郎坊に至りしに、有志者数多出迎え居り、一行は是等の人々に擁せられて、午後八時瀧河原に達し、野中氏は茲に養父勝良氏に面会せり

素より勝良氏は、当初至氏の登山を許すに当り心中已に深く決する所ありしには相違なきも、今此の病躯辛うじて下山し来れる至氏を見て、其の胸中や如何なりけん、想い遣られて哀れなりし

扨て野中氏夫妻は同地佐藤與平治方の奥座敷を借りて入れ、暫く病を養わしむる事として一行は酒宴を開き、深夜に至つて散会せり、茲に特筆すべきは深良村の医師瓜生駒太郎氏は、一行下山の際自ら四合目まで登山して、野中氏を診し、且つ手当を加へたるが、氏の見込みに依れば生命には別条なし、併し数日の間は閑静なる所に在りて身体を動かさざるを好しとすと云へり

叉和田氏は始終病者を護し、己は登山下山共に残らず歩行して人夫を指揮し、下山の際の如きは十分毎に一行に休憩を命ずる等、注意至らざる所なく遂に其の任務を果たして、斯くは無事野中氏を山下に移すを得たること、偏(ひとへ)に氏の措置其のよろしきを得たるに依ると云ふ    (終)

 新字新仮名 和田技師はなお、さまざまに野中氏夫妻に下山のしかるべき旨を諭し、結局御身の志望は拙者当初よりこれを知りおれば、この事業の善後策については、拙者必ず十分の責任を負い、決して中道にしてこの観測を廃止するがごときことなきよう尽力すべしと述べしに、野中氏もこの一言を聞きて、それ程までの御言葉ある以上は僕も謹んで先生の命に応ずべしと漸くここに下山の事を諾したれば、和田氏も大に喜びて、かねて東京出発の際に預かり居りし野中氏の厳父並びに令弟よりの書簡を渡し、かつ浅間神社近傍に控えいる人夫等を呼び寄せれば、いずれも急ぎ内に入りて下山の用意に取りかかる、 さて野中氏は剛力の中にてもことに剛勇の聞こえある勝又熊吉之を負ひ、妻女は斎藤鶴吉をして負はしむる事とし、観測器のごときは大切なるもののみを持出し、その他はそのまま残し置く事として戸を閉ざし、一同下山の途に就きしは午後二時頃のことなりし、これより先、和田技師は登山のついで山頂の観測をなし置かんものと、さすがはその職掌柄の事とて、かかる際にもこれを忘れず、野中氏の観測室の方へ入り行きしに、今まで更に一言の言葉もなく技師の話を聞きおりし妻女千代子は、潜かに技師をおうて入り来り、妾(わらわ)女の身としてかかる事や出ずるは何となく出過ぎたるようにもあれど、それ至が高地の観測を思い立ちしは、人様にこそこの一、二年のことのやうに言わるれ、本人はなかなかさる事にはあらず、すでに十数年来計画に計画を重ねて、漸くここにその目的を達したる次第なるに、今日先生のお言葉ゆえにこの山を下りては、その計画もついに夫がために廃絶するに至るべければ、せめて本年内なりともここに留め置く訳には行くまじきやというに、技師もその気丈には感じたれど、今更それを聞き入るべきよしもなければ訳の分からぬも程があると一途に𠮟りつけて、遂に下山なさしむることに取り極めたりと、かく死に至るも変わらざる夫妻の熱心想い見るべし、かくて下山の途ながら、野中氏は平素さすがはかかる事を企つる程ありて、身体強健今病あのために体量とみに減じいるも、なお十七貫目以上あり、ことに防寒のため多くの衣類を着けおれば、その重きこと例(たと)えん方なく、加うるに氏は心臓部を下方に置くの苦痛を感ずる模様なるより、中頃一度背中合わせに負う事となしたるも、これまた具合悪しくして、再び旧形に復する等、雪中坂路にてのことなれば、さすがの勝又もいたくこれには当惑せしが、漸々(ようよう)に負い通して、ひとまず八合目の石室まで下りし時には、妻女はすでに到着しおり、ここにその夜は石室を開きて一泊する事に定めたり、しかるに野中氏は衰弱の上に無理に身体を動かしたるがためにや、石室に入るとそのまま悶絶したるより、和田氏大いに驚きてこれを介抱し、辛うじて蘇生せしめしと、叉下山の際、鈴木政太郎は胸突といへる処にて足をすべらし、みるみる毬(まり)のごとく雪上を滑り行くにぞあわやとばかリ人々は驚きたれども、救はんよしなく、ただその落ち付く先を眺めいる中、幸いにも雪塊のある処に至りて命を拾えり、されどこれがために一日は食事をなすあたわざりしと、その翌二十三日午前八時、一行は野中氏の負ひ方に付き協議を凝らす中、鈴木の発議にて西洋風にならい、負ひ道具を鍵形に作り、その上に乗らしめて背中合わせに負い行く事とし、一同八合目を出発せしに、この方法はことのほか病者に適し、安穏に下山するを得しは幸いなりし、八合目を発する時、鈴木政太郎、高杉宇之吉の二名は、食料並びに燃料取り寄せのため、一足先に下山なし、すでに馬返(うまがえし)の辺に到りし時、かの初度の登山者なる勝又恵蔵氏が一行出迎えのため、多くの人々を随えて登り来るに逢う、かねて野中氏のために尽力至らざる所なかりし勝又氏のこととて、右両名に取りあえず野中氏のことを質問し、重体ながらなお異状なきよしを聞きて半ば安堵し、なおその日滝河原まで来たりいる野中氏の厳父にその事を報告し、かつ東京へ急電を発することを依頼して引き別れぬ、これより勝又氏は次第に進みて、三合目の処まで到りしに、ここに一行の下山し来たるに行き逢いたれば、何はさて置きまず野中氏の傍らに立ち寄り見るに、前日面会の時よりは病勢一層はなはだしく、眼も腫れ塞がりて見えざるにや、姓名を名乗るまでは、更に勝又氏の来たれることを気付かざるものの如くなりし、もっとも妻女は異状なく、勝又氏を見るや否や一礼なして進み寄り、御親切有難う、命の親とは貴君の事でございますと涙と共に挨拶すれば、至氏も苦しき息を衝きながら、諸君の御厚意にて今日遂に下山することとなりたるが、実病のためとはいえ、思えばこの身の不甲斐なさ、ただ残念というの外なし、しかし御心労の段は至が言葉に尽しがたし、ただこれを心肝(しんかん)に銘ずるの一事あるのみと腫れ潰れたる目元を拭へば、一行いずれもその心中を思いやりて、誰とて袖を濡らさるはなし、この時、勝又氏は一旦の約束を破りて、足下の病気を人に告げしは慙愧(ざんき)に堪えぬ次第なるが、食言(しょくげん)の罪は拙者これを甘受せん、ただ天下のために足下(そくか)の如き偉丈夫を殺す能はざる旨を語りしに、野中氏は言葉もなくいたく氏の懇切に感ずるものの如くなりし、かくて二合目半の処にて野中氏を駕籠に乗せ太郎坊に至りしに、有志者数多出迎えおり、一行はこれ等の人々に擁せられて、午後八時瀧河原に達し、野中氏はここに養父勝良氏に面会せり、もとより勝良氏は、当初至氏の登山を許すに当り、心中すでに深く決する所ありしには相違なきも、今この病躯辛うじて下山し来たれる至氏を見て、その胸中やいかがなりけん、想いやられて哀れなりし、さて野中氏夫妻は同地佐藤与平治方の奥座敷を借りて入れ、しばらく病を養わしむる事として一行は酒宴を開き、深夜に至つて散会せり、ここに特筆すべきは深良村の医師瓜生駒太郎氏は、一行下山の際自ら四合目まで登山して、野中氏を診し、かつ手当を加えたるが、氏の見込みによれば生命には別条なし、しかし数日の間は閑静なる所にありて身体を動かさざるをよしとすと云えり、叉和田氏は始終病者を護し、己は登山下山共に残らず歩行して人夫を指揮し、下山の際のごときは十分毎に一行に休憩を命ずる等、注意至らざる所なく遂にその任務を果たして、かくは無事野中氏を山下(さんか)に移すを得たること、ひとえに氏の措置そのよろしきを得たるによるという。   (終)

MZ-16

資料番号  MZ-16
資料名

野中氏の病状と三浦博士

年代

 1895年(明治28年) 12月28日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 旧字旧仮名

野中至氏の其の後の病状を聞くに、気分はおひおひ快(こころよ)き方(かた)に向ひ居れるも、足部(そくぶ)は凍傷にて動かず、叉腰も立たざる有様なり、又帝国大学医学部の三浦博士は大学総長以下各職員総代として瀧河原に出張し、同地に一泊、去二十五日野中氏を診察したる由なるが、病症は脚気とのことにて、素(もと)より生命には別条なき見込みなり又其の妻女も同じく脚気の由なれど、是は至って軽症なりと

