資料(報知新聞 -1)


1895年(明治28年)

資料NO. 掲載年月日 掲載面 資料名 備考
OM-03  1895年(明治28年)9月 1日    富士山の気象観測  
OM-05  1895年(明治28年)9月11日   気象探検富士登山記

第二回冬期富士登山記(野中氏の手稿)

山上の風雨

OM-06  1895年(明治28年)9月17日   好一対の伉儷(野中氏夫妻)  
OM-06-1  1895年(明治28年)9月17日   野中氏厳父の狂歌  
OM-07  1895年(明治28年)9月18日   富士山の大暴風

中畑の勇士野中氏に同行せんとす

野中氏の熱心強力

OM-08  1895年(明治28年)9月21日  

野中至氏の事業を助く

 

OM-09

 1895年(明治28年)9月24日  

此女にして此親あり

 
OM-11  1895年(明治28年)9月28日  

野中至氏の談話

山頂の氷柱

富士の山終

山頂の電線

山上の音信

マグネシア洋燈

特に剣の峯を選びし所以

OM-12

 1895年(明治28年)9月29日  

野中至氏の談話(続)

夫人の決心と準備

素志は越年に非ず

志を誤られんことを恐る

ナマケタ天罰

苦心は既往にあり

皆な世人の御蔭

山頂測候の計画

OM-13  1895年(明治28年)9月29日  

社告 社員を富士山巓に特派す

 

YM-01

 1895年(明治28年)10月 1日  

社告 社員を富士山巓に特派す

 
OM-91  1895年(明治28年)10月 4日  

高層観測の目的

高層観測の眞目的

欧米の高層観測所

高山観測所の嚆矢

第一の高山観測所

最高の常住観測所

完全の高山観測所

佛国の高層観測所

英国の高層観測所

YM-02

 1895年(明治28年)10月 5日

 

富士登山記(二)九月丗日朝富士山下瀧河原に於て

特派員 石塚正治 

高層測候の必要

富士山頂早きこと一日

迎ふる者山の如し

送別の宴

瀧河原に向ふ

馬上の月

YM-03

 1895年(明治28年)10月 6日

 

富士登山記(三)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治 

瀧河原の小宴

無邪気の處女

瀧河原の深更

裾野の朝景色

野中千代子

瀧河原を発す

暴風雨登る可らず

YM-04

 1895年(明治28年)10月 8日

 

富士登山記(四)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治 

富士の裾野

曽我兄弟の墳墓

裾野の秋色

馬返

太郎坊

一合目より二合目

YM-04-1  1895年(明治28年)10月 8日  

富士山の積雪

 
YM-05

 1895年(明治28年) 10月10日

 

富士登山記(五)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治 

二合目の眺望

二合目の石室

期節外の登山

登山の始まり

冬は氷の山

YM-06

 1895年(明治28年) 10月11日

 

富士登山記(六)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治 

愈々苦境に入る

登山法

二合二勺目の休息

忽ち雲中の人と為る

YM-07

 1895年(明治28年) 10月12日

 

富士登山記(七)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治 

寒中の冷気

雲上の人と為る

眼下の眺望

寶丹は禁物

OM-17

 1895年(明治28年) 10月13日

 

富士登山記(八)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治  

千秋の雪

胸突八町

八合目以上の困難

柱の如き氷筆

暴風雨襲い来る

YM-08

 1895年(明治28年) 10月16日

 

富士登山記(九)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治  

暴風を冒して馬背の嶮を渡る

剣ケ峯

野中氏の宅に着す

愈々山に酔ふ

大混雑

YM-08-1  1895年(明治28年) 10月16日  

野中氏登山後の富士山

 
OM-18

 1895年(明治28年) 10月17日

 

富士登山記(十)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治 

野中氏の越年室

居間

山頂の無礼講

山頂の寒気

第一着の山頂測候

OM-19  1895年(明治28年) 10月18日  

野中千代子の登山

 
OM-20  1895年(明治28年) 10月19日  

富士登山記(十一)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治  

富士は総て氷塊

山頂の夜景

凄絶愴絶

YM-09

 1895年(明治28年) 10月20日

 

富士登山記(十二)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治  

富士の八峯

憎らしき風力計

富士言葉、

富士の名物牡丹餅一個二十五銭

OM-21

 1895年(明治28年) 10月23日

 

富士登山記(十三)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治  

山頂の野中氏

野中氏の食料品

室内運動器

山頂の両便所

YM-10  1895年(明治28年) 10月24日  

富士登山記(十四)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治  

炭一俵九十銭

回光器

回光器の利用

YM-11  1895年(明治28年) 10月25日  

富士登山記(十五)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治  

山頂の黎明

山頂の暴風雨

釣鐘横に垂れて動かず

天然的風雨計

YM-12  1895年(明治28年) 10月26日  

富士登山記(十六)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治  

身は富士より高し

山頂の飯は生米に等し

宝永山

富士の虎杖

YM-13  1895年(明治28年) 10月27日  

富士登山記(十七)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治  

 宛然東洋の魯敏孫

牛肉の缶詰

大に鳥獣を拾う

八子の梯子

富士山本宮

強力暴風を冒して降る

YM-14  1895年(明治28年) 10月30日  

富士登山記(十八)富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治  

山頂の用水

山頂の沐浴

御鉢廻り

金明水と銀明水

胎内

富士の人穴

YM-15

 1895年(明治28年) 11月 1日  

富士山巓の音信

 
     

報効義会員の富士訪問

 
YM-16  1895年(明治28年) 12月17日  

雪中の富士登山

同行者五人

途中の状況

YM-17  1895年(明治28年) 12月18日   雪中の富士登山(続)

雪窟の起臥

胸突の難所

山上の対面

YM-18  1895年(明治28年) 12月18日   野中至氏の現状(病勢危急に瀕す)

野中氏の実情

勝又氏の苦諫

野中氏の拒絶

勝又氏の苦心

松井氏の盡力

和田氏の厚意

野中氏の厳父

決死の夫婦

此の勇士を救へ

YM-19  1895年(明治28年) 12月20日   野中至氏の書簡  
      野中氏慰問の篤志家  
YM-20  1895年(明治28年) 12月20日   和田氏の富嶽登攀

和田氏の発程

中畑村民諸士の尽力義挙

登山準備の概要

一行の登山

有志者山中の各室に応援隊を駐屯す

YM-21  1895年(明治28年) 12月24日   和田氏登山の別報

和田氏一行の登山者

一行の宿泊

名誉の剛力

中畑村民の熱情

YM-21-1  1895年(明治28年) 12月24日   電報 野中氏下山す  
YM-22  1895年(明治28年) 12月26日   野中氏夫妻の下山

父子の対面

直に治療を施す

出迎の兎狩

応援隊の出発

筑紫警部と平間巡査

残念ながら仕方がない

用意の牛乳

剛力の名に背かず

湯飩の好み

鬼熊鬼を恐る

中畑有志の人名

YM-23  1895年(明治28年) 12月26日   野中氏夫妻の下山(続)

和田技師一行の登山

枝隊の一行

野中氏祖父の霊を祭る

和田技師剣ケ峯に向ふ

和田技師野中氏を説く

千代子越年を乞う

剣ケ峯を立退く

八合目に達す

人事不省

八合目を出づ

医師の診察

太郎坊に着す

和田技師の親切

      富士の近信(瓜生医士の義侠)  
YM-24  1895年(明治28年) 12月27日    野中氏夫妻の下山(続)

日本人としては当り前なり

カンジキの効用

積雪丈余に及ぶ

洗湯氷結す

注文の箇条書

薪の欠乏せし所以

炭山を破ること二回

医士其の他有志の慰問

YM-25  1895年(明治28年) 12月28日   野中氏夫妻の容態  

 



OM-03

資料番号  OM-03
資料名 富士山の気象観測
年代

 1895年(明治28年)9月1日

新聞社

 報知新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
 

●富士山の気象観測 

気候の観測は、其の観測する区域の広く、且つ上層に及ぶ程、精確なるものなるが、我が国にては、従来信州浅間山を以て最高観測所となし、其の他の高山には一年数回登山して観測するのみなりし處、本年は富士山頂に於て、最も正確なる気象観測を遂げんが為め先に中央気象台より技手立笠八五郎、雇諏訪貫一の両氏を派遣し、専ら観測に従事せしめ居り、叉同台技手吉田清次郎氏も、本日新橋発の汽車にて登山し、来月上旬には和田雄治氏も登山するよしなり、茲に感ずべきは大日本気象學會会員野中至氏なり、氏は本年一月積雪を冒して富士に登り、厳冬中と雖ども住み難からざるを験し、先月来、私費を以て山頂に測候所を新築中なりしが、一昨日工事落成せし旨気象台へ其の旨を報じ来れりと、氏は本年は山頂に越年して気象観測に従事する筈にて、中央気象台員諸氏が九月下旬観測を終りて下山するときは、観測に要する諸器械は悉皆(しっかい)野中氏に貸与(かしあた)へ置く筈なりと云ふ

  気候の観測は、その観測する区域の広く、かつ上層に及ぶ程、精確なるものなるが、わが国にては、従来信州浅間山をもって最高観測所となし、その他の高山には一年数回登山して観測するのみなりし処、本年は富士山頂において、最も正確なる気象観測を遂げんがため先に中央気象台より技手立笠八五郎、雇諏訪貫一の両氏を派遣し、もっぱら観測に従事せしめおり、また同台技手吉田清次郎氏も、本日新橋発の汽車にて登山し、来月上旬には和田雄治氏も登山するよしなり、ここに感ずべきは大日本気象学会会員野中至氏なり、氏は本年一月積雪を冒して富士に登り、厳冬中といえども住みがたからざるをためし、先月来、私費をもって山頂に測候所を新築中なりしが、一昨日工事落成せし旨気象台へその旨を報じ来れりと、氏は本年は山頂に越年して気象観測に従事するはずにて、中央気象台員諸氏が九月下旬観測を終りて下山するときは、観測に要する諸器械は悉皆(しっかい)野中氏に貸与(かしあた)え置くはずなりという

OM-05

OM-051

資料番号 OM-05
資料名 気象探検富士登山記
年代

 1895年(明治28年)9月11日

新聞社

報知新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
 

福岡県人野中至氏(東京控訴院判事野中勝良氏の息)が、富士山巓に高層気象観測所を私設し越年を試みんとする事は、過日の紙上に委しく記せしが、気象学に専門家の語る所によれば、今日気象の原因にして不明なるもの多き所以は、全く其の発作する空気上部の有様を探求し得ざるに在り、暴風電雷降雹若しくは霜露の如き、皆然らざるはなし、叉天気の変化の如きも多くは上部より及ぼすものに似たれば、高山に於て不断観測をなし、之を平地のものと対照せば、或は数月惜しくは数旬後の天気と雖も、之を予報することを得んも図り難し、其の他、星学、黴菌学、生理学、地学、化学等に関し研究上実験の場となすの必要あり、氏はは爰(ここ)に大いに感じ多年心を潜め思を労し苦畫漸く成りたるを以て、本年夏季を待ち仮小屋の建築に着手せんとて、冬期に於ける富士頂上の積雪風力の模様等観察のため、本年一月四日及び二月十六日単身氷雪を冒して登山せしが、初回登山は不幸にして五合目に至りし頃、鳶口(是は積雪の凍りたる所に打込みみ攀上るに用ゆるもの)折れ鉄底の靴破れたるため、中途より下山し、次回には鳶口の代わりに鶴橋を携へ一層堅固の靴を穿ちて登山せしが、折節非常の暴風なりしにも拘わらず、終に頂上に達したり(其の詳細の紀行は左に掲ぐ)斯くて氏が第三回の登山は、八月十五日より九月五日までに於て、其の間非常の辛苦艱難を以て専ら気界観測の準備をなせしが、茲に最も人をして感動せしむるに足るべきものは、氏の此の行に随行したる細君が、せん弱の手を以て始終、糧食衣服万般の準備を管理處弁し、良人をして毫も後顧の憂いなからしめんことを期したるの一事なり、氏は斯くして第三回の探検を了りたるを以て、来る九月十三日には愈々第四回の登山をなし、徐(おもむ)ろに冬籠りの準備をなす筈にて、此の行に於ても氏の細君は是非とも同行して辛酸を分かたんことを希望し、三歳の嬰児をさへ郷里福岡の親戚に託し、オサオサ準備に怠りなしと云ふ、此の夫婦あり事業の大成せんこと期して待つべし、今回氏が自記の登山記を得たれば左に掲ぐ

 新字新仮名 福岡県人野中至氏(東京控訴院判事野中勝良氏の息)が、富士山巓に高層気象観測所を私設し越年を試みんとする事は、過日の紙上にくわしく記せしが、気象学に専門家の語る所によれば、今日気象の原因にして不明なるもの多きゆえんは、全くその発作する空気上部の有様を探求し得ざるに在り、暴風、電雷、降雹、若しくは霜露のごとき、皆然らざるはなし、また天気の変化のごときも多くは上部より及ぼすものに似たれば、高山において不断観測をなし、これを平地のものと対照せば、あるいは数月惜しくは数旬後の天気といえども、これを予報することを得んもはかりがたし、その他、星学、黴菌学、生理学、地学、化学等に関し研究上実験の場となすの必要あり、氏ははここに大いに感じ多年心を潜め思いを労し苦画漸く成りたるをもって、本年夏季を待ち仮小屋の建築に着手せんとて、冬期に於ける富士頂上の積雪風力の模様等観察のため、本年一月四日及び二月十六日単身氷雪を冒して登山せしが、初回登山は不幸にして五合目に至りし頃、鳶口(これは積雪の凍りたる所に打込みみ攀上るに用ゆるもの)折れ、鉄底の靴破れたるため、中途より下山し、次回には鳶口の代わりに鶴橋を携え一層堅固の靴を穿ちて登山せしが、折節非常の暴風なりしにもかかわらず、終に頂上に達したり(其の詳細の紀行は左に掲ぐ)かくて氏が第三回の登山は、八月十五日より九月五日までにおいて、その間非常の辛苦艱難をもって専ら気界観測の準備をなせしが、ここに最も人をして感動せしむるに足るべきものは、氏のこの行に随行したる細君が、せん弱の手をもって始終、糧食衣服万般の準備を管理処弁し、良人をして毫も後顧の憂いなからしめんことを期したるの一事なり、氏はかくして第三回の探検を終りたるをもって、来たる九月十三日にはいよいよ第四回の登山をなし、おもむろに冬籠りの準備をなすはずにて、この行においても氏の細君はぜひとも同行して辛酸を分かたんことを希望し、三歳の嬰児をさえ郷里福岡の親戚に託し、オサオサ準備に怠りなしという、この夫婦あり事業の大成せんこと期して待つべし、今回氏が自記の登山記を得たれば左に掲ぐ
資料番号 OM-051
資料名 第二回冬期富士登山記(野中至氏の手稿)
年代

