資料(山梨日日新聞)

山梨日日新聞社著作物の利用許諾書(2023年8月16日)により掲載許諾を得ています。


1895年(明治28年)

資料NO

掲載年月日

掲載面 資料名 備考
MZ-52 1895年(明治28年)9月3日 2面 富士山上の気象観測  
MZ-53 1895年(明治28年)9月13日   気象観測富士登山記  
MZ-54 1895年(明治28年)9月14日   気象観測富士登山記(続)  
MZ-55 1895年(明治28年)9月18日 1面 野中氏家族に送りたる書翰  
MZ-56 1895年(明治28年)9月25日 3面 気象談話  
MZ-57 1895年(明治28年)9月26日 3面 和田技師  
MZ-58 1895年(明治28年)9月28日 1面 富士山頂気象観測続聞  
MZ-59 1895年(明治28年)10月1日 2面 和田技師の会葬  
MZ-60 1895年(明治28年)10月30日 3面 気象観測  
MZ-61 1895年(明治28年)12月12日 1面 雪中登攀富士紀行  
MZ-62 1895年(明治28年)12月19日 1面 雪中の富士登山  
MZ-63 1895年(明治28年)12月20日 2面 雪中の富士登山(続)  
MZ-64 1895年(明治28年)12月21日 1面 富士山巓の野中至氏  
MZ-65 1895年(明治28年)12月24日 3面 和田技師の富士登山  
MZ-66 1895年(明治28年)12月27日 2面  野中氏夫妻山を下る  
         

 


MZ-52

資料番号  MZ-52
資料名  富士山上の気象観測
年代

 1895年(明治28年) 9月3日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
  気象の観測は其の観測する区域の広く且つ上層に及ぶ程精確なるものなるが、我が国にては従来、信州浅間山を以て最高測候所となし、其の他の高山には一年数回登山して観測するのみなりし處、本年は富士山頂に於て最も正確なる気象観測を遂げんが為め、先に中央気象台より技手立笠八五郎、雇諏訪貫一の両氏を派遣し、専ら観測に従事せしめ居り、叉同臺技手吉田清次郎氏も一昨日新橋発の汽車にて登山し、本月上旬には台長和田雄治氏も登山するよしなり、茲に感ずべきは第二本気象學會員野中至氏なり、氏は本年一月積雪を冒して富士に登り、厳冬中と雖も住み難からざるを験し、私費を以て山頂に測候所を新築中なりしが、此の程工事落成せし旨、気象台へ報じ来れりと、氏は本年は山頂に越年して気象観測に従事する筈にて、中央気象台員諸氏が本月下旬観測を終わりて下山するときは観測に要する諸器械は悉皆野中氏に貸与へ置く筈なりと

MZ-53

資料番号  MZ-53
資料名  気象観測富士登山記
年代

 1895年(明治28年) 9月13日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 内容  (未完)

MZ-54

資料番号  MZ-54
資料名  気象観測富士登山記(続)
年代

 1895年(明治28年) 9月14日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 内容  (完)

MZ-55

資料番号  MZ-55
資料名  野中氏家族に送りたる書翰
年代

 1895年(明治28年) 9月18日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 内容  

MZ-56

資料番号  MZ-56
資料名 気象談話
年代

 1895年(明治28年) 9月25日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ 溝口克己氏提供
 内容