其の他寺尾東京天文台長も見舞の為同地に赴き、東京静岡辺の有志者中にも続々見舞いに赴くものありて、目下看護方々瀧河原に赴き居る野中勝良氏は、殆ど来客の送迎に暇(いとま)なき程なりと云ふ

 新字新仮名 野中至氏のその後の病状を聞くに、気分はおいおい快き方に向いおれるも、足部は凍傷にて動かず、叉腰も立たざる有様なり、また帝国大学医学部の三浦博士は大学総長以下各職員総代として滝河原に出張し、同地に一泊、去る二十五日野中氏を診察したるよしなるが、病症は脚気(かっけ)とのことにて、もとより生命には別条なき見込みなり、またその妻女も同じく脚気のよしなれど、これは至って軽症なりと、その他寺尾東京天文台長も見舞いのため同地に赴き、東京静岡辺の有志者中にも続々見舞いに赴くものありて、目下看護方々瀧河原に赴きいる野中勝良氏は、ほとんど来客の送迎に暇なき程なりという。


1896年(明治29年)

MZ-17

資料番号  MZ-17
資料名

富士登山和田技師の復命書

年代

 1895年(明治29年) 1月3日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 内容
 

資料番号  OM-63
資料名 野中至と新演劇
年代

 1896年(明治29年) 1月12日

新聞社

  東京朝日新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容 新演劇俳優井伊蓉峯は我が名の因みもある事なれば、彼の富士山頂に越年を企てたる野中至氏夫妻の事を演劇に脚色(しくま)んとて、目下材料蒐集中なりとか

OM-65 (MZ-18)

資料番号  OM-65 (MZ-18)
資料名 野中氏夫妻の帰京
年代

 1896年(明治29年) 1月14日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏/溝口克己氏提供
 

 野中至氏及び同夫人は一昨日午後四時新橋着の汽車にて帰京せり

氏の家族友人及び和田技師等は停車場へ出迎ひ、野中氏は出迎人両名の肩に縋りて漸く下車し、一同へ挨拶をなしたり

氏の容体は余程快方なるも、未だ下肢関節部自由ならず、凍傷も平癒せずと云ふ、叉婦人は左程の事はなく、直に乗車し、原町なる厳父野中控訴院判事の邸へ赴けり


OM-76 (MZ-19)

資料番号  OM-76 (MZ-19)
資料名 寒中富士山頂滞在概況 1/4
年代

 1896年(明治29年) 1月30日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ 国立国会図書館所蔵・大森久雄氏/ 溝口克己氏提供
 

是野中至氏山頂滞在中自から経験せし所の概況を写し昨日特に吾社に寄せられたるものなり

 

予が山頂に於て越年を企つるや、中央気象台より該地滞在中、気象観測の嘱託を受けたるを以て専心事に従ひしに、図らず病を得て、半途にして下山するの已むを得ざるに至りたるは、予が最も遺憾とする所なり、而して去る十月一日より十二月二十一日に至る滞在八十二日間の気象観測の結果は、如何にも大部にして、今尚ほ調査中なるを以て、未だ之を延る事能はずと雖も、茲に聊か其の概況を摘記して、世の清覧に供せんと欲す

昨二十八年九月中旬越年の準備粗整ひたるを以て、同月三十日登山悉皆(しつかい)諸機械の据付を終り、其の夜半即ち十月一日より観測に着手したり而して爾後二十余日は、観測の傍ら荷物整理、防寒準備のため、一層繁忙を極めたり、而して同月中旬までは諸機械も左程故障を見さりしが、爾後は風力計、湿球寒暖計等、其の効を為さざること多く、叉入口の鴨居の溝を切り放たさりし、前は外出すること能はざりしため、風向雲形雲量等戸外の観測意の如くならず、僅かに窓より天の一方を覗ふに止まりしを以て、或は其の正鵠を欠きたるものなきを確保し難きは遺憾にたえざる所なり、況や十一月中旬最低温度零下二十五六度に及びては、付着寒暖計は勿論、晴雨計等も屡々其の用を為さざるに至れり、叉電池の如き暖炉の周囲に羅列し置くも、猶ほ凝結せしため、止むを得ず風力の観測を休止するに至りたり、因って今後山頂に備付くべき諸器械にして改良を要するもの、一にして足らざることを発見せり