 1895年(明治28年)9月11日

新聞社

報知新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
 旧字旧仮名

予は前に第一回登山の始末を報道したれども、其の事半はにして止み、未だ予の本懐を遂ぐること能はざりしを以て、今回は気力の続かん限り、万難を排して是非とも望みを達せずんば止まじと心中堅く誓ひ、乃ち前回実験したる處を参酌して、及ぶ限り充分に準備を整へ、二月十四日午前四時四十五分徒歩東京を発し、翌十五日午前十時二分御殿場に着す、是より先き大磯を出るや、前途黒雲の横はるを見しが、漸く進むに従ひ次第に増加し、遥かに望めば足柄箱根の諸山は降雨あるにあらざるかと怪しまる、顧みれば已に北東の間一方のみ僅かに晴天を残すに至れり、午前九時十三分山北に着せし頃は此の辺降雨あり、御殿場に至るに及び雨止み、雲際より少しく日光を漏らせり、此の辺樹陰に残雪あるを見たり、時已に午前十時三十分なり、寒暖計を見るに摂氏七八度を示せり、行くこと二十分程再び雨を催ほす、顧みて足柄箱根の諸山を望めば、点々積雪を見たりしが、此に至りて陰雲四山を隠蔽す正午瀧河原に着す、此の辺七度一を示せり、是より先き御殿場を出てより、間断なく降雨衣を潤すに至りしが、此の時少しく日光を漏(もら)せり、昨年夏期以来知る處の佐藤與平次なるもの、雪中此の辺にて用ゆる鉄靴(仮に鉄靴と名付づく)を貸与せしにより、参考の為め之を携帯せり、同人は先月中旬此の辺降雪あり五六寸に及ぶと云へり、零時三十分同處を発す、雨未だ止まず、大野原の殆んど半ばより上は晴陰一定せず、木立に入りて雨は全く止みしも、四面朦朧として認知しがたし、而して道路積雪半ば渓流をなして流下せり、蓋し山上の積雪暖気に遭ふて融解するものならん故に、地盤固からず、歩毎に逡巡するのみならず、樵夫(しょうふ)か切り倒したる路傍の樹枝、風の為めに途上に横たはるを踏越つつ行くが、故に歩を進むること意の如くならず、屡々(しばしば)休息しつつ、午後二時三十分馬返に達す、六度一を示せり、尚ほ登ると十五分許風少しく来る、磁石を案ずるに南より吹くものの如し、颯々(さっさつ)の声は彼の渓流と相和し耳恰も聾するが如し、登ること三十分程積雪殆んど間隙なし、深さ平均四寸此の辺四度六を示す、午後三時四十五分太郎坊に着す、三度九を示せり、其の荒敗(こうはい)前回に異ならず、前回は此の辺に未だ見ざりし積雪も、今回は殆ど寸隙あらざると、天候極めて険悪なるにより、日猶ほ高けれども茲に夜を明かすに決し、例の如く燃料を拾集せり

山上の風雨 

当日は朝来已天候宜しからず、加ふるに東京出発以来、日々温暖なりしか、此の地も前回に比すれば遥かに暖かなり、午後四時果たして雨は風に和して降ること恰も車軸を流すが如し、勢ひ次第に加わり風に和して降る其の音は雨水の奔流と積雪の融解して流下する音と相和して、情勢極めて猛烈なり、燭を秉(と)りて間隙より外面を窺へば、暗黒にして物色を弁じがたきも、奔下する水は小屋の四面を囲み、恰も河中の一亭に異ならず、午後九時頃、雨水何れよりか屋内に侵入して、瞬時に深さ寸餘に及び、焚火を打ち消し、忽ち暗黒となる、依って其の源を探り、鶴嘴を採て庭の一隅を穿ち、以て水の侵入を防がんとすれども、地盤凝結して容易に打ち起こすべからず、已むを得ず、庭内一段高き處に移りたれども、風床下より烈しく来たりて、火を吹き消し、容易に燃え付かず、恰も好し石油の空缶ありたるを発見したれば之を竈(かまど)に代用し、床上僅かに暖を採ることを得たり、午後九時五十五分北に当たりて電光雷鳴あり、十時十五分風叉強く其の怒号する雷鳴の如し、颪(おろし)の度毎に小屋の四隅はミシミシと響き何時吹き倒れんかと危ぶむ許り、転(うた)た膽(きも)をして寒からしめたり

此の小屋は室にあらざるがゆへに、南西隅の床上に殆んど五寸角二間もあらんかと思ふ木材を数十本積み重ね置けり、前回甚だ之を怪しみしが今回大風に遭ひ、始めて小屋の圧(おさへ)なることを推知し得たり、翌日午前二時に至るも風雨共に歇(や)まず、三時に至り雨少しく勢いを減ず、午前六時に及び全く静穏に帰したり、十五日午後六時より翌十六日午前六時迄、實に十二時間風雨終始殆ど同一の勢いを以て吹き続きたると其の勢いの猛烈なるとは、予未だ曾て見ざる處なり、同處に着したる以来滞留中試みに毎時温度を観測せり                 (未完) 

 新字新仮名

予は前に第一回登山の始末を報道したれども、その事なかばにして止み、いまだ予の本懐を遂ぐることあたわざりしをもって、今回は気力の続かん限り、万難を排して是非とも望みを達せずんば止まじと心中堅く誓ひ、すなわち前回実験したる処を参酌して、及ぶ限り充分に準備を整え、二月十四日午前四時四十五分徒歩東京を発し、翌十五日午前十時二分御殿場に着す、これより先き大磯を出るや、前途黒雲の横たわるを見しが、ようやく進むに従い次第に増加し、遥かに望めば足柄箱根の諸山は降雨あるにあらざるかと怪しまる、顧りみればすでに北東の間一方のみ僅かに晴天を残すに至れり、午前九時十三分山北(やまきた)に着せし頃はこの辺降雨あり、御殿場に至るに及び雨止み、雲際より少しく日光を漏らせり、この辺樹陰に残雪あるを見たり、時すでに午前十時三十分なり、寒暖計を見るに摂氏七、八度を示せり、行くこと二十分程再び雨を催おす、顧りみて足柄箱根の諸山を望めば、点々積雪を見たりしが、ここに至りて陰雲四山を隠蔽す、正午滝河原に着す、この辺七度一を示せり、これよりさき御殿場を出てより、間断なく降雨衣を潤すに至りしが、この時少しく日光を漏らせり、昨年夏期以来知る処の佐藤与平次なるもの、雪中この辺にて用いる鉄靴(仮に鉄靴と名づく)を貸与せしにより、参考のためこれを携帯せり、同人は先月中旬この辺降雪あり五、六寸に及ぶと云えり、零時三十分同処を発す、雨未だ止まず、大野原の殆んど半ばより上は晴陰一定せず、木立に入りて雨は全く止みしも、四面朦朧として認知しがたし、しこうして道路積雪半ば渓流をなして流下せり、けだし山上の積雪暖気に遭うて融解するものならん故に、地盤固からず、歩毎に逡巡するのみならず、樵夫(しょうふ)が切り倒したる路傍の樹枝、風のために途上に横たはるを踏み越えつつ行くが故に歩を進むること意の如くならず、しばしば休息しつつ、午後二時三十分馬返に達す、六度一を示せり、なほ登ると十五分ばかり風少しく来たる、磁石を案ずるに南より吹くもののごとし、颯々(さつさつ)の声は彼の渓流と相和し耳あたかも聾するがごとし、登ること三十分程積雪殆んど間隙なし、深さ平均四寸この辺四度六を示す、午後三時四十五分太郎坊に着す、三度九を示せり、その荒敗(こうはい)前回に異ならず、前回はこの辺に未だ見ざりし積雪も、今回はほとんど寸隙あらざると、天候極めて険悪なるにより、日なお高けれどもここに夜を明かすに決し、例の如く燃料を拾集せり、

 

山上の風雨

当日は朝来(ちょうらい)すでに天候宜しからず、加うるに東京出発以来、日々温暖なりしか、この地も前回に比すれば遥かに暖かなり、午後四時果たして雨は風に和して降ることあたかも車軸を流すがごとし、勢い次第に加わり風に和して降るその音は雨水の奔流と積雪の融解して流下する音と相和して、情勢極めて猛烈なり、燭をとりて間隙より外面を窺えば、暗黒にして物色を弁じがたきも、奔下する水は小屋の四面を囲み、あたかも河中の一亭に異ならず、午後九時頃、雨水いずれよりか屋内に侵入して、瞬時に深さ寸余に及び、焚火を打ち消し、たちまち暗黒となる、よってその源を探り、鶴嘴を採って庭の一隅を穿ち、もって水の侵入を防がんとすれども、地盤凝結して容易に打ち起こすべからず、やむを得ず庭内一段高き処に移りたれども、風床下より烈しく来たりて火を吹き消し、容易に燃えつかず、あたかも好し石油の空缶ありたるを発見したればこれを竈(かまど)に代用し、床上僅かに暖を採ることを得たり、午後九時五十五分北に当たりて電光雷鳴あり、十時十五分風また強くその怒号する雷鳴のごとし、颪(おろし)の度毎に小屋の四隅はミシミシと響き何時吹き倒れんかと危ぶむばかり、うたた膽(きも)をして寒からしめたり、この小屋は室にあらざるがゆえに、南西隅の床上にほとんど五寸角二間もあらんかと思う木材を数十本積み重ね置けり、前回はなはだこれを怪しみしが今回大風に遭い、始めて小屋のおさえなることを推知し得たり、翌日午前二時に至るも風雨共にやまず、三時に至り雨少しく勢いを減ず、午前六時に及び全く静穏に帰したり、十五日午後六時より翌十六日午前六時まで、じつに十二時間風雨終始ほとんど同一の勢いをもって吹き続きたるとその勢いの猛烈なるとは、予いまだかつて見ざる処なり、同処に着したる以来滞留中試みに毎時温度を観測せり      (未完)


OM-06

資料番号  OM-06
資料名

好一対の伉儷(野中氏夫妻)

年代

 1895年(明治28年) 9月17日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

内容

富士山の絶頂に越年して気象の観測を試みんとする斯道の勇士、野中至氏が決心の仔細を聞き、氏の令閨が共に山巓に上りて夫の事業を助けんと苦心し居れる事情を聞くに、軽浮なる世情を矯(た)めて士気を鼓舞するに足るものあれば左に其次第を記載すべし

至氏は曾ても記せり如く東京控訴院判事野中勝良氏の長男にして、慶應三年の出生なるが、六七年以前に東京高等学校を卒業したるに付、厳父勝良氏は至氏に帝国大学へ入学せんことを勧めしが、至氏は堅く其の無用なることを主張して止まず「学問は学位に在らずして学理に在り、学位の称号を得んと欲せば大学に入るも可なれど、学理の実効を収めんと欲せば兒却って別にその道あるを信ず、且つ兒自から其の分別あり」とて、断然大学へ入校せず、其れより後ちは、学友との交際を謝絶して、殆ど絶交同様の姿となり、日々の事業は家居(かきょ)して書見することと、書籍館へ通ふのみの事にして孜々(しし)として何事をか研究し居れる如く、其の目的を叩けば気象学を收むるとのみ答へて、他を云はざる次第なる故、勝良氏も其の前途を危ぶみながらも、好める道なら為ん様も無し、且つ専攻の道は其の人に在りて父と雖も強ゆべきに非ずとて、遂に至氏の心任せと為し置きしが、昨冬富士峯頭探検の事を企つるに至りて、至氏は始めて其の決心の次第を明かし、高層気象観測の事は斯道に欠くべからざる緊切の事業なるが、東洋には未だ一カ所も完全なる観測所の設けあらず若し此の事を始めて首尾克く成功せば、完全なる観測所の種子を蒔けるに等し、不幸にして中道に倒れなば、固より斯道の為めに殉するの本懐を達したる事にて毫も遺憾無し、是れ兒が宿昔の志にして、百科の学者奮って各自の道に死力を盡さば、庶幾(こひねがは)くは日本の学問をして西洋と対立せしめ富強と文明と共に世界の雄国たるの美果を収むるに至らんと、其の宿志を述べ厳父の許可を求めたるより、勝良氏も其の精神を嘉みし、遂に私費を投じて富士山頭に建築工事を施すに至りし次第にして、至氏は其の気象学に志してより今日に至るまで、富士山に上下せしこと幾回なるや知れざるも、氏が富士に登るとて東京の家を辞せしことは今回の登山に至るまで都合九回に及べりと云う、氏が宿志(しゅくし)の存ずる所久しくして遠しと謂うべし

至氏の令閨は千代子と呼ばれ、福岡県那賀郡警固村梅津只圓氏の女にして、明治四年の生れなるが、明治二十五年に至りて至氏に配し能く岳父母に事へ貞淑に家政を治め、翌年には一子を挙げたり、然るに至氏が今回の壮挙あるや、或る日岳父母に向ひ夫に同行して富士に越年するの許しを得んと請ひしが家には勝良氏の息女にして至氏の子と同月生れの幼児あり、岳母の手一つにて二人の幼児を育てんことなかなかに困難なるのみか、母を求めて泣くいぢらしき様を見るも不憫故、平に其の事は思ひ止まれと諭し、至氏も絶頂は婦人の身の堪え得べき所に非ずとて登山の事を差し止めしより、千代子は其の後再び此の事を云はざりしが、斯くて至氏が富士山に建築を始むるに当り材料は総て山麓なる瀧河原に集め、此處より運ぶ事なる故、至氏が山頂にて工事監督中、此の瀧河原の兵站(へいたん)部とも云うべき所を取締る人の必要なるより千代子は此の處の兵站監と云ふ任に当たりて夫々材料を処分し居たるが、本月初めには工事既に終りたれば、東京の宅にては夫婦打ち揃ふて帰るならんと待ち侘ぶる内、本月四日に至り御殿場発にて左の意味の書状を宅へ送れり

夫より帰宅する様申付けられしが如何に考へても夫を一人山頂に手離す事は思ひ諦め難し呼べば直ちに医者来り叫べば隣保の応援を得ると云う處とは事違ひ万一病気等の節にセメては火を焚き水を取る小用を達すものにても付き添ひ居らずては不便此の上も無き事に付き振り切らるる袖に縋(すが)りても是非に登山をと決心致せし故方々様の御申し付に背くは万々恐れ入りたる事ながら幼児は国元の母へ託して直ちに引き返し夫の供に立度此の駅より東へ帰るべきを国元へ向ひ候云々

