資料(報知新聞 -2)


1896年(明治29年)

資料NO

掲載年月日

掲載面 資料名 備考
OM-51 1896年(明治29年) 1月  2日   富士登山和田技師の復命書 *讀賣新聞
OM-52 1896年(明治29年)  1月  2日   富士の霊秘   《野中氏夫妻の直話》

日本一の高山

山上の雪

山上の風

OM-53 1896年(明治29年)  1月  4日   富士の霊秘(二)《野中氏夫妻の直話》

風と吹雪
海濱に棲むの思あり

下界を羨む

氷箒横に垂る

風の方向

下界より想像及ばず

OM-92 1896年(明治29年)  1月  5日   富士の霊秘(三)《野中氏夫妻の直話》

山頂の寒気

酒も凍り醤油も凍る

寒気は恐るゝに足らず

雪解け難し

風毛布を透す

      富士の霊  
OM-93 1896年(明治29年)  1月  7日   富士の霊秘(四)《野中氏夫妻の直話》

山頂の食物

砂糖乾燥す

注文の品物

OM-93-1 1896年(明治29年)  1月  7日   野中氏夫妻の帰京/義金の送付  
OM-54 1896年(明治29年)  1月  7日   芙蓉日記     野中千代子  
OM-55 1896年(明治29年)  1月  8日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-56 1896年(明治29年)  1月  9日   富士の霊秘(五)《野中氏夫妻の談話》

逆上甚だし

熱病人の如し

千代子の咽腫れ

千代子の水腫病

至氏の水腫病

脚気か水腫病か

病気の原因

天長節を祝す

OM-57 1896年(明治29年)  1月  9日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-58 1896年(明治29年)  1月 10日   富士の霊秘(六)《野中氏夫妻の談話》

運動出来難し

沐浴は最も困る

気象観測の結果

山頂の気圧

越年の望充分なり

観測所建築の場所

建築の方法

OM-59 1896年(明治29年)  1月 10日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-60 1896年(明治29年)  1月 11日   富士の霊秘(七)《野中氏夫妻の談話》

 山頂の大激論

和田技師の親切

手を合せて拝む

OM-61 1896年(明治29年)  1月 11日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-62 1896年(明治29年)  1月 12日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-64 1896年(明治29年)  1月 14日   野中氏夫妻の帰京  
OM-67 1896年(明治29年) 1月 15日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-68 1896年(明治29年)  1月 16日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-69 1896年(明治29年)  1月 17日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-70 1896年(明治29年)  1月 18日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-71 1896年(明治29年)  1月21日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-72 1896年(明治29年)  1月24日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-73 1896年(明治29年)  1月25日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-74 1896年(明治29年)  1月26日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-75 1896年(明治29年)  1月29日   芙蓉日記(続)  野中千代子   
OM-77 1896年(明治29年)  1月30日    芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-78 1896年(明治29年)  2月1日   芙蓉日記(続)  野中千代子  
OM-79 1896年(明治29年)  2月1日   井伊蓉峯 野中氏に教を請う  
OM-80 1896年(明治29年)  2月2日   富士山巓の概況     野中至 1/4  
OM-81

1896年(明治29年)  2月4日

  富士山巓の概況(承前) 野中至 2/4  
OM-82 1896年(明治29年)  2月5日   富士山巓の概況(承前) 野中至 3/4  
OM-83 1896年(明治29年)  2月5日   市村座  
OM-85 1896年(明治29年)  2月22日   市村座の書生芝居  
OM-86 1896年(明治29年)  3月6日   富士山巓の概況(承前)  野中至 4/4  
         

 


OM-51

資料番号  OM-51
資料名 富士登山和田技師の復命書
年代

 1896年(明治29年) 1月2日(木)

新聞社

  讀賣新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容 左の一篇は気象観測者野中至氏が富士山巓に於て病に罹れる為、中央気象台技師和田雄次氏が官命を帯び雪中の登山を試みたるより、遂に無事野中氏を下山せしめたるに至るまで、其前後の顛末を詳記したる、氏の復命書より和田技師登山の模様、野中至氏下山の次第は既に報道したるが、今之を見るに同調異趣更らに感慨の湧来ると覚ふ、依て講ふて、之を左に録す

OM-52

*要差し替え

資料番号 OM-52
資料名 富士の霊秘《野中氏夫妻の直話》
年代

 1896年(明治29年)1月2日(木)

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

至氏病を押して社員に語りて曰く、昨年九月三十日に余が富士山頂剣が峯の測候所を登りしより、十二月二十四日の下山に至るまで、富士山頂に在る事八十余日不幸にして疾病に罹り、年を越えずして山を降りては遺憾なれども此の八十余日間に新経験新知識を得て、我が将来の事業に好材料を與へし事寡なからず、今思い出づるままを語らん

日本一の高山 流石に富士山は日本一の高山なり、余が剣ケ峯に登り下界の人に別れて唯一人水平線上一万二千尺の高さに起居し、昼も夜も唯落々たる蒼穹(そうきゅう)と縹渺たる下界を眺むるのみ、空気の加減と云ひ気候の工合と云ひ、風の大勢力ある寒気の酷烈なる何事も皆な予想外にして、流石に日本第一の高山、他の万岳千峯は皆な脚底(きゃくてい)の隆窪たるに過ぎざるを覚えたり
山上の雪 雪は十月初めより降り初め、毎日吹雪となりて、晴れたる天気と云ふは殆ど稀れなり、然れども我が越年室即ち最高なる剣ケ峯の辺は、余の予想したるが如く風の強き為少しも積る事無し、左れど頂上即ち本宮の前の辺は甚だ深く積もれるを見たり
山上の風 下界の風は恰も人の呼吸するが如く一吹と一吹との間多少の間断あれども、山頂の風はノベツにして一たび吹き初むれば一瞬間の緩みもなく一カ月なり三カ月なる吹き続くるなり、而して其の勢力の強きこと實に驚くべきものあり、今其の一例を挙げんに、余の室に径五寸余の煙突あり、風は常に其の端を掠むるが故に、我々が径五分餘の竹筒を唇にあてて吹けば鳴るが如く、其の煙突は常に鳴りて恰も一大汽船の汽笛の響きを聞くに異ならず其の勢力斯くの如くなるが故に、室外に出れば其の風の為に呼吸も出来ざるなり、余が山に登りてより一日として斯かる烈風の吹かざる日はなかりき、したがって一日として雪日和ならざる日はなかりしなり、蓋し此の風の為め常に山腹に積れる雪を吹き揚げ来ればなり(以下続出)