十月中旬までは霧雨雪の降ること滞在中比較的多かりしが、爾後は雨は勿論霧雪とても甚だ稀に、雲すら我が頭上に現はるゝこと僅少にして、昼夜とも晴明なりしに拘らず、脚下は白雲殆ど絶ゆることなし、風力は時に強弱ありと雖も、暴風と称すべきほどのものは一回もあらざりしが、滞在中凛々たる寒風怒号せさる日とては一日もなかりし、惜しいかな前述のごとく器械に故障を生ぜしため、屡々(しばしば)欠測せしを以て、茲に正確なる風速度を述ぶる能はずと雖ども、然れども其の一班は今回の実測により、粗(ほぼ)窺うに足るが如し、斯は他日調査完成を俟って更に報道することあるべし、而して叉其の方向は同月中旬までは一定せざりしが、爾後は西と北の間に止まり、偶々(たまたま)南東若しくは東より来たるとあるも、斯は極めて稀有にして、此の時は大半(おおむね)温暖にして、霧叉は雪を伴ふこと多し尤も冬季の降雪は、春季に比すれば其の量少なきにはあらざるが、勿論雪の寒風の為に吹き飛ばされつつ凝結し、舊(きゅう)噴火口内其の他凹處に堆積し、剣ケ峯の如きは予想の如く積雪を見ること極めて少なかりし、而して降雪若しくは濃霧の後、気圧低下し風最も徐(しず)かに、西若しくは北西より来たる時、温度の低下すること殆ど通例なるが如し、而して温度は十一月に入りて著しく低下し、中旬に至り最低氷点下二十七度八分に達せり、更に上昇して氷点十度内外に及び、十二月中旬に至りて再び氷点下二十五度に達し、仝日廿日即ち和田技師一行登山の頃は氷点下十五度内外に上昇したり叉気圧の如き登山の初めは四百七十粍(㍉㍍)餘なりしが、後には四百五十粍(㍉㍍)に下り、尚ほ漸々低下の傾(かたむき)ありしも、惜しいかな器械完全ならざりし為、之を測る事能はざりし(未完)


MZ-20

資料番号  MZ-20
資料名 寒中富士山頂滞在概況(承前) 2/4
年代

 1896年(明治29年) 2月1日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 kur

抑々⁽そもそも₎剣ケ峯は富士八峯中最も高く且つ甚だ狭隘⁽きょうあい₎なるを以て、僅かに六坪の観測所を設くるすら、猶ほ石垣を築出⁽つきいだ⁾して辛うじて得たるほどの難所なるにも拘わらず、其の最高点に建設したり、而して西及び北西の寒気を正面に受くること劇⁽はげ⁾しきを以て他の場所に比すれば、或は特に困難なるにはあらざりしかを感じたり、今回視察せし所によれば向後観象台を建設すべき位置は、彼の東賽河原と称する辺を以て適当とするものの如し、該地は頂上中最も広く且つ比較的平担にして、一方に熱気の残存せる所あり、他方には一大岩石の清水を湧出するあり(此の處最も多量に湧出すれ共僅かに夏季に止まり九月後は一大氷柱となる)、故に夏期は給水上最も便利なれば熱気を利用して風呂を沸かし、冬季も亦之を用いて薪炭を補はる経済上益する所なきに非ざるべし、予が今回特に剣ケ峯を撰みしは主として積雪少なからんことを予想せしによる、蓋し此の地は風害は恐るべきも、這は猶ほ家屋を堅固にせば之を防ぐことを得べく、且つ暴風は初秋に多くして冬期は稀有なるべしと推測したり、然るに積雪深きに至りては窒息の恐れと二三の観測を妨ぐるの嫌ひあるのみならず、生活上衛生上等不便を感ずること少なからず、且つ今回は諸事専ら試験的なるを以て建築叉は越年上困難なるべしと思ひしにも拘はらず、特に剣峯を選みたれ共、今回実視せし所によれば、賽河原は積雪意外に少なきを以て、今後の建設は同所を以て第一に推さざるを得さるが如し