勝良氏一家の驚きは一方ならず、左程の決心ならば何条(なんじょう)登山を否むべき、幼児の保育位は如何様にもしつべかりしなりと悔みたるも、時日後れて追いひと止むる事もならず、今は当人の心任せに為すの外なしと決しぬ、勝良氏は此の程、人に語りて倅が斯道の為めに倒るゝは左る事ながら嫁迄斯かる決心を為して、一家宛(さな)がら演劇を見るが如きの観あるは困ったものなりと云へりと、猛志(もうし)硬節(こうせつ)両全(りょうぜん)の伉儷(こうれい)と云ふべし

 新字新仮名

富士山の絶頂に越年して気象の観測を試みんとする斯道(しどう)の勇士、野中至氏が決心の仔細を聞き、氏の令閨(れいけい)が共に山巓にのぼりて夫の事業を助けんと苦心し居れる事情を聞くに、軽浮なる世情を矯(た)めて士気を鼓舞するに足るものあれば左に其次第を記載すべし

 

至氏はかつても記せりごとく東京控訴院判事野中勝良氏の長男にして、慶應三年の出生なるが、六、七年以前に東京高等学校を卒業したるにつき、厳父勝良氏は至氏に帝国大学へ入学せんことを勧めしが、至氏は堅くその無用なることを主張してやまず、「学問は学位にあらずして学理にあり、学位の称号を得んと欲せば大学に入るも可なれど、学理の実効を収めんと欲せば児却って別にその道あるを信ず、かつ児自からその分別あり」とて、断然大学へ入校せず、それより後ちは、学友との交際を謝絶して、ほとんど絶交同様の姿となり、日々の事業は家居(かきょ)して書見(しょけん)することと、書籍館へ通うのみの事にして孜々(しし)として何事をか研究しおれるごとく、その目的を叩けば気象学を收むるとのみ答へて、他をいわざる次第なる故、勝良氏もその前途を危ぶみながらも、好める道ならせん様も無し、かつ専攻の道はその人にありて父といえども強ゆべきにあらずとて、ついに至氏の心任せとなし置きしが、昨冬富士峯頭探検の事を企つるに至りて、至氏は始めてその決心の次第を明かし、高層気象観測の事は斯道に欠くべからざる緊切の事業なるが、東洋には未だ一カ所も完全なる観測所の設けあらず免?若しこの事を始めて首尾よく成功せば、完全なる観測所の種子を蒔けるに等し、不幸にして中道に倒れなば、もとより斯道のために殉ずるの本懐を達したる事にて毫も遺憾無し、これ兒が宿昔の志にして、百科の学者奮って各自の道に死力を尽さば、庶幾(こひねがわ)くは日本の学問をして西洋と対立せしめ富強と文明と共に世界の雄国たるの美果(びか)を収むるに至らんと、その宿志を述べ厳父の許可を求めたるより、勝良氏もその精神を嘉みし、ついに私費を投じて富士山頭に建築工事を施すに至りし次第にして、至氏はその気象学に志してより今日に至るまで、富士山に上下せしこと幾回なるや知れざるも、氏が富士に登るとて東京の家を辞せしことは今回の登山に至るまで都合九回に及べりと云う、氏が宿志(しゅくし)の存ずる所久しくして遠しというべし

至氏の令閨は千代子と呼ばれ、福岡県那賀郡警固村梅津只圓氏の女にして、明治四年の生れなるが、明治二十五年に至りて至氏に配しよく岳父母につかえ貞淑に家政を治め、翌年には一子を挙げたり、しかるに至氏が今回の壮挙あるや、ある日岳父母に向い夫に同行して富士に越年するの許しを得んと請いしが、家には勝良氏の息女にして至氏の子と同月生れの幼児あり、岳母の手一つにて二人の幼児を育てんことなかなかに困難なるのみか、母を求めて泣くいじらしき様を見るも不憫ゆえ、平にその事は思ひ止まれと諭し、至氏も絶頂は婦人の身の堪えうべき所にあらずとて登山の事を差し止めしより、千代子はその後再びこの事をいはざりしが、かくて至氏が富士山に建築を始むるに当り材料はすべて山麓なる滝河原に集め、ここより運ぶ事なるゆえ、至氏が山頂にて工事監督中、此の滝河原の兵站(へいたん)部ともいうべき所を取締る人の必要なるより、千代子はこの処の兵站監という任に当たりてそれぞれ材料を処分しいたるが、本月初めには工事すでに終りたれば、東京の宅にては夫婦打ち揃うて帰るならんと待ちわぶる内、本月四日に至り御殿場発にて左の意味の書状を宅へ送れり

それより帰宅する様申付けられしがいかに考えても夫を一人山頂に手離す事は思い諦め難し、呼べばただちに医者来り、叫べば隣保の応援を得ると云う処とは事違ひ、万一病気等の節にセメては火を焚き水を取る小用を達すものにても付き添いいらずては不便この上もなき事に付き振り切らるる袖に縋(すが)りても是非に登山をと決心致せしゆえ、方々様の御申し付けに背くは万々恐れ入りたる事ながら、幼児は国元の母へ託して直ちに引き返し、夫の供に立ちたくこの駅より東へ帰るべきを国元へ向い候うんぬん

勝良氏一家の驚きは一方ならず、左程の決心ならば何条(なんじょう)登山を否むべき、幼児の保育位はいか様にもしつべかりしなりと悔みたるも、時日おくれて追いひと止むる事もならず、今は当人の心任せになすの外なしと決しぬ、勝良氏はこの程、人に語りて倅が斯道のために倒るるはさる事ながら嫁までかかる決心をなして、一家さながら演劇を見るがごときの観あるは困ったものなりといえりと、猛志(もうし)硬節(こうせつ)両全(りょうぜん)の伉儷(こうれい)というべし

資料番号  OM-06-1
資料名

野中氏厳父の狂歌

年代

 1895年(明治28年) 9月17日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

旧字旧仮名

野中至氏の厳父野中勝良氏は、令息の虎穴に入るを壮とし其の意に一任して顧みざる事なるが、此の頃来客に対して左の狂歌を口ずさまれたりと云ふ

  人よりも丈高かれと育てしが 富士の山とは少し高すぎ

 新字新仮名

野中至氏の厳父野中勝良氏は、令息の虎穴に入るを壮としその意に一任して顧みざる事なるが、この頃来客に対して左の狂歌を口ずさまれたりという

人よりも丈高かれと育てしが 富士の山とは少し高すぎ


OM-07

資料番号 OM-07
資料名 富士山の大暴風
年代

 1895年(明治28年) 9月18日

新聞社

報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供 
旧字旧仮名

富士山に於ては、去る七日の朝より暴風起り剰(あまつさ)へ雨さへ加はゝりて、其勢ひ頗る猛烈なりしが、翌八日の朝は其極点に達し、正午頃より雨歇み夕刻に至りて全く鎮静に帰せり、目下同山に出張して気象観測に従事せる吉田諏訪の両氏が携へたる諸器械も多少の破損を被らさるはなかりしも、幸に観測に差支への生ずる程に至らざりし、這(こ)は先年富士観測の際、暴風に懲りたるより大事に大事を加へ居たるによるものなりとぞ、尤も屋上に据え付けたる雨量計に小破を生じ、風力計は其の予備の分丈けは屋上より吹き飛ばされて大破を受け、再び使用に堪へざるに至れり、山頂の事とて小屋の動揺甚しく宛(さ)ながら船中に在るが如く、今にも吹き倒されんかと思はるるばかりにて観測時の如き屋外に直立する能はず、且つ小石飛び来って顔を打ち、其の危険言はん方なし、小屋の戸は恰かも小銃の乱発を受くるが如くバラバラと音して、最(い)と物凄き光景なりき、斯かる有様なれば耳の鼓膜は圧迫を感じて心地悪しき事譬(たと)えんに物なく、只綿片を耳の穴に嵌めて僅かに圧迫を防ぎし程なり、何さま二日に渉る大暴風なれば斯の道専門の気象台員も安き心とてはなかりしか、其れも其の筈、之を同地方の父老に聞くに、今回の如き暴風は山上に在りても稀有の事なりしと云う、暴風後三四日は晴天なりしも、近頃は濃霧の襲来甚だしく、時々降雪ありて、去十三日の如きは飛雪ひん粉として降り、満山白皚々(がいがい)として頗る壮観なりしと 

 新字新仮名 富士山においては、去る七日の朝より暴風起り剰(あまつさ)え雨さへ加わわりて、その勢いすこぶる猛烈なりしが、翌八日の朝はその極点に達し、正午頃より雨やみ夕刻に至りて全く鎮静に帰せり、目下同山に出張して気象観測に従事せる吉田諏訪の両氏が携えたる諸器械も多少の破損を被(こうむ)らざるはなかりしも、幸に観測に差支への生ずる程に至らざりし、こは先年富士観測の際、暴風に懲りたるより大事に大事を加えいたるによるものなりとぞ、もっとも屋上に据え付けたる雨量計に小破を生じ、風力計はその予備の分だけは屋上より吹き飛ばされて大破を受け、再び使用に堪えざるに至れり、山頂の事とて小屋の動揺甚しくさながら船中にあるがごとく、今にも吹き倒されんかと思はるるばかりにて、観測時のごとき屋外に直立するあたわず、かつ小石飛び来たって顔を打ち、その危険言はん方なし、小屋の戸はあたかも小銃の乱発を受くるが如くバラバラと音して、いと物凄き光景なりき、かかる有様なれば耳の鼓膜は圧迫を感じて心地悪しき事譬(たと)えんに物なく、ただ綿片を耳の穴に嵌めて僅かに圧迫を防ぎし程なり、何さま二日に渉る大暴風なればこの道専門の気象台員も安き心とてはなかりしか、それもそのはず、これを同地方の父老に聞くに、今回のごとき暴風は山上に在りても稀有の事なりしという、暴風後三四日は晴天なりしも、近頃は濃霧の襲来甚だしく、時々降雪ありて、去る十三日のごときは飛雪ひん粉として降り、満山白皚々(がいがい)としてすこぶる壮観なりしと 
資料番号 OM-07-1
資料名

7-1 中畑の勇士野中氏に同行せんとす

7-2 野中氏の熱心強力を感動せしむ

年代

 1895年(明治28年) 9月18日

新聞社

報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供 
旧字旧仮名

●中畑の勇士野中氏に同行せんとす

富士山頂に高層観測所を設立したる野中至氏は、其の本拠を中畑の瀧河原に構へ居たるが、中畑は富士の新道にして、山路至つて緩なれば、野中氏は毎(つね)に道を此に取りて中畑より登山するを常とせしが、同氏が山頂に越年するの壮挙を伝へ聞きて、中畑なる旧兵士の人々は大に奮起し、野中氏に同行を乞ひ共に山頂に越年して生死を同くせんと勇み立ち居ると云う、勇ましきかな

●野中氏の熱心強力を感動せしむ

富士の強力は、維新前までありて東海道五十三次駅の雲助と同様の族にて、富士登山者の荷物を担ぎ、酒代を受けて世渡りをなすものなるが、此度野中氏が富士の絶頂に冬籠りするを聞きて、此等強力連も其の熱心と大胆とに感服し、何れも心ばかりの手伝をなさんとて、切(せ)めて石一個なりとも舁(か)かせ給はれとて、続々申込むもの多く、為めに同氏の家屋建築工事も大ひに捗取りたりと云ふ、熱誠(ねっせい)の人を感動せしむる此(かくの)如し

 新字新仮名

●中畑の勇士野中氏に同行せんとす

富士山頂に高層観測所を設立したる野中至氏は、その本拠を中畑の滝河原に構えいたるが、中畑は富士の新道にして、山路至つて緩(かん)なれば、野中氏は毎(つね)に道をこれに取りて中畑より登山するを常とせしが、同氏が山頂に越年するの壮挙を伝え聞きて、中畑なる旧兵士の人々は大いに奮起し、野中氏に同行を乞い、共に山頂に越年して生死を同じくせんと勇み立ちいるという、勇ましきか

●野中氏の熱心強力を感動せしむ

富士の強力は、維新前までありて東海道五十三次駅の雲助と同様の族にて、富士登山者の荷物を担ぎ、酒代を受けて世渡りをなすものなるが、このたび野中氏が富士の絶頂に冬籠りするを聞きて、これら強力連もその熱心と大胆とに感服し、いずれも心ばかりの手伝いをなさんとて、せめて石一個なりともかかせ給われとて、続々申込むもの多く、ために同氏の家屋建築工事も大いにはかどりたりという、熱誠(ねっせい)の人を感動せしむるかくのごとし


OM-08

資料番号 OM-08
資料名 野中至氏の事業を助く
年代

 1895年(明治28年) 9月21日

新聞社

報知新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
旧字旧仮名

●野中至氏の事業を助く

野中至氏が今回自費を以て富士山頂に設立したる観測所は一小屋(しょうおく)に過ぎざれども、山頂の事なれば材木其の他建築に要する一切のものは悉く山下より運びたるを以て、家屋建築丈けにても三百余円を費せりと、左れば気象學會にては広く会員中より義援金を募集し、六七十円を得たれば、之を以て罐詰、毛布類を購入して同氏に贈れり、叉中央気象台よりは気象観測嘱託の名義を與へ、目下同山に出張して観測中なる吉田、諏訪の両気象台員は昨日限りにて観測も決了せるを以て諸器械の大半は同氏に貸与して下山する筈なり、中央気象台の和田技師が此の程富士山出張を命ぜられたるも、此等の用向(ようむき)あるが為なり

 新字新仮名

●野中至氏の事業を助く

野中至氏が今回自費をもって富士山頂に設立したる観測所は一小屋(しょうおく)に過ぎざれども、山頂の事なれば材木その他建築に要する一切のものはことごとく山下より運びたるをもって、家屋建築だけにても三百余円を費せりと、されば気象学会にては広く会員中より義援金を募集し、六七十円を得たれば、これをもって罐詰、毛布類を購入して同氏に贈れり、叉中央気象台よりは気象観測嘱託の名義を与え、目下同山に出張して観測中なる吉田、諏訪の両気象台員は昨日限りにて観測も決了せるをもって諸器械の大半は同氏に貸与して下山するはずなり、中央気象台の和田技師がこの程富士山出張を命ぜられたるも、これらの用向(ようむき)あるがためなり