中央気象台技師理学士和田雄治氏は、殆ど気象台創立以来、気象測候の事に従ひ頗る斯学に熟通せる日となる由なるが、富士山巓にて越年し気象の測候をなさんとする例の野中氏のために機械据付其の他指揮のため、一週間許りも富士に赴き居たる、帰途当市に立ち寄り、昨二十四日中学校講堂にて気象に関する講話をなしたり、本社にも案内ありたれば記者は午前十一時頃より同所に赴きたるに、氏は已に壇上に立ち演述するとか云へり、一時間余り聞きたる講話の大要は陸、水、空気が如何に太陽の熱に因りて風雨、寒暖を発作するかを糸分?析し地図に就いて慇懃に説明せられなれども生徒を聴衆としたる講和なるが為めが別に新?なる議論もなく、普通の理学書に見ゆる普通の学説なりしか如し、但講和中に挟めるさ話にして稍々趣味あるものを挙れば、世人は野中氏が富士山巓氷雪の中にて冬籠りをなし、気象を測候すと聞き、其の勇猛なる決心に驚くと共に、或は凍死するの恐れはあるまじきやと危ぶむものあり、然れども学理を以て富士山巓の寒冷の度を推算するに極寒の時も摂氏氷点下三十四五度なるに過ぐべからず、之を本邦中最も寒冷なる土地(千島の如き調査の行き届かざる所を除く)北海道のイトカワ等に比すれば、尚数度の温暖を保てり、イトカワは氷点下三十六度七まで寒暖計の沈降せるにも拘わらず年を逐て繁華に赴き、已に離宮を建設せんとの世論さへ起これるにあらずやされば野中氏は防寒の用意さへあれば毫も凍死するなんどの気遣い在るまじ云々、叉本県は近く南の方太平洋に接し、北は比較的に日本海を距る遠くして、四面に山を廻らしたれば普通の学理を以て推すに自然冬は北風多くして夏は南風多く、冬期は南の方に降雪の量多くして夏期は北の方降雨の量多く、潮流のために気候に影響をこうむること少なかるべし、されど詳細なる気候の変化を説明するは事情の許さざる所、甲府に測候所を設けて今に至るまで僅かに一年前後たるに過ぎず、本県を完全に説明せんには今後五六年の後調査の材料豊富なるを待たざるべからず云々、昨年より本年に至るまで調査したる所に因れば、本県にて暑熱熾烈なりしは摂氏三十五度にして極めて寒気厳酷なりしは氷点か十八度なり、之を本邦中最も暑い土地、即ち熊本の三十八度を以て酷暑となせるに比して僅かに三度の相違あるのみ、叉最も寒き土地、即ちイトカワの三十六度を以て極寒となせるに比しては十八度の相違あり云々、因みに云う午後の講和を終わり次第、同氏は帰京の途に上る筈なり


MZ-57

資料番号  MZ-57
資料名 和田技師
年代

 1895年(明治28年) 9月26日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 内容  中央気象台技師和田雄治氏は、昨日帰京の途に就きたり

MZ-58

資料番号  MZ-58
資料名 富士山頂気象観測続聞
年代

 1895年(明治28年) 9月28日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 内容

富士山頂気象観測の為め、中央気象台より第二回として出張せし吉田清次郎、諏訪貫一両技手の担当に係る本月一日より同二十日の夜半に至る迄の観測の模様を聞くに、同山頂は追々寒気を増し、当時日中の最高温度大抵十度(摂氏)位にして、夜間は氷点以下に降れり、去七八日頃九州より中国を経て日本海へ吹き抜けたる暴風の際は、同山頂も甚だしき影響を被り、七日の朝より暴風起り、剰(あまつ)さへ雨さへ加はりて、其の勢ひ頗る猛烈なりしが、翌八日の朝は極点に達し、観測用の器械中屋上に据え付け置きたる雨量計に小破を生じ、風力計の如きも予備の分は屋上より吹き飛ばされて大破を受け、再び使用に堪へざらしめたれども幸に観測に差支を生ずる程には至らざりし、何様山頂の事とて小屋の動揺甚だしく宛(さな)がら船中に在るが如く、今にも転覆するかと思はるるばかりにて、観測の時は屋外に直立すること能はざるを以て匍匐して用を辨じたれども、小石飛び来たりて面を打ち、小屋の戸口は恰も小銃の乱発を受くるが如く、最も物凄き光景にて甚だ危険なりし、此の如き有様なれば耳の鼓膜は圧迫を受け心地悪きこと?へんに物なく依って綿を耳に嵌めて僅かに其の圧迫を防ぎたり、八日午後三時の風力一秒時間に五十米突(㍍)一三なりしを以て見るも其の猛烈なりしを知るに足らん為めに非常に寒気を増し、八日の正午は氷点下五度に降りたるを以て室内に在る物にても少なく湿気を帯びたる品は恰も棒の如く凍結せしが、其の後三四日は稍々平穏に帰したれども時々濃霧の襲来甚だしく咫尺を辨ずること能はず、十三日午後六時三十分頃より雪降り出し、翌十四日も終日飛雪繽紛(ひんぷん)として降り、満山皚皚として白砂を敷きたるが如き観を為したり、是れ同山に於ける本年の初雪なり、爾来一層寒気を増し最低温度氷点下二度八に降りたり、是れ去る八月十二日同山の観測に着手せし以来の最低度なりと、然るに其の後十七八日頃、即ち東京辺が俄かに暑気を増したる時は同山も暖気に復し、十八日の最高温度は十四度七なりしを以て、之れが為めに雪は忽ち消滅したり、其の後北海道を暴風の通過せし時も同山は其の影響を受け十九日より廿日に掛けて南西乃至西の暴風吹きたりと、中央気象台の出張に係る同山頂の測候所は去二十日の夜半を限り引払ひ吉田諏訪の両技手も和田技師及び野中至氏等と相携えて去二十三日帰京したり、野中氏は今明日頃東京出発再び登山愈々冬期の観測に着手する手筈なりと