今回の実験によれば、山頂は気圧低きが為め、身体の調子狂ひ勝ちになるにも拘はらず、寒気は漸々慣(なる)るに従ひ、敢て懼(おそ)るゝに足らざるものの如し、然れども十一月に入りては、苟(いや)しくも水分を含有するものは、縦令(たとひ)暖炉に付着し置くも総て氷結せざるものなし、最も暖炉は極めて軽くして、運搬に便に且つ熱を発散し易き最も薄き鉄盤にて製したる煙突付きの簡単なるものなりしが、多量の薪炭を用ひしにも拘らず寒気の為めに平地の如く周囲に熱を発散せず、稍々熱を吐出するは唯燃口(ねんこう)一方に止まるを以て充分に室内全部を暖むること能はざるが故に、総ての物の氷結するも無理なからず、身体も背面は衣服氷の如く冷ややかなるを以て、昼夜共に四五の懐炉を以て之を補ひたり、而して被服類は夜着小夜着は勿論、毛布の如きは十数枚を具へしが、猶不足を感じたり然るに毛布は風を透し日本風の織物は冷ややかにして手を触るべからざるが故に、今度はフランテルの類にして真綿の如き成るべく軽く且つ暖かなる夜具と、綿入の筒袖類と数多の毛布を具ふるを可とするが如し(冬期は気圧の低下夏期よりも一層甚だしきが故に夜具の類の重きものは胸部圧迫して呼吸甚だ困難なるを以て可成軽きものを具ふるを要す)

薪炭の燃え具合は予期の如く毫も差支えなく、寧ろ燃え過ぐる為め時々加減する位なりし、夏期工事中薪炭の燃え難きことを訴ふるを聞きしが、冬期は通常の竃或は爐叉は「七リン」の類にしては薪炭共に到底燃ることなし、彼の遼東半島地方に行はるゝ床下の採暖法も当初一考せざるにあらず、然れども気圧の低き為め、火気なきすら逆上し易き頂上にて、蒸気ならばいざ知らず火気を以て床下より暖め、尚ほ床上にても暖炉を要すべければ、室内の空気一層乾燥して鼻の腫物及び出血叉たは唇の亀裂等は、今回の実験に依るも下山するまでは到底癒ること能はざるべしと信ずるが故に、之を築造すると同時に逆上を予防するの準備を要するが如し、兎に角費用の点に於ても今回之を私設して、以て其の成績を見る能はざりしは遺憾とする所なり、今回は薪、木炭、石炭の三種を試用せしが、何れも優劣を見ざりし、然れども薪及び木炭は山麓にて需(もと)むることを得るも、石炭は供給地遠隔せるため運搬に不便なれば、今後とても先づ木炭三分の二、薪三分の一(薪は主として湯を沸かし、飯を炊くに用ゆ)の割合に貯ふるを可とするが如し(未完)


MZ-21

資料番号  MZ-21
資料名 寒中富士山頂滞在概況(承前) 3/4
年代

 1896年(明治29年) 2月2日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 

食物の如き獣肉、魚肉、海草類、乾物、漬物、青物類、酒類、糖類、香料等出来得る限り携帯したり、余は生来酒を好まざるを以て之を用ゆること極めて稀なりしも、青物の如きは少なくも隔日には食せざることなかりし、凡そ食料品は人各々嗜好あり、強ち一定すること能はずと雖も、縦ひ嗜好品たりとも一品を多量に携帯する時は、自から嫌厭を来すの嫌いあれば、寧ろ量少なくとも種類の多きを可とするが如し

飯は種々実験の末、殆んど並置と同様の物を炊き得るには至りたれ共、胃を傷はん事を恐れて常に粥を用ゐたりしが、冬期は運動意の如くならざる為め食気振はず、夏期頂上にて食気(しょくき)寧ろ進むが如くなる能はざりし、飲料水は総て氷雪を融解して用ゆること胃に害あるを感じたり、而して釜一杯の湯を得るに殆んど半日を費やすのみならず、多量の薪炭を要するが故に、健康を害すべしとは知りつつも、到底沐浴すること能はず、僅かに體中を拭ふに止まりし、此の如き有様なりしを以て、被服類の洗濯は思ひも寄らぬことなれば「シャツ」股引の類其の他肌に触るるものは、予め数個準備して時々取換えることになしたり、而して一日に二三回戸外に出で、太陽の熱に触れよ、新鮮の空気を呼吸せよ、叉少しは発汗する位に労働せよ、抔(など)有志者の忠告を受けたレ共、皆是れ下界の想像にして、到底頂上に於てたやすく行ひ得べき業にあらず、若し強いて之を行う時は、平地とは正反対の結果を生じ、効力全く無きのみならず、反って害あることを覚えたり故に今回滞在中運動は先ず二時間毎の観測と日々の薪割り、室内漕櫓、若しくは夕食後謡など発声するに止め置たり