OM-09

資料番号  OM-09
資料名  此女にして此親あり
年代

 1895年(明治28年) 9月24日

新聞社

報知新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
旧字旧仮名

●此女にして此親あり

富士山の気象観測家野中至氏の令閨千代子は、過日も記せし如く御殿場より一篇の書面を岳父の許へ贈りし後其の生家(さと)なる福岡縣那珂郡警固村大字中庄梅津只圓氏方に帰り、其の北堂(ははおや)に向て良人(おっと)至氏の心事及び自身の覚悟をも打ち明かし、当年三歳になる幼児の養育方を懇請せしところ、北堂を始め父親も千代子の志を嘉(よみ)し、斯くありてこそ我が娘とも云ふべけれとて快く之を承諾せられ、昨今善良なる乳母を穿鑿(せんさく)中なれば、千代子も大に安心し、不日(ふじつ)富士山に登りて良人の壮挙を助くる筈なりと

 新字新仮名

●この女にしてこの親あり

富士山の気象観測家野中至氏の令閨千代子は、過日も記せしごとく御殿場より一篇の書面を岳父の許へ贈りし後その生家(さと)なる福岡縣那珂郡警固村大字中庄梅津只圓氏方に帰り、その北堂(ははおや)に向って良人(おっと)至氏の心事及び自身の覚悟をも打ち明かし、当年三歳になる幼児の養育方を懇請せしところ、北堂を始め父親も千代子の志を嘉(よみ)し、かくありてこそ我が娘ともいうべけれとて快くこれを承諾せられ、昨今善良なる乳母を穿鑿(せんさく)中なれば、千代子も大いに安心し、不日(ふじつ)富士山に登りて良人の壮挙を助くるはずなりと


OM-11

資料番号  OM-11
資料名 野中至氏の談話 (1/2)
年代

 1895年(明治28年)9月28日

新聞社

  報知新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
旧字旧仮名

社員頃日(けいじつ)富士山頂より降りたる野中至氏を其邸に訪ふ、氏性質沈毅(ちんぎ)、謙遜にして言寡(すくな)し、語る處多きにあらずと雖も対談数刻の間、自ら富士山の現状と其の決心とを知るべきものあるを以て、之れを左に記さん

山頂の氷柱 富士山頂の氷柱は今や其の大きさ柱の如き、余は幸い人の助けに依り山頂に清水一二荷を蓄え居れば、先ず之を使用する間に氷柱を解かして水と為すの策を講じ、以て雪を得るまでの間の飲料水に充つる筈なり
富士の山終(やましまひ) 不二の山終と称するは九月十三日にして、毎年同日に浅間神社の社務所員も降山し、途中の休息所たる室も悉く之を閉ぢて茲に登山季節の終を告ぐるなり、左れば去る二十三日、余が降山したる折の如き、既に室を閉鎖して一の人影を見るを能はざりき
山頂の電線 中央気象台員等は余の為めに少なからざる便利を與へられたり而して毎日山頂の気象を報告せしむる為め、山頂に電線を架設するの擧ありしも、平地と異なり少なからぬ手数を要する為、遂に此度までの間には合はざりき
山上の音信  山頂に於て雪に鎖されんか其の解くるまでの間は、下界との音信全く断ゆるなり、然るに余の時計と中央の時計とを合わせ、又た折々山頂の気象を報告するの必要より、如何様にかして山頂と下界と互に相通ずるの必要起れり、是に於て余は回光器を利用し、沼津測候所を相通ずるの約を為せり、余が登山中下界と音信を通ずるは、唯だ此の回光器に依るの外なきなり、然るに山頂と沼津との間には足鷹山の横(よこた)はりて、其の山頂は濃霧を以て蔽はるること多ければ、此の回光器とても毎日使用することは出来ざるべし
マグネシア洋燈(ランプ) 世間にてはマグネシアランプを利用して下界と相通ずるの器と為さば如何と云う者あり、左れど余は、其の天上の星と誤解せられんことを恐れ、此の度は先づ回光器のみに止めたり  

特に剣の峯を撰びし所以 余は決して奇を好み名を売らんが為めに富士山頂の越年を企つる者にあらず、蓋し大に志す所あればなり、故に余は成るべく危険を避け、準備を整へ、中途にして蹉跌するが如きことなからんことを勉めたり、何となれば、今回若し余にして蹉跌せんか、是れ獨り余の蹉跌なるのみならず、将来に於ける此の事業の蹉跌たるべきを信ずればなり、而して余が特に越年の場所を風強き剣の峯の山腹に選びたる所以の者は、實に成るべく蹉跌を避けんが為めのみ、余は謂(おも)へらく風弱き場所は雪の積もること稍々薄かるべしと、之を山下の民に問ふに、剣の峯は風強き勢いにや時として白雪の皚々たるあれど、叉忽ちにして薄黒く地盤少しく現はるゝを見ると云へり、是に於て余は益々其の確実なるを信じ、特に風強き剣の峯を選びたるなり、既に富士頂上の越年を決心したる以上は積雪の甚だしきことは固より覚悟の上のことなれども、成るべく之を避けざれば、或は為めに気象の観測も出来ず、叉或は万一のことありし時、如何ともする能はざるの恐れあればなり、余の越年室は剣の峯の山腹にして西南に面せり而して南風に向かっては之を防ぐべき崖角室前に横はり西風に向かっては唯だ最後の岩に吹き付けらるゝのみにして、決して吹き飛ばさるゝの恐れなし(未完)

新字新仮名

社員頃日(けいじつ)富士山頂より降りたる野中至氏を其邸に訪う、氏性質沈毅(ちんぎ)、謙遜にして言すくなし、語る処多きにあらずといえども対談数刻の間、自ら富士山の現状とその決心とを知るべきものあるをもって、これを左に記さん

山頂の氷柱 富士山頂の氷柱は今やその大きさ柱のごとき、余は幸い人の助けにより山頂に清水一、二荷を蓄えおれば、まずこれを使用する間に氷柱を解かして水となすの策を講じ、もって雪を得るまでの間の飲料水に充つるはずなり

富士の山終(やましまい) 不二の山終と称するは九月十三日にして、毎年同日に浅間神社の社務所員も降山し、途中の休息所たる室もことごとくこれを閉じてここに登山季節の終を告ぐるなり、されば去る二十三日、余が降山したる折のごとき、すでに室を閉鎖して一の人影を見るをあたわざりき

山頂の電線 中央気象台員等は余のために少なからざる便利を与えられたりしこうして毎日山頂の気象を報告せしむるため、山頂に電線を架設するの挙ありしも、平地と異なり少なからぬ手数を要するため、ついにこのたびまでの間にはあわざりき

山上の音信  山頂において雪に鎖されんかその解くるまでの間は、下界との音信全く断ゆるなり、しかるに余の時計と中央の時計とを合わせ、又た折々山頂の気象を報告するの必要より、いかようにかして山頂と下界と互に相通ずるの必要起れり、これにおいて余は回光器を利用し、沼津測候所を相通ずるの約をなせり、余が登山中下界と音信を通ずるは、ただこの回光器によるの外なきなり、しかるに山頂と沼津との間には足鷹山の横(よこた)わりて、その山頂は濃霧をもって蔽はるること多ければ、この回光器とても毎日使用することは出できざるべし

マグネシア洋燈(ランプ) 世間にてはマグネシアランプを利用して下界と相通ずるの器となさばいかんという者あり、されど余は、その天上の星と誤解せられんことを恐れ、このたびはまず回光器のみにとどめたり

特に剣の峯を撰びし所以 余は決して奇を好み名を売らんがために富士山頂の越年を企つる者にあらず、けだし大いに志す所あればなり、故に余はなるべく危険を避け、準備を整え、中途にして蹉跌するがごときことなからんことを勉めたり、何となれば、今回もし余にして蹉跌せんか、これ独り余の蹉跌なるのみならず、将来におけるこの事業の蹉跌たるべきを信ずればなり、しこうして余が特に越年の場所を風強き剣の峯の山腹に選びたるゆえんの者は、実になるべく蹉跌を避けんがためのみ、余はおもえらく風弱き場所は雪の積もることやや薄かるべしと、これを山下の民に問うに、剣の峯は風強き勢いにや時として白雪の皚々たるあれど、叉たちまちにして薄黒く地盤少しく現わるゝを見ると云いえり、これにおいて余は益々その確実なるを信じ、特に風強き剣の峯を選びたるなり、すでに富士頂上の越年を決心したる以上は積雪のはなはだしきことはもとより覚悟の上のことなれども、なるべくこれを避けざれば、あるいはために気象の観測もできず、叉あるいは万一のことありし時、いかんともするああたわざるの恐れあればなり、余の越年室は剣の峯の山腹にして西南に面せり、しこうして南風に向かってはこれを防ぐべき崖角室前に横たわり西風に向かってはただ最後の岩に吹き付けらるるのみにして、決して吹き飛ばさるるの恐れなし(未完)


OM-12

資料番号 OM-12
資料名 野中至氏の談話(続) (2/2)
年代

 1895年(明治28年) 9月29日

新聞社

  報知新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
旧字旧仮名

夫人の決心と準備  氏は話を続けて曰く、荊妻が生意気にも登山を思い立ちたることに付いては余は全く無頓着なり、余は始め荊妻が登山の事を余の父母に申出でたるを聞き、心密かに思へらく、彼れ眇々(びょうびょう)たる一婦人の身を以て、如何んぞ能く此の難業に当るを得んやと、殊に余は寧ろ独身を以て此事に当るの勝れるを慮(おもんばか)り、彼に勧むるに能く父母に事(つか)へて孝養を盡さんことを以てし且つ手紙を具して帰京せしめたり、然るに彼れも大に決心する所ありしにや、途中より郷里福岡に向て帰省したる由にて、頃日(けいじつ)岳父より家厳(ちち)の許に左の意味の手紙達したり

今回愚娘が突然帰着したるに付ては實に一驚を喫したり然し能く聞けば彼れも今は大に決心する所あるものの如く説諭位にてはとても其の志を奪ふべからず殊に嬰児の如き所謂る虫が知らすものにや着後早々より祖母に懐かき殆んど其の懐を去るを欲せざるものの如し事情既に斯の如くなれば茲許に於ては最早や一の異存あるなし唯だ此上は貴台及び令室の許と令息の納得如何に任せんのみ

此の手紙の趣に依れば、彼れの決心は益々堅きが如し、特に彼れは決して余を煩はさざる決心なりと見え、今回帰途に於て聞けば、彼れは其の帰省の途に就くに当り、山下の一民家に托して彼れが一年間山頂に於て食すべき米穀を整のへたりと云へり、彼れにして決心既に斯くの如くなりとせば、余は只だ其の為すに任せんのみ 

素志は越年に非ず  単に富士山頂に越年して三冬の気象を測る、是れ余の素志にあらず、余が今回の挙は、従来未だ曾て試みられたることなき山頂の越年の出来得るや否やを試験し、愈々好結果を得ば、茲に山頂の測候所を設立して永く山頂測候の出来得るに至らしめんこと、是れ即ち余の素志なり

志を誤られんことを恐る 余の志は既に斯くの如し、然るに余が一時の奇を好み、名を売らんが為めに、斯かる企を為す者の如く誤解せられんこと是れ余の最も恐るる所なり

ナマケタ天罰 先日の報知新聞紙上に余が進んで大學に入らざりしことに付云々の記事ありしは、余の赤面に堪へざる所なり、余は決して斯るエラキ人間にあらず、余が今回富士山頂に世人の為さざる越年を設(こころ)みんとするに至りたるは、云わば高等中学に居た頃、ナマケたる天罰なるのみ

苦心は既往にあり 余が此の志を起したるは既に六七年以前に在り、而して今回愈々山頂に越年するを得るに至れるまでには、少なからぬ苦心を為したり、何となれば余が一書生の身を以て如何に熱心に之を欲するも、是れ只だ縁の下の力持に過ぎざればなり、山頂の越年の如きは既往の苦心に比すれば物の數とも思わず

皆な世人の御蔭 余の今日愈々越年するの運びに至りたるは全く世人の御蔭なり、中央気象台を始めとし山下の人民等が、余の事業の為めに少なからず庇保(ひほ)を与へたるは、余の大に感謝する所なり

山頂測候の計画 昨年に至りて聞けば、其の筋にて富士山頂に測候所設立の挙ありしは既に数年前にして、雇い外国人クニヒング氏の如き曾て山頂測候所の図面まで引きたるとありと、然るに其の今日まで決行せられざりしものは、山頂の越年が出来得るや否やが一の疑問中にありたればなり(完)

 新字新仮名

夫人の決心と準備  氏は話を続けて曰く、荊妻が生意気にも登山を思い立ちたることについては余は全く無頓着なり、余は始め荊妻が登山の事を余の父母に申出でたるを聞き、心密かに思えらく、彼れ眇々(びょうびょう)たる一婦人の身をもって、如何いかんぞよくこの難業に当るを得んやと、ことに余はむしろ独身をもってこの事に当るの勝れるを慮(おもんばか)り、彼に勧むるによく父母に事(つか)えて孝養をつくさんことをもってしかつ手紙を具して帰京せしめたり、しかるに彼れも大に決心する所ありしにや、途中より郷里福岡に向て帰省したる由にて、頃日(けいじつ)岳父より家厳(ちち)の許に左の意味の手紙達したり

今回愚娘が突然帰着したるについては実に一驚を喫したりしかしよく聞けば彼れも今は大いに決心する所あるもののごとく説諭位にてはとてもその志を奪うべからず、ことに嬰児のごときいわゆる虫が知らすものにや着後早々より祖母に懐(なず)き、ほとんどその懐を去るを欲せざるもののごとし、事情すでにかくのごとくなれば、ここもとにおいては最早や一の異存あるなし、ただこの上は貴台及び令室の許と令息の納得いかに任せんのみ

この手紙の趣によれば、彼の決心は益々堅きがごとし、特に彼は決して余を煩わさざる決心なりと見え、今回帰途において聞けば、彼はその帰省の途に就くに当り、山下の一民家に托して彼が一年間山頂において食すべき米穀を整のえたりといへり、彼にして決心すでにかくのごとくなりとせば、余はただそのなすに任せんのみ

素志は越年に非ず  単に富士山頂に越年して三冬の気象を測る、これ余の素志にあらず、余が今回の挙は、従来未だかつて試みられたることなき山頂の越年のできうるや否やを試験し、いよいよ好結果を得ば、ここに山頂の測候所を設立して永く山頂測候のでき得るに至らしめんこと、これ即ち余の素志なり