OM-53

資料番号  OM-53
資料名 富士の霊秘(二)《野中氏夫妻の直話》
年代

 1896年(明治29年) 1月4日(土)

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容 風と吹雪 至氏は語りて曰く、風の勢力の強きことは既に話したるが、尚ほ其の一例を挙げんに、余の越年室は岩の上に建てられ、床は板を以て厳しく張り詰められ居るのみならず、先づ最下には籾殻を敷き新聞紙を敷き、藁を敷き、其の上に薄縁を敷きたれば、床下より襲い来たる寒気と風を防ぐには充分なりと思ひしに、如何なる隙間より襲い来たるにや、風は常に床下より室内に侵入して床に敷ける薄縁を吹き上ぐること一尺余に及べり、斯の如く勢ひ強き風は常に上下四方より室を襲ひたるが、其の風には必ず吹雪を伴ひたるが故に、室内には常に塵の如き雪を漲らし、土間の如き暫らく払はざれば直に積もりて銀を席けるが如くなりたり、或る日のことなりしが、餘りに雪を吹き込み来たる故、充分手を盡して針の耳程の穴までも塞ぎたるにさては何れに隙間あるにやと、能く能く之を詮議せしに、其の吹雪は室外に畳める累石の間より風に伴はれて入り来たり、三折四折して室内に吹き込みつつあることを発見したり
海濱に棲むの思あり 斯くの如く烈しき風は毎日毎夜吹き続けて室外を掠め其の響き恰も激浪怒涛に異ならざるが故に、常に海浜に棲みて室外を浪に洗わるるが如き思を為したり、唯だ海浜の響きは浪と共に多少の間断あれども山頂の響きはノベツなるの差あるのみ
下界を羨む 令閨千代子は語りて曰く、山頂は斯くの如く一日として荒れ、日和ならぬはなかりしも、下界を望めば空晴れ風なく、左も暖かそうに見えたる日少なからず、斯かる日には常に下界を望みて羨望の情に堪えざりき、唯だ下界にては天気快晴なるが故に、山頂も矢張り斯く天気快晴なるものと思われ居るかと思へば、少しく口惜しき様なる心地したり
氷箒横に垂る 至氏は語りて曰く、山頂にては室の周囲や岩の角に柱の如き氷柱を横に垂れ、其の美観云ふべからず、蓋し是れ風強きが為に、地に向て垂るるを得ず風の方向に従ひ横に垂れたるなり
風の方向 山頂の風は殆んど西南風に限れるが如し、余等の滞在中唯だ一日他の方向より風吹きたることありしのみにて、其の他は殆ど西南風なりと覚ゆ
下界より想像及ばず 山頂のことは凡て下界の人の想像し得る所にあらず、余は實に山頂の越年のつらからざるにあらざるを悟れり、余は下界にてつらいとか、苦しいとか、難儀だとか、恐いとか云へる言葉の實に勿体なきを覚りたり、若し夫れ冬日山頂にて一日の日を送りたる者は、恐らくは下界にて再び斯かる言を口にせざるべし、左れど余は之れが為に越年の出来ずと云ふにあらず、丈夫一たび死を決して斯かる業に従事する上は、如何につらき事も如何に苦しき事も難儀なる事も、亦た何ぞ忍び得られざることあらんや   (未完)