家屋の構造は、既に世人の粗(ほぼ)知る所なるが故に、茲に之を省略すと雖も、床下の如き先ず籾殻(もみがら)を厚く散布したるが上に藁を敷詰め床板の上には尚ほ一面に紙を張り、花筵(はなござ)を敷き、毛布等を重ね敷きて湿気を防ぎたり、便所の如く便器(ヲマル)を用い、便毎に必ず戸外適宜の場所に抛棄し、双方共に防臭剤を散布し置くを以て、最も上策と覚へたり

余は初め、気象臺より六回観測の嘱託を受けたれ共、聊(いささ)か思う所あり私(ひそか)に十二回に変更せしが、到底一人にて堪え得べきに非ざるが故に密に後悔せしも、偶々(たまたま)荊妻の登山により爾後は観測時に固く呼び起こすべきことを命じ、間合を偸(ぬす)んで昼間安眠するを得し為め、十二回の観測は下山の日迄休止する事なかりし、尤も予が病臥後一周日許りは、仝人代って其の任に當りたれば、雲形、雲量等、二三の条目欠測せし所なきに非ず、同人も報効議会員訪問の頃、即ち十一月四日頃より逆上の為め扁桃腺炎に罹り、熱甚だしく発音さへ成り難く、湯水も咽喉に通ぜず一時苦境に陥りたれ共、腫を来し再び臥床するに至れり、爾後葛粉と小豆のみを用いて僅かに凌ぎしが、元と重症ならざりしと見え、同月下旬には全く常体に復したり、然るに此の頃より予も亦水腫の気味あるを感ぜしを以て、二食の内(食餌は漸次減じて十一月に入りてより日二食に改めたり、此の頃は既に粥二椀とねぎ叉は麩の汁物一杯に、一二の梅干、ラッキョの類を添食するに過ぎざりし、然れ共平素小食を練習し置たればさらに餓(うえ)を感ぜざるのみならず、反って半椀を過すも、食後胸苦しきこと言語に盡し難ければ、猶食欲はあれども勉めて之を食せざりし(未完) 


MZ-22

資料番号  MZ-22
資料名 寒中富士山頂滞在概況(承前) 4/4
年代

 1896年(明治29年) 2月4日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 

 滞在中は身辺つらきことのみ多ければ、食事などは先ず遣悶(けんもん)の一なるに、前述の如く食味少しもなきのみならず二食に止めざるべからざるに至りたれば、温度の漸次低下する頃は、身体の衰弱せるにも拘わらず観測に行くを以て第一の楽しみとする位なりし、一食は必らず葛粉のみを用い、後には二食とも之れのみ用いたり

十二月中旬に至りては発熱甚だしかりしが同じく二十日頃(下山の前々日)は熱稍(やゝ)減じたるが如し、然れ共予が病勢は妻に比すれば稍重かりしと見え、脚部に力なく、随って歩行意の如くならず、其の有様毫も脚気患者に異ならざりし、予は不慮に備ふるため、大工道具一ト通り、叉採氷用鋸其の他数十種の薬種をも携帯したれども、僅かに健胃剤叉は便通薬を用ひたる外他(ほかに)は之を服するの要なかりしは幸ひなりしも、脚気病の高燥なる此の山頂に発せんとは予想外なりしを以て、救急の術を施すに由なく殆んど当惑せしが、小豆の粉の如き何の益する所もあらざるべしと雖も、斯かる折節之を携帯し置きたるは聊(いささ)か其の効ありしかに覚えたり