志を誤られんことを恐る 余の志はすでにかくのごとし、しかるに余が一時の奇を好み、名を売らんがために、かかる企をなす者のごとく誤解せられんこと、これ余の最も恐るる所なり

ナマケタ天罰 先日の報知新聞紙上に余が進んで大学に入らざりしことにつきうんぬんの記事ありしは、余の赤面に堪えざる所なり、余は決してかかるエラキ人間にあらず、余が今回富士山頂に世人のなさざる越年を設(こころ)みんとするに至りたるは、いわば高等中学にいた頃、ナマケたる天罰なるのみ

苦心は既往にあり 余がこの志を起したるはすでに六、七年以前にあり、しこうして今回いよいよ山頂に越年するを得るに至れるまでには、少なからぬ苦心をなしたり、何となれば余が一書生の身をもっていかに熱心にこれを欲するも、これただ縁の下の力持ちに過ぎざればなり、山頂の越年のごときは既往の苦心に比すれば物の數とも思わず

皆な世人の御蔭 余の今日いよいよ越年するの運びに至りたるは全く世人の御蔭なり、中央気象台を始めとし山下の人民等が、余の事業のために少なからず庇保(ひほ)を与えたるは、余の大いに感謝する所なり

山頂測候の計画 昨年に至りて聞けば、その筋にて富士山頂に測候所設立の挙ありしはすでに数年前にして、雇い外国人クニヒング氏のごときかつて山頂測候所の図面まで引きたるとありと、しかるにその今日まで決行せられざりしものは、山頂の越年ができ得るや否やが一の疑問中にありたればなり(完)


OM-13

資料番号  OM-13
資料名 社員を富士山巓に特派す
年代

 1895年(明治28年) 9月29日

新聞社

  報知新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
旧字旧仮名

社員を富士山巓に特派す

前古未曾有の大快事は気象熱心家野中至氏によつて三国一の名山富士山巓に演ぜられんとす、芙蓉峯頭風荒み雪狂ひ沙飛び石吼ゆる處這般の絶壮絶快の活劇を演ずるも、之を世に報道し、世に紹介するものなくんば、是れ却て前古未曾有の大恨事にあらざるなからんや、左れば此一大快事起るに方つて其事蹟を天下に先ちて世人に報ぜんがために社員石塚正治を富士山巓に特派したり、この報道一たび山を下る時、山巓に活劇目に見、耳に聞が如く三国一の名山と共に野中氏の事業と共に、天下不二の大快文字たらん読者諸君刮目してこの大快文字の紙上に躍出づるを待て

 新字新仮名

社員を富士山巓に特派す

前古未曾有の大快事は気象熱心家野中至氏によつて三国一の名山富士山巓に演ぜられんとす、芙蓉峯頭風荒み雪狂ひ沙飛び石吼ゆる處這般の絶壮絶快の活劇を演ずるも、これを世に報道し、世に紹介するものなくんば、これかえって前古未曾有の大恨事にあらざるなからんや、さればこの一大快事起るにあたってその事蹟を天下に先だちて世人に報ぜんがために社員石塚正治を富士山巓に特派したり、この報道一たび山を下る時、山巓の活劇目に見、耳に聞がごとく三国一の名山と共に野中氏の事業と共に、天下不二の大快文字たらん、読者諸君刮目(かつもく)してこの大快文字の紙上に躍出づるを待て


YM-01

資料番号  YM-01
資料名 社告 社員を富士山巓に特派す
年代

 1895年(明治28年) 10月1日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

社員を富士山巓に特派す

前古未曾有の大快事は気象熱心家野中至氏によつて三国一の名山富士山巓に演ぜられんとす、芙蓉峯頭風荒み雪狂ひ沙飛び石吼ゆる處這般の絶壮絶快の活劇を演ずるも、之を世に報道し、世に紹介するものなくんば、是れ却て前古未曾有の大恨事にあらざるなからんや、左れば此一大快事起るに方つて其事蹟を天下に先ちて世人に報ぜんがために社員石塚正治を富士山巓に特派したり、この報道一たび山を下る時、山巓に活劇目に見、耳に聞が如く三国一の名山と共に野中氏の事業と共に、天下不二の大快文字たらん読者諸君刮目してこの大快文字の紙上に躍出づるを待て

 

社員を富士山巓に特派す

前古未曾有の大快事は気象熱心家野中至氏によつて三国一の名山富士山巓に演ぜられんとす、芙蓉峯頭風荒み雪狂ひ沙飛び石吼ゆる處這般の絶壮絶快の活劇を演ずるも、これを世に報道し、世に紹介するものなくんば、これかえって前古未曾有の大恨事にあらざるなからんや、さればこの一大快事起るにあたってその事蹟を天下に先だちて世人に報ぜんがために社員石塚正治を富士山巓に特派したり、この報道一たび山を下る時、山巓の活劇目に見、耳に聞がごとく三国一の名山と共に野中氏の事業と共に、天下不二の大快文字たらん、読者諸君刮目(かつもく)してこの大快文字の紙上に躍出づるを待て


OM-91

資料番号  OM-91
資料名 高層観測の目的
年代

 1895年(明治28年) 10月 4日

新聞社

  報知新聞

元データ

国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供

旧字旧仮名

野中氏は何が故に風雪烈寒と戦ふて高層観測を富士山巓に試みんとする乎、此の答案を聞かんとするものは、必らず此の記事を読まざるべからず

高層観測の眞目的 現今に於ては、気象学は諸学科中最も幼稚なるものにして、欧米の諸学者は争ふて之が研究に従事し、就中(なかんづく)高層気象観測の如き諸説紛々として未だ一定せず、其の高層と下層との間に於ける空気の圧力に差異あること、風力の強弱あること等の原因に就いては、今尚ほ研究中の問題に属す左れば、高層観測は気象学上必要にして且つ有益なるは言を須たざれども、何が故に必要にして如何なる程度まで有益なるやは将来の研究を須たざるべからざる未定問題なり、而して此の未定問題の解釈を求めんが為め、欧米諸国は競ふて高層観測に従事せるなり、我が国に於ても、夙(つと)に此に着目し富士山、筑波山其の他四国の石鎚山、信州の御岳等全国の諸高山に技手を派遣せしこと前後数回に及び、今叉野中氏の富嶽越年の挙あり、気象学の研究に於ては敢て欧米諸国に対するも遜色なし、知らず気海の未定問題を解釈して斯道の木鐸(もくたく)を垂るゝものは、果たして何人ぞ

欧米の高層観測所 既に高層観測は、気象学上必要且つ有益なるものと認められたれば、欧米諸国は競ふて之が研究に従事せり、因(よ)って世界に於ける重(おも)なる高山観測所の位置名称を左に記述せん

高山観測所の嚆矢 今こそ廃止せられたれども、一千八百七十年北米合衆国信号事務局及びハンチンクトン氏の助力に依って建てられたるワシントン山の観測所こそ、世界に於ける高山観測所の嚆矢なれ、此の観測所は海面を抜くこと六千二百八十呎(㌳)にして、世界何れの国と雖も此の山に於て観測したるが如き強度の寒気を測りしものなく、千八百八十六年二月に於て華氏の寒暖計零下五十度に及び、一時間の風速百八十四哩なりき、

第一の高山観測所 北米合衆国ハーバード大学気象台の分台を南米秘露(ペルー)のアレキバ―山に置きたるを始めとて、千八百九十三年に至りぺーレー教授は其の近傍の火山エルミスティの頂上に自記器械を据付けたり、其の高さ一万九千三百呎(㌳)にして観測者を常住せしむるは頗る難事なれば、二週間有効の自記器械を備へ置き、一ヶ月数回アレキバ―の分台員を登山せしむる事となせり、左れども時として器械の運転止まり、往々正確を得ざることあり

最高の常住観測所 ハン博士の指揮に属するアルプスの連山なるソンブリック山上の観測所は、欧州における常住観測所の最高なるものにして非常に有益なる材料を供す、其の高さ一万百七十呎(㌳)

完全の高山観測所 瑞士国(スイス)アペンセル郡のセンチス山に在るものにして高さ八千三百フィートなり

佛国の高層観測所 欧州中に在りて高山観測所の最も多きは仏国にして熟(いづ)れも其の建設に付きては中央政府及び地方庁は、数十万円の金を費やせり、彼のモンブラン山頂に設立したるジャンセン氏の観測所は一万五千七百八十呎(㌳)の処に在り、仏国の気象学会は其の規模広大にして前大統領カルノー氏の如きは自ら会長となりて斯道の発達を奨励したる程なり、ジャンセン氏は往年金星経過観測として我が国に渡来せし人にして、天文学者として有名なるのみならず、兼ねて気象の学に精しきを以て、此の度新築せるモンブラン山頂観測所は即ち天文気象の両者研究の為に設けられたるなり、氏は日本贔屓にして其の室内の装飾の如き、悉く日本品を以てす、先に気象台の和田技師が仏国に遊びしとき氏を訪ひしに、大に喜びて其の室に延(ひ)き、日本の天文学者として非常に優遇したりと云ふ、此の観測所は既に落成したれば前掲のソンブリッㇰを駕して世界第一の常住観測所となるべきか

英国の高層観測所 英國の最高山ベンネビスは四千四百呎(㌳)にして既往十年間連綿として毎時観測をなし、頗る価値ある観測をなせし事は博士ブハン氏に依って世に紹介せられたり、始め同山に観測所を設立せんとするや、議会も異議なく其の経費を支出せしが、爾後数年を経るも未だ満足なる結果を奏せざるを以て、毎期の議会に於て之が経費の削除説を主張するものありて当局者も大にその説明に苦しみ、辛うじて今日まで命脈を維持し来れり

右の如く南米秘露(ペルー)のアレキバ―山に在るものは、世界第一の高山観測所なるも常住する能はず、佛国のモンブラン山頂の観測所は此の程落成したれば、是より常住観測所の最高位を占むるならん、若し野中氏の富士山頂越年の成功するに於ては、我が国は世界に於ける第二の最高常住観測所を有するに至り、従来第一の常住観測所たりし米国のソンブリックは、第三に下るなり

 新字新仮名

野中氏は何がゆえに風雪烈寒と戦うて高層観測を富士山巓に試みんとするか、この答案を聞かんとするものは、必らずこの記事を読まざるべからず

高層観測の真目的 現今においては、気象学は諸学科中最も幼稚なるものにして、欧米の諸学者は争うてこれが研究に従事し、就中(なかんづく)高層気象観測のごとき諸説紛々として未だ一定せず、その高層と下層との間における空気の圧力に差異あること、風力の強弱あること等の原因については、今なほ研究中の問題に属す、されば高層観測は気象学上必要にしてかつ有益なるは言を待たざれども、何がゆえに必要にしていかなる程度まで有益なるやは将来の研究を待たざるべからざる未定問題なり、しこうしてこの未定問題の解釈を求めんがため、欧米諸国は競うて高層観測に従事せるなり、我が国に於ても、つとにこれに着目し、富士山、筑波山その他四国の石鎚山、信州の御岳等全国の諸高山に技手を派遣せしこと前後数回に及び、今叉野中氏の富嶽越年の挙あり、気象学の研究においてはあえて欧米諸国に対するも遜色なし、知らず気海の未定問題を解釈して斯道の木鐸(もくたく)を垂るるものは、はたして何人ぞ

欧米の高層観測所 すでに高層観測は、気象学上必要かつ有益なるものと認められたれば、欧米諸国は競うてこれが研究に従事せり、よって世界における主なる高山観測所の位置名称を左に記述せん

高山観測所の嚆矢 今こそ廃止せられたれども、一千八百七十年北米合衆国信号事務局及びハンチンクトン氏の助力によって建てられたるワシントン山の観測所こそ、世界における高山観測所の嚆矢なれ、この観測所は海面を抜くこと六千二百八十フィートにして、世界何れの国といえどもこの山において観測したるがごとき強度の寒気を測りしものなく、千八百八十六年二月において華氏の寒暖計零下五十度に及び、一時間の風速百八十四マイルなりき

第一の高山観測所 北米合衆国ハーバード大学気象台の分台を南米秘露(ペルー)のアレキバ―山に置きたるを始めとて、千八百九十三年に至りぺーレー教授はその近傍の火山エルミスティの頂上に自記器械を据付けたり、その高さ一万九千三百フィートにして観測者を常住せしむるはすこぶる難事なれば、二週間有効の自記器械を備え置き、一ヶ月数回アレキバ―の分台員を登山せしむる事となせり、されども時として器械の運転止まり、往々正確を得ざることあり

最高の常住観測所 ハン博士の指揮に属するアルプスの連山なるソンブリック山上の観測所は、欧州における常住観測所の最高なるものにして非常に有益なる材料を供す、その高さ一万百七十フィート

完全の高山観測所  は瑞士国(スイス)アペンセル郡のセンチス山にあるものにして高さ八千三百フィートなり

仏国の高層観測所 欧州中にありて高山観測所の最も多きは仏国にしていづれもその建設につきては中央政府及び地方庁は、数十万円の金を費やせり、かのモンブラン山頂に設立したるジャンセン氏の観測所は一万五千七百八十フィートの処にあり、仏国の気象学会はその規模広大にして前大統領カルノー氏のごときは自ら会長となりて斯道の発達を奨励したる程なり、ジャンセン氏は往年金星経過観測として我が国に渡来せし人にして、天文学者として有名なるのみならず、かねて気象の学にくわしきをもって、このたび新築せるモンブラン山頂観測所はすなわち天文気象の両者研究のために設けられたるなり、氏は日本ひいきにしてその室内の装飾のごとき、ことごとく日本品をもってす、先に気象台の和田技師が仏国に遊びしとき氏を訪いしに、大いに喜びてその室にひき、日本の天文学者として非常に優遇したりという、この観測所はすでに落成したれば前掲のソンブリッㇰを駕して世界第一の常住観測所となるべきか

英国の高層観測所 英國の最高山ベンネビスは四千四百フィートにして既往十年間連綿として毎時観測をなし、すこぶる価値ある観測をなせし事は博士ブハン氏によって世に紹介せられたり、始め同山に観測所を設立せんとするや、議会も異議なくその経費を支出せしが、爾後(じご)数年を経るも未だ満足なる結果を奏せざるをもって、毎期の議会においてこれが経費の削除説を主張するものありて当局者も大いにその説明に苦しみ、かろうじて今日まで命脈を維持し来たれり

右のごとく南米秘露(ペルー)のアレキバ―山にあるものは、世界第一の高山観測所なるも常住するあたわず、仏国のモンブラン山頂の観測所はこの程落成したれば、これより常住観測所の最高位を占むるならん、もし野中氏の富士山頂越年の成功するにおいては、我が国は世界に於ける第二の最高常住観測所を有するに至り、従来第一の常住観測所たりし米国のソンブリックは、第三に下るなり