OM-92

資料番号  OM-92
資料名 富士の霊秘(三)《野中氏夫妻の直話》
年代

 1896年(明治29年) 1月5日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

山頂の寒気 至氏は語りて曰へらく、山頂の寒気の厳しさは今更云ふまでもなきことなるが、今其の例の二三を挙げんに、余が越年室の入口の戸、凍り付きて種々手段を盡せども開く能はざりしかば、或る日湯を掛けなば或は解けて開かれ得るに至るやも知れずと沸騰しつつある湯を掛けしに、其の湯は釜より出て戸に触るるや否や直に凍りて堅氷となり、却って戸と戸溝との間を凍合し、戸は益々堅くなりて中々開かれ得べくもあらず、左ればとて如何にもして戸を開かずんば、飲料水其の他一切の用水の原料たる雪を得る能はざるが故に種々苦心したる末、遂に一策を案出し鋸もて戸の溝の内側の縁を取り除き、僅かに戸を開くを得たり、叉た山頂にては少しく濡れたる手にて鉄器に触るれば其の手は直に鉄に凍り付き、無理に引き離さんとすれば手の皮むけるなり、或る日のことなりしが、余は暖炉の側に座したばこを吸はんとて洋銀のパイプを口にくわへたるに、其のパイプは直に唇にひたと凍り付き、之を離すに甚だ困じ果てたることありき
酒も凍り醤油も凍る 酒及び醤油の如き容易に凍らざるものなるを聞きしが故に余は常に其の凍るや否やに注意したるが、山頂にては酒も凍り、醤油も凍るを認めたり、唯だ醤油は酒よりも多少凍り難きのみ、石油の如きも亦た凍りてランプの中は恰も雪に青インキを加へたるに異ならざりき、斯くの如く山頂にては凡そ多少の水分を含み居るものは何一ツとして凍らざるはなく蜜柑の如き之を火にて炙り、而して後喰らはざれば何の味もなく、唯だザクザクとして氷を噛むに異ならざりき
寒気は恐るゝに足らず 斯くの如く山頂の寒気は其の厳しきこと言語に盡しがたきものあり、左れど是れ充分の防寒具さへ整ふれば決して恐るるに足らざるのみならず、少しく慣るれば之に堪ゆること左程六ケ敷にあらざるを覚りたり、現に今回僅かの間山頂にて厳寒を忍びたる為め多少肌慣れたるにや降山したる後は少しも寒気を感ぜず、人々が今日は非常に寒いと云ふ日にも余の身には差して寒むしと思はず、叉た布団を沢山掛けざれば寒むからんなど心配して呉れど、余の身に取りては薄き布団にて充分なるを覚ゆ
雪解け難し 余等は常に雪を解かして飲料其の他の用水に充てたるが、山頂にては雪甚だ解け難く、之を釜に入れて煮れば、一部沸騰し初めても一部は猶ほ雪のままにて存したる位なりし
風毛布を透す 山頂にては毛布七八枚を重ぬるも寒風は猶ほ之を透して骨に砭(いしばり)するを覚ゆ、唯だ綿は之を防ぐに足れども、木綿物は其の冷ややかなること氷の如く、身の一端之に触るれば全身ゾッとする位なりし、左れば余の考へにてはフランテルの夜具布団に綿を充分入れ置かば之を防ぐ決して難きにあらざるべし、綿は普通の綿よりも真綿の方大に寒を防ぐに足るが如し             (未完)

 

●富士の霊(たま) 富士の霊とは、富士山下瀧河原付近の村民が野中至氏を呼へるあだ名なるが、彼等村民は「富士の霊が山頂に宿って居る中は寒ければ寒ひとて山頂を望み暖ければ暖いとて山頂を見たが、今は其の霊が瀧河原へ降って来られたので山頂なぞは見たくもない」と話し合い居れるとなむ


OM-93

資料番号  OM-93
資料名

富士の霊秘(四)《野中氏夫妻の直話》

年代

 1896年(明治29年) 1月7日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

山頂の食物 至氏は語りて曰く、余の初め登山するや数多の缶詰を携へたり然るに登山後未だ数日を経ざるに缶詰には飽き果て、遂には其の缶の並び居るを見るさへいやになれり、飯も最初の程は三度づつ喰ひたれど腹に溜まりて消化せざるが故に、遂には其の度数を減じて二度となしたり、而かも尚ほ十分の消化を見る能はざりしが故に、此の度は飯を廃して粥となし、甘酒の如き粥二椀と汁一椀若しくは一椀半と定めたり、然るに尚ほ腹心地悪しきが故に遂には粥をも廃して葛練りを常食とするに至れり、汁は切り昆布と焼麩と玉ねぎとを交はりばんこに煮きて食ひたり、当時往々非常に困められたるは兼て定めたる量より少しく多量に食するとき、即ち粥二椀と定め居る時に二椀半も食するときは直に胸に差し込みし一事にして斯かるときにはろくに呼吸も出来ず、其の苦しさ實に云はん方なかりし

砂糖乾燥す 千代子は語りて曰く、山頂にては不思議に砂糖乾燥して其の味を失ひ下界より数倍の多量を用ひざれば其の用を為さず、叉た梅干の如きも凍りて殆んど酸味を失へり、左れば砂糖と云い梅干と云い最初の予算と大に相違し、下山までは充分と思いし者が、年内に殆んど盡き果てたり、是れに付ては心密に大に心配し居たるが、不図(ふと)和田技師の登山あるを聞き欠乏の品物を注文せんとて認めたる覚書あり
注文の品物 和田技師登山の前日、二三の強力登り来たりて技師が明日登山せらるる由を語りたれど、唯だ兼て申来り居たる如く様子見に来て下さることとのみ思ひ、其の巳等を連れ降らん所存なることなどは露知らざりければ兼て欠乏の品物を其の便に託し瀧河原なる佐藤與平治方へ注文せんと所天の命を受けて認めたる覚書ありとて千代子は左の覚書を示せり、是れ以て山頂に於ける需要品の大要を知るに足る

お ぼ へ

一干うどん 胃次第に弱りて今はご飯は勿論甘酒の如きお粥にても体むくみ候に付き是非是非お送り下さり度く

一小豆 是は夏頃おばあさんにご馳走になりし小粒能く煮へる分全体小豆は大小用の通じを付け候故右の通りむくみたる時には勿論相用ひ度存候

一まぐろ切身 肉の缶詰とても口に入不切身は可成なまにてお送りお送り下さり度候

一煮物砂糖 頂上にてはからからになり甘味うすくなり中に足り不申候

一ごま ごまは精分付候御面倒能くいりて粉にしてお送り下さり度く候

一梅干 是は大家の分を是非むしん致度候

一しいたけ、酢、らんぶしん(五分しん二本)

右之品もついでに御求め下さり度く候

一みかん、金平糖 右の品々は私共両人をたすけると思ひ御面倒ながらお買求め御送り下さり度く候兎に角金円御送り申上置候強力は幾人かかりにてもかまい不申候

資料番号  OM-93-1
資料名

野中氏夫妻の帰京

年代

 1896年(明治29年) 1月7日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

●野中氏夫妻の帰京

富士山麓に療養中なりし野中至氏及び夫人千代子は来る十二日十二時十五分新橋着汽車にて帰京する筈なり

●義金の送付



OM-54

資料番号  OM-54
資料名 芙蓉日記 野中千代子  1/17
年代

 1896年(明治29年) 1月7日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容 大御代のいやましに開け行く有が多さは賎の身さへかくうかれ出来にけりと思ふにつけて、いでや折にふれ心にうかびぬる事どもうつしてんと心ばかりはもがけども、ふみうたの林に遊びし事なき身のかなしさは、わたの底沖つしら玉いといと得がたき技になん、されどもさすがに天上にすめる今の身は、下界の思ひに引かへて実に此の世の外の心ぞすなる。