今回図らずも病を得て公を煩わし、遂に下山するの止むを得ざるに至りたるは、最も恐縮する所なりと雖も、将来に取りては蓋(けだ)し先づ研究すべき一大材料なるべし、而して病の原因は種々あるべしと雖も、察するに運動意の如くならざりしと沐浴すること能はざりしとは、其の主たるものにあらざるなきか、今後とても戸外の運動は到底望むべからざるが故に屋内に廊下と浴場とを設けて運動と沐浴の便を図り、三四の有力なる技手日夜交代して事に従はば、今回の如く一人にて十二回の観測を為し、運動沐浴二つながら適宜を欠きたるにも拘わらず、寒中殆ど其の半期滞在し得たるを以て、之を推せば蓋し容易の業なるべし、況んや荊妻の如き婦女子の弱体すら、尚且つ之に堪え得たるに於てをや、余当初是等の外(ほか)電信若しくは電話架設の如きも計画せざるにあらずと雖も事容易ならず、到底微力の及ぶ所にあらざるを以て心密に危ぶみつつ、憾(うらみ)を呑んで篭居(ろうきょ)せしが故に、出来得る限り諸事注意を加へ、小心翼々摂生の途を守りたりしに、斯かる失敗を招きしは畢竟(ひっきょう)余の不肖に帰するの外なしと雖も、然れども亦自ら思ふ上来の如く資力の不足より毎事意の如くならざりしに基由(きゆう)するもの亦少なからざりしを、是實に余が最も遺憾に堪えざる所なり、乞ふ憫察(びんさつ)を垂れたまはんことを

今や余は不幸にして目的を貫くこと能はざりしため満足なる結果を報道するを得ざるは、甚だ慙愧に堪えざる所なきにあらざれば、之を参照して、以て今後広大なる家屋を築造し、精巧なる器械を装置し、電線を架して、以て通信を敏活ならしめ、有力なる技術者を得て、以て精確なる観測を為さしめ、之を完全の観象臺となし、併せて諸学のために実験場と為すの基(もとい)を開かんこと、希望に堪えざる所なり

予病勢逐日快癒に赴くと雖も、疲労のため諸事倦厭し易く、書見(しょけん)執筆未だ意の如くならず、故に詳細の報告は他日に譲り、茲に取敢へず其の概略を適記して止む               (完)  


MZ-23

資料番号  MZ-23
資料名 市村座井伊山口一座の評
年代

 1896年(明治29年) 2月22日  

新聞社

  東京朝日新聞

元データ  溝口克己氏提供
   


1907年(明治40年)ー1909年(明治42年)      『この花會』

K-001

資料番号

K001

資料名  この花會▽會長は野中至氏の夫人
   
掲載時期   1907年(明治40年)7月6日
メディア  東京朝日新聞
 元データ 国立国会図書館所蔵・藤部文昭氏提供 
説明

 芝公園第14号2番なる女子教育家千葉秀胤(ひでたね)氏は女学校教員其の他夫人令嬢等の依頼により、昨年初て安全と興味とを主眼とせるこの花會と称する女子団の富士登山會を組織し、首尾よく第一回登山の目的を果たしたるより、今年は稍其の規模を拡張し野中至氏の賛助の下に同夫人千代子女史を會長に仰ぎ、愈々近日其の第二回登山會を開く由なり・・・(以下省略) 


資料番号   K007
資料名 この花會_男爵夫人の富士登山
   
掲載時期   1909年(明治42年)7月30日
メディア  東京朝日新聞
元データ 国立国会図書館所蔵・藤部文昭氏提供  
説明

 

 



1934年(昭和9年)ー1935年(昭和10年)

F-001

資料番号 F001 
資料名

 富士山頂の観測所閉鎖の難を免る

  三井報恩会から7千円
掲載時期   1934年(昭和9年)8月29日
メディア  東京朝日新聞
 寄贈者 廣瀬洋一氏
説明

 つい先頃、癌研究所のラヂウム購入に百萬円を投出した三井報恩会では、資金難で今年から閉鎖する外はあるまいとされていた富士山頂の観測所に約七千円を補助して甦生させることになった・・・

 

 NPO法人富士山測候所を活用する会、東京事務所所蔵

 

 


資料番号  F002
資料名 富士の絶巓で迎ふ 新婚の第一春
  新夫人は富士の主の娘 流石、科学者夫妻
掲載時期  1935年(昭和10年)1月1日
メディア 東京朝日新聞
所蔵 野中勝氏
説明

 父親の喜び

恭子夫人の実父野中到氏を茅ヶ崎の宅に訪ねると、

天候が悪くて心配していましたが、娘たちはどうやら無事に山頂に到着したらしく31日山頂から安堵したうんぬんの無電が入りました、40年前の私達の苦難を実際に味わって見たいといふ恭子年来の望みが今度やっと叶ったわけです。