YM-02

資料番号  YM-02
資料名

富士登山記(二)

九月丗日朝富士山下瀧河原に於て

特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月3日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

高層測候の必要 車窓の下(もと)輪声轆々(ろくろく)人語を没する處、野中氏語りて曰く、数日前一大低気圧は東洋の天を蔽ひ、北の方ウラジオストックより日本海の北部を掠め、南に向て進み行きし事あり、其の模様尋常ならず、若し本邦を衝きしならば大荒らしと為らんづ天変なりしが、中央気象台の晴雨計は毫も之に感せず、唯獨り富士山頂の晴雨計のみ甚だしく之に感じたり、蓋し此の低気圧は日本の空中数里の高層を掠め去りて、下層には影響を及ぼさざりしなり、眼前頗る斯る例を見る一年三百六十有余日の間、豈(あ)に亦た斯る例少なしとせんや、是れ即ち余が益々高層測候の必要を認むる所以なりと

富士山頂早きこと一日 氏叉語るらく、凡そ暴風の如きは、通例天上は下界より一日若しくは二日程早く吹き荒むが如し、現に去る八月二十二日、中国より四国の間を荒らしたる暴風の例に照すに、富士山頂にては二十日より二十一日へ掛けて大荒れに荒れたりと、暴風の襲ひ来る多くは斯くの如しとすれば、氏が事業の成功する暁には、常に数日前に其の襲来を予知するを得べく、従て其の災害の幾分を救ひ得らるゝに至るべきか

可憐の二少年 汽車の漸く横浜停車場に着するや、兄弟と思しき二少年あり中等切符を携えて余等の車室に乗り込めり、長なるは十五六歳、幼なるは十三四歳、共に薩摩飛白(かすり)の衣服に裾短かに凛々しく袴を着け、頭に大黒帽を戴けるは疑いもなく学生と知られたり、其の将に大船停車場より下車せんとするや、野中氏に向い一揖(いちゆう)して曰く、聞く君今回富士山頂に前古未曾有の大業を企てんとすと我等未だ君と半面の識あるにあらずと雖も、夙に之を耳し、邦家の為に大に之を賀す、今幸いに茲に君の行を送るを得たるもの我等の光栄何ぞ之に過ぎん、願わくは邦家の為に自愛せよと、野中氏篤く其の厚誼を謝し、且つ其の姓名を問へど、少年笑って答えず、強いて之を問えば野村某と記せる名刺を投じて去る、嗚呼可憐の二少年、知らず是れ誰が家の児ぞ

迎ふる者山の如し 新橋停車場を発してより、茲に四時間、其の間一駅去れば一駅来たり方に十有六の停車場を過ぎて御殿場に着す、御殿場は富士山下の足柄街道に當れる一小駅にして、東表口新道に進むべき関門なり、余等が汽車の行程此れに盡く、一行停車場を出づれば、富士山麓中畑近付の農民、野中氏の為めに一里の道程を遠しとせずして来たり、迎ふる者山の如し、中に羽織袴を着したる人士数名あり、これ玉穂村の勇士総代なり、総代は先づ余等の一行を同駅の旅店松屋に導きて茶を供し、且つ腕章を具して曰く、玉穂村の有志相会して野中氏の為めに送別の宴を張らんとす、乞ふ是より案内せんと、野中氏固く辞すれども聞かず、即ち碗車を連ねて、会場に向ふ

送別の宴 会場は玉穂村字中畑なる福島某の宅にあり、余等一行は案内者の導きに従ひ、直に之に入る、時既に有志の集まる者二十余名、漸く一名は一名より其の数を加へ、開会当時には来会者五六十余名と数へらる、席上松井村長外数名の演説、文章朗読及び野中氏の答辞等あり、態々数里外なる沼津の某料理店に注文したる美酒佳肴は大に座興を補け、杯盤廻る處歓声湧くが如し、郷當の厚誼亦た喜ぶべし

恩義の郷 

瀧河原に向ふ 宴席の興極まり歓十二分に達する頃、予て融資者の準備せる馬に跨り、裾野の一部落瀧河原に向ふ、宴席に興りたる有志者数十名亦た隊を組んで前後に従ふ、先なる者は「謹送気象学会員富士越年者野中至君」と記せる大旗を押立て、其の他多くは提灯を携へ、其の行列の整々堂々たる、昔し源右府が裾野の狩の出立も斯くやと思はる

馬上の月 時恰も中秋前四日、半輪月は皓々として中天に懸り蒼穹(そうきゅう)澄んで清きこと鏡の如し、馬背月を踏み潺湲たる渓流に沿ふて進めば虫声切々として余等の行を壮にするが如し、荊棘路(けいきょくみち)を蔽ふの辺、雑柯の月に錦を織るあり、老松亭々として相並ぶ處双龍の玉を争ふあり、蓋し是れ得難きの絶景、漸くにして馬は瀧河原に着す、瀧河原は是れ余等が一泊すべきの地なり

新字新仮名

高層測候の必要 車窓のもと輪声轆々(ろくろく)人語を没する処、野中氏語りていわく、数日前一大低気圧は東洋の天をおおい、北の方ウラジオストックより日本海の北部をかすめ、南に向って進み行きし事あり、その模様尋常ならず、もし本邦をつきしならば大嵐とならんず天変なりしが、中央気象台の晴雨計は毫もこれに感せず、ただひとり富士山頂の晴雨計のみはなはだしくこれに感じたり、けだしこの低気圧は日本の空中数里の高層をかすめ去りて、下層には影響を及ぼさざりしなり、眼前すこぶるかかる例を見る一年三百六十有余日の間、あにまたかかる例少なしとせんや、これすなわち余が益々高層測候の必要を認むるゆえんなりと

富士山頂早きこと一日 氏叉語るらく、およそ暴風のごときは、通例天上は下界より一日もしくは二日程早く吹きすさむがごとし、現に去る八月二十二日、中国より四国の間を荒らしたる暴風の例にてらすに、富士山頂にては二十日より二十一日へかけて大荒れに荒れたりと、暴風の襲ひ来たる多くはかくのごとしとすれば、氏が事業の成功する暁には、常に数日前にその襲来を予知するを得べく、従ってその災害の幾分を救い得らるるに至るべきか

可憐の二少年 汽車のようやく横浜停車場に着するや、兄弟と思しき二少年あり、中等切符を携えて余等の車室に乗り込めり、長なるは十五、六歳、幼なるは十三、四歳、共に薩摩飛白(かすり)の衣服に裾短かに凛々しく袴を着け、頭に大黒帽を戴けるは疑いもなく学生と知られたり、そのまさに大船停車場より下車せんとするや、野中氏に向い一揖(いちゆう)していわく、聞く君今回富士山頂に前古未曾有の大業を企てんとすと、我等未だ君と半面の識あるにあらずといえども、つとにこれを耳し、邦家のために大いにこれを賀す、今幸いにここに君の行を送るを得たるもの、我等の光栄何ぞこれに過ぎん、願わくは邦家のために自愛せよと、野中氏篤くその厚誼(こうぎ)を謝し、かつその姓名を問えど、少年笑って答えず、しいてこれを問えば野村某と記せる名刺を投じて去る、嗚呼(ああ)可憐の二少年、知らずこれたが家の児ぞ

迎ふる者山の如し 新橋停車場を発してより、ここに四時間、その間一駅去れば一駅来たり方に十有六の停車場を過ぎて御殿場に着す、御殿場は富士山下の足柄街道に当たれる一小駅にして、東表口新道に進むべき関門なり、余等が汽車の行程これに尽く、一行停車場を出ずれば、富士山麓中畑近付の農民、野中氏のために一里の道程を遠しとせずして来たり、迎うる者山のごとし、中に羽織袴を着したる人士数名あり、これ玉穂村の勇士総代なり、総代はまず余等の一行を同駅の旅店松屋に導きて茶を供し、かつ腕章を具していわく、玉穂村の有志相会して野中氏のために送別の宴を張らんとす、乞ふこれより案内せんと、野中氏固く辞すれども聞かず、すなわち碗車を連ねて、会場に向かう

送別の宴 会場は玉穂村字中畑なる福島某の宅にあり、余等一行は案内者の導きに従い、直にこれに入る、時すでに有志の集まる者二十余名、ようやく一名は一名よりその数を加へ、開会当時には来会者五、六十余名と数えらる、席上松井村長外数名の演説、文章朗読及び野中氏の答辞等あり、わざわざ数里外なる沼津の某料理店に注文したる美酒佳肴は大いに座興をたすけ、杯盤廻る處歓声湧くがごとし、郷党(きょうとう)の厚誼また喜ぶべし

瀧河原に向う 宴席の興極まり歓十二分に達する頃、予て融資者の準備せる馬に跨り、裾野の一部落滝河原に向かう、宴席にあずかりたる有志者数十名また隊を組んで前後に従う、先なる者は「謹(つつしんで)送気象学会員富士越年者野中至君」と記せる大旗を押立て、その他多くは提灯を携え、その行列の整々堂々たる、昔、源右府(げんうふ)が裾野の狩の出立もかくやと思わる

馬上の月 時あたかも中秋前四日、半輪月は皓々(こうこう)として中天に懸り蒼穹(そうきゅう)澄んで清きこと鏡のごとし、馬背月を踏み潺湲(せんかん)たる渓流に沿うて進めば虫声(ちゅうせい)切々として余等の行を壮(さかん)にするがごとし、荊棘路(けいきょくみち)を蔽(おお)うの辺、雑柯(ざっか)の月に錦を織るあり、老松(ろうしょう)亭々(ていてい)として相並ぶ処双竜の玉を争うあり、けだしこれ得難きの絶景、ようやくにして馬は滝河原に着す、滝河原はこれ余等が一泊すべきの地なり


YM-03

資料番号  YM-03
資料名

富士登山記(三)

富士山頂剣ヶ峯に於て

       特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月6日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

瀧河原の小宴 瀧河原は御殿場停車場を去る凡そ一里東、表口新道の街道に當れり、人家僅に一軒号して藤屋と云ふ、農にして旅店を兼ね、主人は佐藤與平次と呼び夙(つと)に野中氏の事業を補け、大に斡旋の労を取り、将来に於ても亦た氏の良友たらんと期する人なり、余等一行の将に瀧河原に達せんとするや、主人は出でて之を道に迎へ、直に東道して其の宅に入る、宅には浴湯の設あり、酒肴の供あり、直に茲に小宴を開く、主人山鳥の肉を饗して曰く、村遠く地僻にして佳肴の以て饗すべきなし、唯だ昨朝宅後の曠原に於て、山鳥一羽を得たり、聊(いささ)か以て鮮魚に代へ、野中君の名誉をして、山鳥の尾の長きが如く末長からしめんことを祈ると、野中氏大に其の厚意を謝し、主人以下家族一同を招きて、一々訣別の杯を献酬す

無邪気の處女 野中氏の招きに応じて宴席に列なる者、主婦は主人に次ぎ、其の他之に次ぐ、而して最後に来たれるは此家の娘にして、名をツル子と呼ぶ、年齢僅かに十三四色白さにあらざれども艶容自ら山の杜鵑花(さつき)に比すべく、紅粉の装あるに非ざれども艶容自ら野の百合に擬すべし、處女は静に野中氏の前に進み繊手(せんしゅ)を延べて一盞(いっさん)を献じ、且つ其の無事を祈る挙措(きょさ)撲茂(ぼくも)一点の邪気を見ず、嗚呼是れ真に素にして且清きもの、怨むらくは其の草花を頭に挿し、馬に跨りて露繁き野末に謡ふ村歌を聴くの機を逸せしを

瀧河原の深更(しんこう)明日は方に是れ三国一の神嶺に足を運ぶべきの日なり、宜しく十分の眠を取りて英気を養ふべしと一同臥床に入る、余は原稿を認めんが為めに一人寒燈に対して席に孤座す、更漸く深くるに従ひ、人眠り、風眠り、草木亦た眠り、四隣寂寥冷気骨に砭(いしばり)する處幽かに喞々(そくそく)たる虫聲の聴こゆるは秋と冬と一時に襲い来たりたるの感あり、起て窓を開けば沈々たる半月天に罹(かか)りて一痕清し

裾野の朝景色 行旅(こうりょ)終日の疲労を一夜の肝睡(かんせい)に癒やし、裾野に通ふ馬子の謡ふ馬追歌に夢を破られて目を醒ませば、夜は早や朧明と明け渡り、屋後(おくご)に鳥鵲(ちょうぜつ)が盞舌(けつぜつ)の蛮語を弄するを聞く、野中氏は余を導きて屋背(おくはい)の小稜に登り、東望西顧一々指点して説明の労を取る、曰く彼れに見ゆるは愛宕山なり、此れなるは足柄山なり、彼れなるは太郎坊なり、此れなるは馬返なり、彼れは何地なり、此れは何なりと、説き来り説き去て富士山頂を望み、其の全く濃霧に蔽はれたるを見て頗る憂色あり

野中千代子  余は金剛杖を用意せんとて主人に之を求む、時に傍に新しげなる杖一本あるを見て、之を手に取れば富士登山用野中千代子と記るせり、蓋し是れ野中夫人千代子が曾て用ひたる處、而して亦た数日の後に當に用ゆべき處の金剛杖なり、聞説(きくなら)く千代子此家に宿ること数旬、常に所天の業を補けて物品補給の衝に當れり、千代子今や帰りて郷里福岡に在り数日を出でずして再び此の地に来り、富士の絶頂に登りて所天野中氏と越年の苦を分つ筈なりと、繊手細腰の身にして此企を為す、其の健気さ感ずるの外なし

瀧河原を発す 余等一行の将に瀧河原を出発せんとするや、玉穂村の有志総代数名は羽織袴にて余等の宿に来り、野中氏に向って慇懃に告別の辞を陳べ且つ馬返までの乗馬を具し、総代二名をして山頂まで見送らしむ、即ち相携へて愈々瀧河原を出発す、時に同行者は野中至氏令弟清氏及び余の三名にして外は有志総代二名、強力五名、大工一名都合十一名なり