OM-55

資料番号  OM-55
資料名 芙蓉日記 野中千代子 2/17
年代

 1896年(明治29年) 1月8日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

 

 


OM-56

資料番号 OM-56
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子  3/17
年代

 1896年(明治29年) 1月9日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-57

資料番号 OM-57
資料名 富士の霊秘(五)《野中氏夫妻の直話》
年代

 1896年(明治29年) 1月9日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

逆上甚だし 至氏語りて曰く、一たび山に登りたる者は山頂は逆上甚だしく或は頭痛を催し、或は鼻血の出づることは、皆な能く知る所なるが、余等は一室の内に立て籠りて常に絶えず暖炉を焚き居ることとて、逆上甚だしく是れには實に閉口したり、余の如き立てば目まいし鼻血は常に出でて、殆んど絶ゆる時なかりき
熱病人の如し 千代子は語りて曰く、逆上甚だしきが上に外部の寒気厳しかりし為め手足顔等の荒るること甚だしく、最初は携へ行きたるリスリンなどを付けたれど、リスリン位にては中々及ぶ所にあらず、遂には口中などは常に大熱の時に異ならざるやうになりたり
千代子の咽腫れ 至氏は語りて曰く、斯くの如く山頂にては逆上甚だしかりしが、其の勢なるにや荊妻千代の咽喉に腫物出来て声も出でず、飲食も出来ざる様になりたり、千代は何うせ捨てたる命なれど、斯かる腫物などの為めに命を取られては残念なれば、如何様にても素人療治を為し給へかしと云ふにぞ余はキリの先を以て之をつき破りたるに、素人療治の効能ありしと見え膿出で数日ならずして癒えたり
千代子の水腫病 斯くて千代子は咽喉の腫物癒えたりと思ふ間もなく、漸く全身腫れ初めたり、時に十一月の始めなりしが、腫れは益々募りて顔も手足も甚だしく腫れ、一時は目も見えざる位なりし、當時余は思へらく身体の腫れる点より察するに、是れ脚気の類なるべければ米を喰はずして小豆を喰ふに如かざるべしとて、其の後は米を廃して小豆と葛練の類のみ食ひたり、然るに不思議にも廿日あまりを経て其の腫れは日一日に減じ、十一月の末には全く元の身体に復したり
至氏の水腫病 千代の水腫の癒ゆるや、此たびは余の全身漸く腫れ初めたり然るに千代の腫れたる折には誰れも見舞に来て呉れたる為め不幸にして此事を下界の人に知られ、遂に引き下さるるの已むを得ざるに立至りたるは返す返すも残念なり
脚気か水腫病か 右の病は脚気なるか将た水腫病なるか、医師の研究を仰がざれば明らかならざるが、或る医師の如きは之を脚気と鑑定して曰へり、今日までは脚気は成るべく高燥の地が好しとて転地するにも常に高燥の地を撰ばしめたるに斯かる高層にも矢張り脚気起るつすれば、是れ医学上大に研究すべき問題なりと
病気の原因 身体の腫れたる原因に至りては篤と医学者の研究を仰がざれば明らかならざれども、余の素人考えに考ふれば、先ず運動の足らざりしとも其の一なるべく、而して亦た糠の能く洗ひ去られざる米を食ひたるも其の一なりしが如し、現に千代の腫れたる時の如き明らかに糠多き飯を食ひたるに原因したるが如し、蓋し山頂にては水乏しきが為に、常に能く糠を洗い去るを得ずして食ひたればなり

天長節を祝す 恰も千代の腫れ初むる頃なりし日記を見れば十一月三日にて天長節に當れるを知りし、故国旗を窓にかけ皇城の天を望んで富士山上より遥かに天長の佳節を祝したり             (未完)


OM-58

資料番号  OM-58
資料名

富士の霊秘(六)《野中氏夫妻の談話》

年代

 1896年(明治29年) 1月10日

新聞社

  報知新聞

内容 運動出来難し 
沐浴は最も困る
気象観測の結果 今回山頂に於て最初より降山するまでの間、充分の観測を為し得たるは、先づ最高温度と最低温度のみなりき、蓋し風力計は登山後間もなく風と雪の為めに破られ、之に付随する電気盤は蓄電器を凍り破られたる為め用を為さざるに至り、晴雨計は山岳用の者なりしも、山頂にては気圧甚だ薄き為め、四百二三十以下は之を計る能はず、是れ或は五六千尺の高層を目的として製したるものなるに、山頂は一万尺以上の高層なるに依るにやあらむ
山頂の気圧 平地の気圧は大抵七百五六十の間なる由なれど、山頂にては四百四五十の間に降り、尚ほ機械にして完全なりせば、此の上も降るべき余地を存したり、亦た以て山頂の空気の希薄なるを知るに足るべし
越年の望充分なり 山頂は寒気の厳しきは云ふまでもなく、其の他何に一つとして困難ならざるはなけれども、準備さへ充分に整ふれば、山頂の越年は慥かに遂げ得らるるを信ず、余は今回の実験に依り、其の充分の望みあるを慥かめ得たり
観測所建築の場所  余の今回経験したる結果に依れば、将来気象観測所を建築すべき場所は賽の河原の邊最も適当なるが如し、殊に賽の河原には四時暖気を帯び居る場所あれば、若し之を能く試験して果たして人生に害なしとすれば、居間の如き其の上に建てなば幾分か寒気を防ぐに足り、且つ錫なり亜鉛なりにて箱を作り、其の一端を室何の地下、即ち最も暖気強き所に埋め置かば、其の中にて常に湯を沸かしむるを得、茲に沐浴の方法も立つに至るべし
建築の方法 建築は矢張り煉瓦を用ひ、居間と観測室とは之を別々に建て、其の間に廊下を作りて之を連結する方得策なるに似たり、而して其の今は之を暖気ある地に建て、観測室は之を暖気なき地に建て、其の間の廊下は平素の運動場に充て、恰も船員が甲板を往来して運動するが如く、常に其の間を往来して運動しなば、決して病気の起るが如きこともなかるべし(未完)