●富士山上の飲料 富士山に於て何よりも困るものは飲料水なり、冬期積雪の候には雪を溶かして用ゆると云う便利もあれども今頃は積もる程の雪とては降らず、僅かばかりの井水は氷り詰め僅かに泥混じりの濁水を飲用に供する事なるが、茲に面白きは岩角に垂れ下がる氷柱を束になしをき一二本づつ溶かして飲料水に用ゆる事なり、彼の野中至氏は当分この氷柱の束を飲料水となす筈なりと云ふ


MZ-59

資料番号  MZ-59
資料名 和田技師の会葬
年代

 1895年(明治28年) 10月1日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 内容 此の程来峡したる中央気象台技師和田雄治氏は東八代郡黒駒村出身故梶原鶴吉、古屋林蔵両兵士合葬の当日、同村を通り掛かりて葬儀場に立ち寄り、霊前に於て弔詞を述べ且つ香華料若干を寄付して立ち去りしといふ

MZ-60

資料番号  MZ-60
資料名 気象観測
年代

 1895年(明治28年) 10月30日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 内容  

MZ-61

資料番号  MZ-61
資料名  雪中登攀富士紀行
年代

 1895年(明治28年) 12月12日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
   

MZ-62

資料番号

 MZ-62

資料名  雪中の富士登山
年代

 1895年(明治28年) 12月19日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
   

MZ-63

資料番号  MZ-63
資料名  雪中の富士登山(続)
年代

 1895年(明治28年) 12月20日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ 溝口克己氏提供
   

MZ-64

資料番号  MZ-64
資料名  富士山巓の野中至氏
年代

 1895年(明治28年) 12月21日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ 溝口克己氏提供
   

MZ-65

資料番号  MZ-65
資料名  和田技師の富士登山
年代

 1895年(明治28年) 12月24日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ  溝口克己氏提供
 内容

中央気象台技師和田雄治氏は富士山頂気象観測者野中至氏の危急を救はん為め同山へ出張せる、技師は去十八日午前八時五分新橋発正午頃御殿場停車場に着、直ちに筑紫御厨警察分署長、平岡巡査及有志者と打合せの上、登山の準備に着手し翌十九日も終日之が準備を為し、午後四時中畑(富士山麓)に赴きて其夜は同地に一泊し、廿日午前六時和田技師の一行即ち警部巡査郡書記有志者はモッコ人夫六人、食糧夜具運搬夫余人、都合十五人連にて瀧河原を発し、愈々登山の途に上りたる由、一行山頂に達するまでには少くも三昼夜を要し、野中氏夫妻はモッコに載せて下山せしるむ計画なりしといふ尚去十九日付を以て和田技師より野中至氏の厳父勝良氏に送りし書面の摘要を見るに、

 

 


MZ-66

資料番号  MZ-66
資料名  野中氏夫妻山を下る
年代

 1895年(明治28年) 12月27日  

新聞社

山梨日日新聞

元データ 溝口克己氏提供