暴風雨登る可らず 忽ち強力一人あり、走来たりて曰く、今や頂上は暴風激雨なるが如し、之を冒して登らば其の危険云ふべからず、如かず一日を延して空の晴るるを待たんには、況 (いわ) んや途中の各室既に鎖して災を避くべき場所なきに於てをやと、語気切に頗る天候を慮るものの如し、野中氏之を聞き大空を一瞥して曰く、天候の穏かならざる、余も亦た之を知る、唯だ風の山下より山上に向ふ時は山頂常に晴天なればなり、聞く他の室は悉く既に之を鎖したりと雖 (いえど) も、二号二勺目の室のみは猶ほ存せりと、若し夫れ已むなくんば之に宿せん、兎にも角にも此の地に止まるべからずと、即ち其の言に従ひ、一同勇を鼓して進む

 新字新仮名

滝河原の小宴 滝河原は御殿場停車場を去るおよそ一里東、表口新道の街道にあたれり、人家わずかに一軒号して藤屋という、農にして旅店を兼ね、主人は佐藤与平次と呼び、つとに野中氏の事業をたすけ、大いに斡旋の労を取り、将来においてもまた氏の良友たらんと期する人なり、余等一行の将に滝河原に達せんとするや、主人は出でてこれを道に迎へ、直ちに東道してその宅に入る、宅には浴湯の設けあり、酒肴の供(そなえ)あり、ただちにここに小宴を開く、主人山鳥の肉を饗して曰く、村遠く地僻にして佳肴のもって饗すべきなし、ただ昨朝宅後の広原において、山鳥一羽を得たり、聊(いささ)かもって鮮魚に代え、野中君の名誉をして、山鳥の尾の長きがごとく末長からしめんことを祈ると、野中氏大いにその厚意を謝し、主人以下家族一同を招きて、一々訣別の杯を献酬す

無邪気の処女 野中氏の招きに応じて宴席に列なる者、主婦は主人につぎ、その他これに次ぐ、しこうして最後に来たれるはこの家の娘にして、名をツル子と呼ぶ、年齢僅かに十三、四、色白さにあらざれども艶容自ら山の杜鵑花(さつき)に比すべく、紅粉の装あるにあらざれども艶容自ら野の百合に擬すべし、處女は静かに野中氏の前に進み、繊手(せんしゅ)を延べて一盞(いっさん)を献じ、かつその無事を祈る、挙措(きょさ)撲茂(ぼくも)一点の邪気を見ず、ああこれ真に素にしてかつ清きもの、怨むらくはその草花を頭に挿し、馬に跨りて露繁き野末にうたう村歌を聴くの機を逸せしを

滝河原の深更(しんこう)明日は方に是れ三国一の神嶺に足を運ぶべきの日なり、よろしく十分の眠りを取りて英気を養うべしと一同臥床に入る、余は原稿を認めんがために一人寒灯に対して席に孤座す、更漸くふくるに従い、人眠り、風眠り、草木また眠り、四隣寂寥冷気骨にいしばりする処、かすかに喞々(そくそく)たる虫声の聴こゆるは秋と冬と一時に襲い来たりたるの感あり、起きて窓を開けば沈々たる半月天にかかりて一痕清し

裾野の朝景色 行旅(こうりょ)終日の疲労を一夜の肝睡(かんせい)に癒やし、裾野に通う馬子の謡ふ馬追歌に夢を破られて目を醒ませば、夜ははや朧明と明け渡り、屋後(おくご)に鳥鵲(ちょうぜつ)が盞舌(けつぜつ)の蛮語を弄するを聞く、野中氏は余を導きて屋背(おくはい)の小稜に登り、東望西顧一々指点して説明の労を取る、いわくかれに見ゆるは愛宕山なり、これなるは足柄山なり、かれなるは太郎坊なり、これなるは馬返なり、かれは何地なり、これは何なりと、説き来たり説き去って富士山頂を望み、その全く濃霧におおわれたるを見てすこぶる憂色あり

野中千代子  余は金剛杖を用意せんとて主人にこれを求む、時に傍に新しげなる杖一本あるを見て、これを手に取れば「富士登山用野中千代子」と記るせり、けだしこれ野中夫人千代子がかつて用いたる処、しこうしてまた数日の後にまさに用ゆべき処の金剛杖なり、聞説(きくなら)く千代子この家に宿ること数旬、常に所天の業をたすけて物品補給の衝に当たれり、千代子今や帰りて郷里福岡にあり、数日を出でずして再びこの地に来たり、富士の絶頂に登りて所天(おっと)野中氏と越年の苦を分つはずなりと、繊手細腰の身にしてこの企をなす、その健気さ感ずるの外なし

滝河原を発す 余等一行のまさに滝河原を出発せんとするや、玉穂村の有志総代数名は羽織袴にて余等の宿に来たり、野中氏に向かって慇懃に告別の辞を陳べかつ馬返までの乗馬を具し、総代二名をして山頂まで見送らしむ、即ち相携へていよいよ滝河原を出発す、時に同行者は野中至氏令弟清氏及び余の三名にして、外は有志総代二名、強力五名、大工一名都合十一名なり

暴風雨登る可らず たちまち強力一人あり、走り来たりていわく、今や頂上は暴風激雨なるがごとし、これを冒して登らばその危険いうべからず、しかず一日を延ばして空の晴るるを待たんには、いわんや途中の各室すでに鎖して災を避くべき場所なきにおいてをやと、語気切にすこぶる天候をおもんばかるもののごとし、野中氏これを聞き大空を一瞥していわく、天候の穏かならざる、余もまたこれを知る、ただ風の山下より山上に向かう時は山頂常に晴天なればなり、聞く他の室はことごとくすでにこれを鎖(とざ)したりといえども、二号二勺目の室のみはなお存せりと、もしそれやむなくんばこれに宿せん、とにも角にもこの地にとどまるべからずと、すなわちその言に従い、一同勇を鼓して進む


YM-04

資料番号  YM-04
資料名

富士登山記(四)

富士山頂剣ヶ峯に於て

      特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月8日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

富士の裾野 余等の一行は今や富士の裾野の一端に出でたり、余之を村民に聞く、今を距る七百余年の昔、源頼朝が諸侯を招集して裾野の大猟を催したるは是より西南数里の間にして、仁田四郎忠常が豪著を博ちにし、曽我兄弟が不倶戴天の仇を復したるの地も亦た其の中に在りと、知らず細雨蕭々四顧暗澹たる夕、時に燐火啾々泣て彷徨ふなきや否やを

曽我兄弟の墳墓 余亦た之を村民に聞く、曽我兄弟の墳墓は是より西南数里、鷹岡村福泉寺に在り、五重の輪塔小堂の中に相並び、各々地を抜くこと僅かに三尺五寸、稜角は既に摩滅し、字形亦た既に腐食し、唯だ古色蒼然たるを見るのみ、福泉寺は其の初め祐成の愛妾虎が結びたる草庵にして、今は堂宇を建設し、薬師如来を安置せりと云ふ

裾野の秋色 馬は漸く露滋き野路を踏分けて進めり、見渡せば黄なるペンシルもて彩りたるが如き広野は漠々として遠く天の一方に連なり、人待顔に咲き乱れたる女郎花、萩、桔梗、野菊、其の他有りとあらゆる秋草、彼方此方に招ける尾花皆な是れ野中氏の為にする所あるに似たり

鶉一羽 藤屋の主人猟銃を肩にし、猟犬を従えて野中氏を送る、途に鶉一羽を獲たり、即ち之を野中氏に餞す、聞く此広原には鶉、野雉、山雉の類甚だ多く、秋更け草老ふるの候、猟銃を取って起つに適すと、是に於てか年々歳々猟銃を提げて此地に遊ぶもの少なからず、河村伯の如き、数日を出でずして此地に来り、大に小鳥を猟する筈なりとかや

馬返 馬返は瀧河原を去る五十八町、松柏森々雑樹柯を交ゆる富士の裾野の山中に在り、是より漸く坂峻に路嶮にして馬を進むる能はざるが故に此の名あり、余等の一行は今や裾野の高原を横ぎりて馬返に達す、此処には萱もて葺ける粗家一軒あり、夏期は人之に栖み富士登山者に向て茶を供し菓子及び草鞋の類を鬻げり、左れど今や既に登山の季節を過ぐること遠く、人は去り建具は撤去せられ傾きたる柱と破れたる板壁の残れる處唯だ蜘蛛の巣を放にするあり、余等一行は此にて馬を下り強力こと共も徒歩して進めり

太郎坊 林は弥々深く枝は増々繁き處漸く途は狭く坂は嶮し、烟の如く霞む朝霧の間を足に任せて進むこと凡そ一里にして太郎坊に着す、太郎坊は裾野の樹木の将に盡きんとする山中の最も高き處に在り、是れ馬返と等しく富士登山者の為に建てられたる茶店あり、側に神廟の設あれども祭るに人なく家に座敷の供あれども座するに筵なし、唯だ其の間獣類の足痕点々たるは夜間人なきの時狐狸の来り戯むるゝにやあらむ、初め余等の瀧河原を発するや同行者十一名の外村民の野中氏を見送る者十余名、其の中半は馬返にて別を告げ余は太郎坊にて袂を分てり

一合目より二合目 太郎坊を過ぐると数丁にして樹木全く盡き再び広漠たる枯野に出づ野は斜形を保つと四十度位と覚しく路は蜿蜒(えんえん)として其の間を貫けり、路を縁とれる枯草は一歩は一歩より短かくして且つ少なく、初は腰を蔽ひ、漸くにして膝、漸くにして脛、漸くにして踵、漸くにして全く盡き、唯だ所々に虎杖(いたどり)の霜に色づきて哀れげに頭を垂れ居るを見るのみ、草の全く盡くる處に一合目あれど今は撤去して唯だ窟墟を存するあり、一合目を過ぐれば則ち広漠たる砂原なり、砂は少しく黒色を帯び、石炭の焼屑に異ならず、珊々(さんさん)として之を踏み、奄々たる呼吸を忍んで登ること二十余町、漸く二合目に達す

 新字新仮名

富士の裾野 余等の一行は今や富士の裾野の一端に出でたり、余これを村民に聞く、今をさる七百余年の昔、源頼朝が諸侯を招集して裾野の大猟を催したるはこれより西南数里の間にして、仁田四郎忠常が豪緒?を博?ちにし、曽我兄弟が不倶戴天の仇を復したるの地もまたその中にありと、知らず細雨蕭々(さいうしょうしょう)四顧暗澹たる夕、時に燐火啾々(しゅうしゅう)泣いて彷徨?(さまよ)うなきや否やを

曽我兄弟の墳墓 余またこれを村民に聞く、曽我兄弟の墳墓はこれより西南数里、鷹岡村福泉寺にあり、五重の輪塔小堂の中に相並び、各々地を抜くこと僅かに三尺五寸、稜角はすでに摩滅し、字形またすでに腐食し、ただ古色蒼然たるを見るのみ、福泉寺はその初め祐成の愛妾虎が結びたる草庵にして、今は堂宇を建設し、薬師如来を安置せりという

裾野の秋色 馬はようやく露滋き野路を踏み分けて進めり、見渡せば黄なるペンシルもて彩りたるがごとき広野は漠々(ばくばく)として遠く天の一方に連なり、人待顔に咲き乱れたる女郎花(おみなえし)、萩、桔梗、野菊、その他ありとあらゆる秋草、かなたこなたに招ける尾花皆なこれ野中氏のためにする所あるに似たり

鶉(うずら)一羽 藤屋の主人猟銃を肩にし、猟犬を従えて野中氏を送る、途に鶉一羽を獲たり、すなわちこれを野中氏に餞す、聞くこの広原には鶉、野雉(きじ)、山雉の類はなはだ多く、秋更け草老うるの候、猟銃を取って起つに適すと、これにおいてか年々歳々猟銃を提げてこの地に遊ぶもの少なからず、河村伯のごとき、数日を出でずしてこの地に来たり、大いに小鳥を猟するはずなりとかや

馬返 馬返は滝河原を去る五十八町、松柏森々(しょうはくしんしん)雑樹柯を交(まじ)ゆる富士の裾野の山中にあり、これより漸く坂峻に路嶮にして馬を進むるあたわざるが故にこの名あり、余等の一行は今や裾野の高原を横ぎりて馬返に達す、ここには萱(かや)もて葺ける粗家(あばらや)一軒あり、夏期は人これに栖み富士登山者に向って茶を供し菓子及び草鞋(わらじ)の類をひさげり、されど今やすでに登山の季節を過ぐること遠く、人は去り建具は撤去せられ傾きたる柱と破れたる板壁の残れる処ただ蜘蛛の巣をほしいままにするあり、余等一行はここにて馬を下り強力こと共も徒歩して進めり

太郎坊 林はいよいよ深く枝は増々繁き処漸く途は狭く坂は嶮し、煙のごとく霞む朝霧の間を足に任せて進むことおよそ一里にして太郎坊に着す、太郎坊は裾野の樹木の将に尽きんとする山中の最も高き処にあり、これ馬返と等しく富士登山者のために建てられたる茶店あり、側に神廟の設けあれども祭るに人なく家に座敷の供(そなえ)あれども座するに筵なし、ただその間獣類の足痕(そくこん)点々たるは夜間人なきの時狐狸(こり)の来たり戯むるるにやあらむ、初め余等の滝河原を発するや同行者十一名の外村民の野中氏を見送る者十余名、そのうち半ばは馬返にて別を告げ余は太郎坊にて袂を分てり

一合目より二合目 太郎坊を過ぐると数丁にして樹木全く尽き再び広漠たる枯野に出でず野は斜形を保つと四十度位と覚しく路は蜿?蜒?としてその間を貫けり、路を縁とれる枯草は一歩は一歩より短かくしてかつ少なく、初めは腰を蔽ひ、漸くにして膝、漸くにして脛、漸くにして踵、漸くにして全く尽き、ただ所々に虎杖(いたどり)の霜に色づきて哀れげに頭を垂れおるを見るのみ、草の全く尽くる処に一合目あれど今は撤去してただ窟墟を存するあり、一合目を過ぐれば則ち広漠たる砂原なり、砂は少しく黒色を帯び、石炭の焼屑に異ならず、珊々(さんさん)としてこれを踏み、奄々(えんえん)たる呼吸を忍んで登ること二十余町、漸く二合目に達す


YM-041

資料番号  YM-04-1
資料名 富士山の積雪
年代

 1895年(明治28年) 10月8日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
   

YM-05

資料番号  YM-05
資料名

富士登山記(五)

富士山頂剣ヶ峯に於て

      特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月10日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

二合目の眺望 金剛杖を二合目の石室の前に立て、頭を揚げて峯上を望めば、雲や、霞や、濛々として峯の全面を覆ひ、迢々として南より北に過ぐ、顧みて過ぎ越し方を眺むれば身は既に人寰を抜くこと遠く、煙?縹渺(えんあいびょうびょう)の間湛山の淡々として淡墨もて書けるが如きあり、遠村の曖々として彼方此方に断続せるあり上を望み下を眺むれば心自恍として既に人間界の人にあらず