OM-59

資料番号  OM-59
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子  4/17
年代

 1896年(明治29年) 1月10日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-60

資料番号  OM-60
資料名 富士の霊秘(七)《野中氏夫妻の談話》
年代

 1896年(明治29年) 1月11日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容 山頂の大激論 至氏は語りて曰く、今回降山の途に就くの前夕、強力ニ三人来着して明日和田技師の登山せらるる由を告げたれど、其の予等を引き下さんが為めの登山なることなどは言葉の端にも現はさざれば、左ることとは夢にも知らず、唯だ唯だ予て約束ありし年内の見舞いを実行せられたることとのみ思ひ居たり、然るに翌日に至り和田技師は愈々来着し、思ひがけなくも余等に降山すべきを説かれたり、余は縦令(たとい)斃るるとも半途にして降山するなどとは思ひも寄らぬことなれば、確く之を否みたるに和田技師は沸然として色を作し「自分は今日は一巳の和田にあらず、今回君を降山せしめんが為めに態々沼津測候所へ出張を命ぜられたるものにして、技師として官命を帯び居る者なり、而かも君は余の言に従はずと云か」と手をポケットに入れ「茲に君の厳父及び令弟よりの書状も預り居れり、併し君の決答如何に依りては之を君に渡さざるべし」と嚇すが如く、誘ふが如く説かれたり、余は今日より思へば餘り失礼なことを云ひしと後悔する位なるが、和田技師の此の言を聞き「貴下若し真に官命を帯びて来られたりとならば、願はくば其の証拠を示されよ」と云ひたり、和田技師と共に登山したる筑紫警部は之を聞き「ホンに証拠を携へて来れば好かりしに、是れには気付かざりし」と左も残念らしく話されたるが、和田技師は大ひに声を荒らげ「証拠などが要るものか、君は僕が虚言をつくと思ふか」と怒鳴られたり、余は「いや決して貴下の虚言をつかるると思もふ訳にあらねども」と之れを詫び、且つ「余等が今山を降るは好けれども、将来富士山頂に於ける気象観測の事は如何せらるる積もりなるや」と問ひたるに、和田技師は「其の事は吾輩の胸に充分の成竹があるから、君は決して心配するに及ばぬ」と答へられたり、余は念の為めにと思ひ、幾度ぎか繰り返へして之を問ひたるに、矢張り「大丈夫だから決して心配するな」と答へらるる故、それならばと余も始めて其の勧めに従ひ、一先づ降山する事に決心したり
和田技師の親切 此の時の事と云ひ、降山の途中と云ひ、叉た平生の注意と云ひ、其の親切は實に話すとも出来ざる位なるが、余と技師とは別に骨肉の関係あるにもあらず、叉た竹馬の友と云ふにもあらざるに、斯くも血を分かちし父母兄弟も及ばざる位の鴻恩(こうおん)に預るは實に感涙に堪えざる所なり
手を合せて拝む 千代子は語りて曰く、和田技師の来訪を辱ふしたる前日は恰も祖父の命日に當りたるが、時早や所天に食はしむべき葛も尽きて今明日限りとなり、其の他砂糖の類も尽き果てたればとて、米食にては腫れは益々甚だしきに至るべく如何はせんと心密に大に心配したれど、之を所夫に告げなば其の心配を重ぬることもやど、痛く心を苦しめ居たり折りしも思いがけなく二三の剛力は窓の前に来たりて瀧河原から来ましたと呼ばはりたるにぞ其の嬉しさ實に飛び立つ計りなりしが、祖父の命日に見舞いの人が来て呉れるとは實に不思議なり、是れ或は祖父の霊の導き玉ひしにやあらんと思ひたれば、嬉しさの餘り覚はず走せ出して機械室に至り、手を合わせて祖父の霊を拝みたり (完)

OM-61

資料番号  OM-61
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子  5/17
年代

 1896年(明治29年) 1月11日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-62

資料番号  OM-62
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子  6/17
年代

 1896年(明治29年) 1月12日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-64

*要差し替え

資料番号  OM-64   
資料名 野中氏夫妻の帰京
年代

 1896年(明治29年) 1月14日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-67

資料番号  OM-67
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子 7/17
年代

 1896年(明治29年) 1月15日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-68

資料番号  OM-68
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子 8/17
年代

 1896年(明治29年) 1月16日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-69

資料番号  OM-69
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子  9/17
年代

 1896年(明治29年) 1月17日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-70

資料番号 OM-70
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子  10/17
年代

 1896年(明治29年) 1月18日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-71

資料番号  OM-71
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子  11/17
年代

 1896年(明治29年) 1月21日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-72

資料番号

 OM-72

資料名 芙蓉日記(続)野中千代子  12/17
年代

 1896年(明治29年) 1月24日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-73

資料番号  OM-73
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子 13/17
年代

 1896年(明治29年) 1月25日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-74

資料番号  OM-74
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子  14/17
年代

 1896年(明治29年) 1月26日

新聞社

報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-75

資料番号  OM-75
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子 15/17
年代

 1896年(明治29年) 1月29日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-77

*要差し替え

資料番号 OM-77
資料名

芙蓉日記(続)野中千代子 16/17

年代

 1896年(明治29年)1月30日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  


OM-78

資料番号  OM-78
資料名 芙蓉日記(続)野中千代子  17/17(終)
年代

 1896年(明治29年) 2月1日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-79

資料番号  OM-79
資料名 井伊蓉峯 野中氏に教を請う
年代

 1896年(明治29年) 2月1日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容   〇 伊井蓉峯野中氏に教を請ふ  近々開場の筈なる市村座狂言中『野中至』二幕は伊井蓉峯の出し物にて予て評判もある事なるこの蓉峯は一昨日野中氏夫妻に面会を乞ひ逐一富士山観測所の景況等を聞きたれば今回は飽く迄も実地にやる筈なりと云ふ

OM-80

資料番号  OM-80
資料名

富士山巓の概況    野中至 (1/4)

年代

 1896年(明治29年) 2月2日

新聞社

  報知新聞

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国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

左の一篇は富士山巓の高層観測家野中至氏の寄稿せる所 山巓観測の状況を知悉するに足るを以て此に掲ぐ(報知記者識)

 

予が山頂に於て越年を企つるや、中央気象台より該地滞在中気象観測の嘱託を受けたるを以て専心事に従ひしに、図らず病を得て半途にして下山するの已むを得ざるに至りたるは予が最も遺憾とする所なり、而して去る十月一日より十二月二十一日に至る滞在八十二日間の気象観測の結果は如何にも大部にして今尚ほ調査中なるを以て、未だ之を延る事能はずと雖も、茲に聊か其の概況を摘記して世の清覧に供せんと欲す

昨二十八年九月中旬、越年の準備粗整ひたるを以て、同月三十日登山悉皆諸機械の据付を終り、其の夜半即ち十月一日より観測に着手したり、而して爾後二十余日は観測の傍ら荷物整理、防寒準備のため一層繁忙を極めたり、而して同月中旬までは諸機械も左程故障を見さりしが、爾後は風力計、湿球寒暖計等、其の効を為さざること多く、叉入口の鴨居の溝を切り放たさりし前は外出すること能はざりしため、風向雲形雲量等戸外の観測意の如くならず僅かに窓より天の一方を覗ふに止まりしを以て、或は其の正鵠を欠きたるものなきを確保し難きは遺憾にたえざる所なり、況や十一月中旬最低温度零下二十五六度に及びては、付着寒暖計は勿論、晴雨計等も屡々其の用を為さざるに至れり、叉電池の如き暖炉の周囲に羅列し置くも、猶ほ凝結せしため、止むを得ず風力の観測を休止するに至りたり、因って今後山頂に備付くべき諸器械にして改良を要するもの一にして足らざることを発見せり

十月中旬までは霧雨雪の降ること滞在中比較的多かりしが、爾後は雨は勿論霧雪とても甚だ稀に雲すら我が頭上に現はるゝこと僅少にして、昼夜とも晴明なりしに拘らず、脚下の白雲殆ど絶ゆることなし、風力はときに強弱ありといえども暴風と称すべきほどのものは一回もあらざりしが、滞在中凛々たる寒風怒涛せさる日とては一日もなかりし、惜しいかな前述のごとく器械に故障を生ぜしため屡々欠測せしを以て、茲に正確なる風速度を延る能はずと雖も、然れとも其一班は今回の実測により粗(ほぼ)窺うに足るが如し、斯は他日調査完成を竣って更に報道することあるべし、而して亦其方向は同月中旬までは一定せざりしが、爾後は西と北の間に止まり偶(たまた)ま南東若しくは東より来たるとあるも斯は極めて稀有にして、此の時は大半(おおむね)温暖にして霧叉は雪を伴ふこと多し、尤も冬季の降雪は春季に比すれば其の量少なきにはあらざるが、勿論雪の寒風の為に吹き飛ばされつつ凝結し、舊(きゅう)噴火口内其の他凹處に堆積し、剣ケ峯の如きは予想の如く積雪を見ること極めて少なかりし、而して降雪若しくは濃霧の後気圧低下し風最も徐(しず)かに、西若しくは北西より来たる時、温度の低下すること殆ど通例なるが如し、而して温度は十一月に入りて著しく低下し中旬に至り最低氷点下二十七度八分に達せり、更に上昇して氷点十度内外に及び十二月中旬に至りて再び氷点下二十五度に達し、仝日廿日即ち和田技師一行登山の頃は氷点下十五度内外に上昇したり、叉気圧の如き登山の初めは四百七十粍(㍉㍍)餘なりしが、後には四百五十粍(㍉㍍)に下り、尚ほ漸々低下の傾(かたむき)ありしも、惜しいかな器械完全ならざるため、之を測る事能はざりし

抑(そもそ)も剣ケ峯は富士八峯中最も高く且つ甚だ狭隘なるを以て、僅かに六坪の観測所を設くるすら猶ほ石垣を築出して辛うじて得たるほどの難所なるにも拘わらず、其の最高点に建設したり、而して西及び北西の寒気を正面に受くること劇しきを以て、他の場所に比すれば、或は特に困難なるにはあらざりしかを感じたり、今回視察せし所によれば向後観象台を建設すべき位置は彼の東賽河原と称する辺を以て適当とするものの如し、該地は頂上中最も広く且つ比較的平担にして、一方に熱気の残存せる所あり、他方には一大岩石の清水を湧出するあり(此の處最も多量に湧出すれ共、僅かに夏季に止まり九月後は一大氷柱となる)故に夏期は給水上最も便利なれば、熱気を利用して風呂を沸かし、冬季も亦之を用いて薪炭を補はる、経済上益する所なきに非ざるべし、予が今回特に剣ケ峯を撰みしは主として積雪少なからんことを予想せしによる、蓋し此の地は風害は恐るべきも、這は猶ほ家屋を堅固にせば之を防ぐことを得べく、且つ暴風は初秋に多くして冬期は稀有なるべしと推測したり、然るに積雪深きに至りては窒息の恐れと二三の観測を妨ぐるの嫌ひあるのみならず、生活上衛生上等不便を感ずること少なからず、且つ今回は諸事専ら試験的なるを以て建築叉は越年上困難なるべしと思ひしにも拘はらず、特に剣峯を択みたれ共、今回実視せし所によれば、賽河原は積雪意外に少なきを以て、今後の建設は同所を以て第一に推さざるを得さるが如し          (未完)


OM-81

資料番号  OM-81
資料名

富士山巓の概況(承前)    野中至 (2/4)

年代

 1896年(明治29年) 2月4日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

今回の実験によれば、山頂は気圧低きが為め身体の調子狂ひ勝ちになるにも拘はらず、寒気は漸ゝ慣るに従ひ敢て懼るるに足らざるものの如し、然れども十一月に入りては苟(いや)しくも水分を含有するものは縦令(たとひ)暖炉に付着し置くも総て氷結せざるものなし、最も暖炉は極めて軽くして、運搬に便に且つ熱を発散し易き最も薄き鉄盤にて製したる煙突付きの簡単なるものなりしが、多量の薪炭を用ひしにも拘らず寒気の為に平地の如く周囲に熱を発散せず稍々熱を吐出するは、唯燃口一方に止まるを以て充分に室内全部を暖むること能はざるが故に総ての物の氷結するも無理なからず、身体も背面は衣服氷の如く冷ややかなるを以て、昼夜共に四五の懐炉を以て之を補ひたり、而して被服類は夜着小夜着は勿論、毛布の如きは十数枚を具へしが猶不足を感じたり、然るに毛布は風を透し日本風の織物は冷ややかにして手を触べからざるが故に、今度はフランテルの類にして真綿の如き成るべく軽く且つ暖かなる夜具と、綿入の筒袖類と数多の毛布を具ふるを可とするが如し(冬期は気圧の低下夏期よりも一層甚だしきが故に、夜具の類の重きものは胸部圧迫して呼吸甚だ困難なるを以て、可成軽きものを具ふるを要す)薪炭の燃え具合は予期の如く毫も差支えなく、寧ろ燃え過ぐる為め時々加減する位なりし、夏期工事中薪炭の燃え難きことを訴ふるを聞きしが、冬期は通常の竃或は爐叉は「七リン」の類にしては薪炭共に到底燃ることなし、彼の遼東半島地方に行はるゝ床下の採暖法も当初一考せざるにあらず然れども気圧の低き為め火気なきすら逆上し易き頂上にて、蒸気ならばいざ知らず、火気を以て床下より暖め、尚ほ床上にても暖炉を要すべければ、室内の空気一層乾燥して鼻の腫物及び出血叉たは唇の亀裂等は今回の実験に依るも下山するまでは到底癒ること能はざるべしと信ずるが故に、之を築造すると同時に逆上を予防するの準備を要するが如し、兎に角費用の点に於ても今回之を私設して以て其の成績を見る能はざりしは遺憾とする所なり、今回は薪、木炭、石炭の三種を試用せしが何れも優劣を見ざりし、然れども薪及び木炭は山麓まで需(もと)むることを得るも石炭は供給地遠隔せるため運搬に不便なれば、今後とても先づ木炭三分の二、薪三分の一(薪は主として湯を沸かし飯を炊くに用ゆ)の割合に貯ふるを可とするが如し

食物の如き獣肉、魚肉、海草類、乾物、漬物、青物類、酒類、糖類、香料等出来得る限り携帯したり、余は生来酒を好まざるを以て之を用ゆること極めて稀なりしも、青物の如きは少なくも隔日には食せざることなかりし、凡そ食料品は人各々嗜好あり、強ち一定すること能はずと雖も縦(たと)ひ嗜好品たりとも一品を多量に携帯する時は自から嫌厭を来すの嫌いあれば、寧ろ量少なくとも種類の多きを可とするが如し(未完)


OM-82

資料番号  OM-82
資料名

富士山巓の概況(承前)    野中至 (3/4)

年代

 1896年(明治29年) 2月5日  

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

飯は種々実験の末、殆んど平地と同様の物を炊き得るには至りたれ共、胃を傷はん事を恐れて常に粥を用ゐたりしが、冬期は運動意の如くならざる為め食気振はず、夏期頂上にて食気寧ろ進むが如くなる能はざりし、飲料水は総て氷雪を融解して用ゆること、胃に害あるを感じたり、而して釜一杯の湯を得るに殆んど半日を費やすのみならず、多量の薪炭を要するが故に、健康を害すべしとは知りつつも、到底沐浴すること能はず、僅かに體中を拭ふに止まりし、此の如き有様なりしを以て、被服類の洗濯は思ひも寄らぬことなれば「シャツ」股引の類其の他肌に触るるものは、予め数個準備して時々取替ることに為したり、而して一日に二三回戸外に出で太陽の熱に触れよ、新鮮の空気を呼吸せよ、叉少しは発汗する位に労働せよ、など有志者の忠告を受けたレ共、皆是れ下界の想像にして到底頂上に於てたやすく行ひ得べき業にあらず、若し強いて之を行う時は、平地とは正反対の結果を生じ、効力全く無きのみならず、反って害あることを覚えたり、故に今回滞在中運動は先ず二時間毎の観測と日々の薪割り、室内漕櫓、若しくは夕食後謡など発声するに止め措たり

家屋の構造は既に世人の粗(ほぼ)知る所なるが故に茲に之を省略すと雖も床下の如き先ず籾殻を厚く散布したるが上に藁を敷詰め、床板の上には尚ほ一面に紙を張り、花筵を敷き、毛布等を重ね敷きて湿気を防ぎたり、便所の如く便器(ヲマル)を用い、便毎に必ず戸外適宜の場所に抛棄し、双方共に防臭剤を散布し置くを以て最も上策と覚へたり

余は初め、気象臺より六回観測の嘱託を受けたれ共、聊(いささ)か思う所あり、私に十二回に変更せしが、到底一人にて堪え得べきに非ざるが故に、密に後悔せしも、偶(たまた)ま荊妻の登山により、爾後は観測時に固く呼び起こすべきことを命じ、間合を偸んで昼間安眠するを得し、為め十二回の観測は下山の日迄休止する事なかりし、尤も予が病臥後一周日計りは、仝人代って其の任に當りたれば、雲形、雲量等二三の条目欠測せし所なきに非ず同人も報効議会員訪問の頃、即ち十一月四日頃より逆上の為め、扁桃腺炎に罹り熱甚だしく発音さへ成り難く、湯水も咽喉に通ぜず一時苦境に陥りたれ共、腫を来し再び臥床するに至れり、爾後葛粉と小豆のみを用いて僅かに凌ぎしが、元と重症ならざりしと見え同月下旬には全く常体の復したり、然るに此の頃より予も亦水腫の気味あるを感せしを以て、二食の内(食餌は漸次減じて十一月に入りてより日二食に改めたり、此の頃は既に粥二椀とねぎ、叉は麩の汁物一杯に一二の梅干、ラッキョの類を添え食するに過ぎざりし、然れども平素小食を練習し置たればさらに飢を感ぜざるのみならず、反って半椀を過ごすも食後胸苦しきこと言語に盡し難ければ猶食欲はあれども勉めて之を食せざりし、滞在中は身辺ツラキ事のみ多ければ食事などは先ず遣悶(けんもん)の一なるに、前述の如く食味少しもなきのみならず二食に止めざるべからざるに至りたれば、温度の漸次低下する頃は身体の衰弱せるにも拘わらず観測に行くを以て第一の楽しみとする位なりし)一食は必らず葛粉のみを用い、後には二食とも之れのみ用いたり(未完)


OM-83

資料番号  OM-83
資料名 市村座
年代

 1896年(明治29年) 2月5日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  〇市村座 (前略)中幕は「富士山観測」富士山下瀧河原の場、富士屋奥座敷の場、馬返しの場、富士山剣が峰測候所の場等なるが役割はまだ定まらず

OM-85

資料番号  OM-85
資料名 市村座の書生芝居
年代

 1896年(明治29年) 2月22日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容  

OM-86

資料番号  OM-86
資料名

富士山巓の概況(承前)    野中至 (4/4) 

年代

 1896年(明治29年) 3月6日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

十二月中旬に至りては発熱甚だしかりしが同じく二十日頃(下山の前々日)は熱稍々減じたるが如し、然れども余が病勢は妻に比すれば稍々重かりしと見え、脚部に力なく従って歩行意の如くならず、其の有様、毫も脚気患者に異ならざりし、予は不慮に備ふるため大工道具一通りまた採氷用鋸、其の他数十種の薬種をも携帯したれども、僅かに健胃剤または便通薬を用いたる外他は之を服するの要なかりしは幸ひなりしも、脚気病の高燥なる此の山頂に発せんとは予想外なりしを以て、救急の術を施すに由なく殆ど当惑せしが、小豆の粉の如き何の益する所もあらざるべしと雖も、斯かる折節之を携帯し置きたるは聊か其の効ありしかに覚えたり

今回図らずも病を得て公を煩わし遂に下山するのやむを得ざるに至りてるは最も恐縮する所なりと雖も、将来に取りては蓋し先ず研究すべき一大材料なるべし、而して病の原因は種々あるべしと雖も、察するに運動意の如くならざりしと沐浴すること能はざりしとは、其の主たるものにあらざるなきか、今後とても戸外の運動は到底望むべからざるが故に、屋内に廊下と浴場を設けて運動と沐浴の便を図り、三四の有力なる技手日夜交代して事に従はば、今回の如く一人にて十二回の観測を為し運動沐浴二つながら適宜を欠きたるにも拘わらず寒中殆ど其の半期滞在し得たるを以て之を推せば、蓋し容易の業なるべし、況や荊妻の如き婦女子の弱体すら尚且つ之に耐え得たるに於てをや、余当初是等の外電信若しくは電話架設の如きも計画せざるにあらずと雖も、事容易ならず到底微力の及ぶ所にあらざるを以て、心密かに危みつつ恨みを呑んで籠居せしが故に、出来得る限り諸事注意を加へ、小心翌々摂生の途を守りたりしに、斯かる失敗を招きしは畢竟余の不肖に帰するの外なしと雖も、然れども亦自ら思ふ、上来の如く資力の不足より毎事意の如くならざりしに基由するもの亦少なからざりしを、是實に余が最も遺憾に耐えざる所なり、乞ふ憫察を垂れたまはんことを、今は余は不幸にして目的を貫くこと能はざりしため、満足なる結果を報道するを得ざるは甚だ慙愧に堪へざる所なり、然れども滞在既に八十有余日多少実験し得たる所なきにあらざれば之を参照して以て今後広大なる家屋を築造し、精巧なる器械を装置し電線を架して以て通信を敏活ならしめ、有力なる技術者を得て、以て精確なる観測を為さしめ之を完全の観象台となし、併せて諸学のために実験場と為すの基を開かんこと希望に堪へざる所なり、予病勢逐日快癒に赴くと雖ども疲労のため諸事倦厭し易く、書見執筆未だ意の如くならず、故に詳細の報告は他日に譲り、茲に取敢へず其概略を摘記して止む(完)