二合目の石室 室は山骨露出の地を選び、之を背にして屋を作り、囲むに累石を以てせり、遠く之を望めば隆然として蹉跌の如く、近く之に接すれば稜然として塁趾に似たり、室に窓なく僅かに一面を缺(か)きて門戸に充つ、室の広さ大凡五六畳敷、丸木の柱と古びたる板とを以て壁と為し、棟甚だ低くして往々頭を打つ、室は山麓一村民の所有にかゝり、夏日登山の季節には人之に棲まひ蒲筵(がまむしろ)を敷き、布団を具へて客の宿泊に充て、卵子、菓子、草鞋(わらんじ)の類を鬻(ひさ)ぎて客の休息に便にす、今や人去て数旬、黴は恣に長じて室の四面を蔽ひ、之に入れば湿臭鼻を襲う

期節外の登山 今回の登山は期節外の登山なることを記憶せざるべからず、登山期節とは夏日雪解くるの時にして毎年太陰暦六月一日を以て山開となし同七月二十七日を以て山仕舞と稱へ、其の間を以て登山期節となす本年の山仕舞は去る九月十三日に當れり、左れば同日を以て山頂の社司降り、室主降り、途中の各室亦た悉く之を閉づ、故に同日以後は湛山一の人影を留めざるなり、強力は語りて曰く、期節外には時に道者の足を運ぶ者あるのみ、之を外にしては強力と雖も登山する者あるなし、我等今期節外の登山を試むるの機を得たるは全く野中氏の恩恵なりと、余亦た期節外の登山を為し、世人の多く見ざる時の富士山を記するの機を得、是れ亦た野中氏の恩恵にあらずして何ぞ、

登山の始まり 伝え云ふ富士山頂に始めて足を運びたるは今を距(さ)る一千三百余年の昔、聖徳太子が登山したるに始まり爾後角行、食行等の諸法師登山して道を開き、遂に今日あるに至りたりと

冬は氷の山 野中氏語りて曰く、冬日厳寒の候に至れば一合目少し上部より満山悉く氷を以て覆わる、彼の遠く望めば皚々(がいがい)として白雪の如きもの皆な是れ氷なり、蓋し是れ積雪日光に触れて漸く溶けんとし忽ち寒風に触れて凍れるもの、積もり積もりて遂に堅氷鉄よりも堅きに至れるなり、先に余が曾て冬期登山を企てたる折の如き、或は靴底に釘を置きて無数の歯を設け、或は他に方法を案ずる等、種々苦心したれど遂に其の効なく、僅かに一策を案出し、下駄の裏に五分鑿(のみ)の如き釘を数多く打ち、釣鉄(つりがね)にすがりて千困万苦の中に辛うじて登山を遂げたるなりと、見るべし冬季の富嶽は一大堅氷を以て山を包囲し別に一地層を作るものなるを

 新字新仮名

二合目の眺望 金剛杖を二合目の石室の前に立て、頭を揚げて峯上を望めば、雲や、霞や、濛々(もうもう)として峯の全面を覆い、迢々(ちょうちょう)として南より北に過ぐ、顧みて過ぎ越し方を眺むれば身はすでに人寰(じんかん)を抜くこと遠く、煙?縹渺(えんあいひょうびょう)?の間湛山の淡々として淡墨もて書けるがごときあり、遠村の曖々(あいあい)として彼方此方(かなたこなた)に断続せるあり上を望み下を眺むれば心自(おのずから)恍としてすでに人間界の人にあらず

二合目の石室 室は山骨露出の地を選び、これを背にして屋(おく)を作り、囲むに累石をもってせり、遠くこれを望めば隆然として蹉跌のごとく、近くこれに接すれば稜然(りょうぜん)として塁趾(るいし)に似たり、室に窓なく僅かに一面を缺(か)きて門戸に充(あ)つ、室の広さ大凡(おおよそ)五、六畳敷、丸木の柱と古びたる板とをもって壁となし、棟はなはだ低くして往々頭を打つ、室は山麓一村民の所有にかかり、夏日登山の季節には人これに棲まい蒲筵(がまむしろ)を敷き、布団を具えて客の宿泊に充て、卵子、菓子、草鞋(わらんじ)の類を鬻(ひさ)ぎて客の休息に便にす、今や人去って数旬、黴(カビ)はほしいままに長じて室の四面を蔽ひ、これに入れば湿臭鼻を襲う

期節外の登山 今回の登山は期節外の登山なることを記憶せざるべからず、登山期節とは夏日雪解くるの時にして毎年太陰暦六月一日を以て山開(やまびらき)となし同七月二十七日をもって山仕舞(やまじまい)と称え、その間をもって登山期節となす、本年の山仕舞は去る九月十三日に当れり、されば同日をもって山頂の社司降り、室主降り、途中の各室またことごとくこれを閉ず、故に同日以後は湛山一の人影を留めざるなり、強力は語りていわく、期節外には時に道者の足を運ぶ者あるのみ、これを外にしては強力といえども登山する者あるなし、我等今期節外の登山を試むるの機を得たるは全く野中氏の恩恵なりと、余また期節外の登山をなし、世人の多く見ざる時の富士山を記するの機を得、これまた野中氏の恩恵にあらずして何ぞ、

登山の始まり 伝えいう富士山頂に始めて足を運びたるは今を距(さ)る一千三百余年の昔、聖徳太子が登山したるに始まり爾後(じご)角行(かくこう)、食行(しょくこう)等の諸法師登山して道を開き、遂に今日あるに至りたりと

冬は氷の山 野中氏語りていわく、冬日厳寒の候に至れば一合目少し上部より満山ことごとく氷をもって覆わる、彼の遠く望めば皚々(がいがい)として白雪のごときもの皆なこれ氷なり、けだしこれ積雪日光に触れて漸く溶けんとしたちまち寒風に触れて凍れるもの、積もり積もりてついに堅氷鉄よりも堅きに至れるなり、先に余がかつて冬期登山を企てたる折のごとき、あるいは靴底に釘を置きて無数の歯を設け、あるいは他に方法を案ずる等、種々苦心したれどついにその効なく、わずかに一策を案出し、下駄の裏に五分鑿(のみ)の如き釘を数多く打ち、釣鉄(つりがね)にすがりて千困万苦の中に辛うじて登山を遂げたるなりと、見るべし冬季の富嶽は一大堅氷をもって山を包囲し別に一地層を作るものなるを


YM-06

資料番号  YM-06
資料名

富士登山記(六)

富士山頂剣ヶ峯に於て

      特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月11日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

愈々苦境に入る 漸く二合目を後にして進めば路は益々峻にして一歩は一歩毎に呼吸迫り、一脚は一脚毎に苦痛を覚ゆ、アゝ余は今や身未だ戴に到らずして苦痛は既に殆んど絶頂に達せんとせり之を忍んで登ること数丁、呼吸奄々として苦益々苦を覚え、向う脛の痛を感ずること弥々甚だし、余は心密に思へらく既往の行程僅かに二合而かも既に苦痛を感ずること斯くの如くんば前途の八合を如何せんと、奮発一番勇を鼓して足を運び僅かに二合二尺目に達するを得たり、其の間屡々野中氏を顧みれば氏は悠々として憎き迄に平気なり余は大に其の健脚に感じ之を氏に告ぐ、氏曰く君未だ登山に慣れず、且つ登山の法を知らずと即ち余の為に大に登山の法を説く

登山法 野中氏は余の為に登山法を説て曰く足に力を入れず、静かに之を前に運び、足を地に着けるには先づ踵より初めて後ち爪先に及ぼすべしことに成るべく膝窩(ひかがみ)を屈せず徐々として調子好く前者の足跡を踏んで行くべしと、即ち其の言に従ふて進めば苦痛を感ずること甚だ薄し、是に於てか知る余が先に人の未だ苦痛を感ぜざるの時に當りて先既に甚だしく苦痛を覚えたるはあ一は余が平素腕車を用ひて歩行に慣れざるに依るべしと雖も一は登山法に習はず、元気に任せて最初に急ぎたるに依れる

二合二勺目の休息 満山の各室は既に悉く鎖されたれど二合二勺目のみは猶ほ開かれたり、蓋し是れ同室の主人己の用を鞭せんが為に止まりたるものにして将に明日を以て下山せんとするなり、一行の此に着するや時方に午前十一時、一同は携ふる所の行厨を開き中飯を喫す、余は飢えたるが如く飢えざるが如く喫せんと欲して腹之を許さず即ち携ふる所の鶏卵を啜る、野中氏及び強力は頻りに世に喫飯を勧めて曰く空腹なれば疲労を感ずること弥々甚だし已むなくんば一椀を喫せよと余は其の勧めに従ひ箸を取れり、左れど遂に一椀を喫し了る能はず、強力之を見て曰く凡そ山に健なる者は飯を喫すること弥々健に、山に弱き者は飯を喫すっること従って弱し、貴客今一椀の飯を喫し了る能はず、或は途にして倒るゝなからんかと、余は殊更に髀を打て勇を示す

忽ち雲中の人と為る 二合二勺目の石室を出で爛砂(らんしゃ)の草鞋(わらじ)を没する處、逶迤(いい)たる路に沿ふて進むこと数丁、未だ三合目に達せざるに身は既に白雲の間に入れり雲は雨を含み宝永山の麓より吹き上ぐる冷風に誘はれて飛び来れり、其の過ぐる處細雨蕭々(しょうしょう)として横さまに人の面を博つ、蓋し是れ亂雲(ニンボス)と称せる雨を含める単雲の一種なるべし、之を冒して進むと数丁、身は再び濛々たる密雲の間に入れり、此の雲は白毛の如き氷針より成る、一行之に触れて頭は忽ち白髪となり、眉鬚(まつげ)口髭亦た白きこと雪の如く恰も浦島太郎が玉手箱を開きて忽ち白髪の老翁と変じたるの感あり、漸々にして雲は弥々密に氷針の飛ぶと弥々繁く未だ半時ならざるに全身之に泥れて黒衣白く恰も羊の皮もて製したる毛衣を衣たるの思ひあり、足を止めて前者を望み後者を顧みれば朦朧としてそるが如く無きが如く、影の如く幻の如く忽ちにして遠く忽ちにして近く、たちまちにして現はれ忽ちにして隠る、是れ大気中の最高所に浮泳する巻雲と称する雲にして下界より望めば綿の重畳せるが如きものなるべし、余は常に下界より此の雲のたなびけるを望み、如何に其の高きかを思へり、然るに今は身は彼れに伍して手に彼を握みつゝあるなり、

 新字新仮名

いよいよ苦境に入る ようやく二合目を後にして進めば路は益々峻にして一歩は一歩毎に呼吸迫り、一脚は一脚毎に苦痛を覚ゆ、アゝ余は今や身未だ戴(いただき)に到らずして苦痛はすでにほとんど絶頂に達せんとせり、これを忍んで登ること数丁、呼吸奄々(えんえん)として苦益々苦を覚え、向う脛の痛みを感ずること弥々(いよいよ)はなはだし、余は心密に思えらく既往の行程僅かに二合しかもすでに苦痛を感ずることかくのごとくんば前途の八合をいかんせんと、奮発一番勇を鼓して足を運び僅かに二合二尺目に達するを得たり、その間しばしば野中氏を顧みれば氏は悠々として憎きまでに平気なり、余は大いにその健脚に感じこれを氏に告ぐ、氏いわく君未だ登山に慣れず、かつ登山の法を知らずとすなわち余のために大いに登山の法を説く

登山法 野中氏は余の為に登山法を説て曰く足に力を入れず、静かに之を前に運び、足を地に着けるには先づ踵より初めて後ち爪先に及ぼすべしことに成るべく膝窩?(ひざかがみ)を屈せず徐々として調子よく前者の足跡を踏んで行くべしと、すなわちその言に従うて進めば苦痛を感ずることはなはだ薄し、これにおいてか知る余が先に人の未だ苦痛を感ぜざるの時に当りてまずすでにはなはだしく苦痛を覚えたるは一は余が平素腕車(わんしゃ)を用いて歩行に慣れざるによるべしといえども一は登山法に習はず、元気に任せて最初に急ぎたるによれる

二合二勺目の休息 満山の各室はすでにことごとく鎖されたれど二合二勺目のみはなほ開かれたり、けだしこれ同室の主人おのれ用を便せんがために止まりたるものにしてまさに明日をもって下山せんとするなり、一行のここに着するや時まさに午前十一時、一同は携うる所の行厨(かっちゅう)を開き中飯を喫す、余は飢えたるがごとく飢えざるがごとく喫せんと欲して腹これを許さずすなわち携うる所の鶏卵を啜(すす)る、野中氏及び強力はしきりに世に喫飯を勧めていわく空腹なれば疲労を感ずることいよいよはなはだしやむなくんば一椀を喫せよと余はその勧めに従い箸を取れり、さされどついに一椀を喫し終るあたわず、強力これを見ていわく、およそ山に健なる者は飯を喫することいよいよ健に、山に弱き者は飯を喫すること従って弱し、貴客今一椀の飯を喫し終るあたわず、あるいは途にして倒るるなからんかと、余は殊更に髀(ひ)を打って勇を示す

たちまち雲中の人となる 二合二勺目の石室を出で爛砂(らんしゃ)の草鞋(わらじ)を没する処、逶迤(いい)?たる路に沿うて進むこと数丁、未だ三合目に達せざるに身はすでに白雲の間に入れり雲は雨を含み宝永山の麓より吹き上ぐる冷風に誘われて飛び来たれり、その過ぐる処細雨蕭々(しょうしょう)として横さまに人の面を博つ、けだしこれ亂雲(ニンボス)と称せる雨を含める単雲の一種なるべし、これを冒して進むこと数丁、身は再び濛々(もうもう)たる密雲(みつうん)の間に入れり、この雲は白毛のごとき氷針より成る、一行これに触れて頭はたちまち白髪となり、眉鬚(まつげ)口髭また白きこと雪のごとくあたかも浦島太郎が玉手箱を開きてたちまち白髪の老翁と変じたるの感あり、漸々(ぜんぜん)にして雲はいよいよ密に氷針の飛ぶこといよいよ繁く未だ半時ならざるに全身これに泥れて黒衣白くあたかも羊の皮もて製したる毛衣を衣たるの思いあり、足を止めて前者を望み後者を顧みれば朦朧としてあるがごとくなきがごとく、影のごとく幻のごとくたちまちにして遠くたちまちにして近く、たちまちにして現われたちまちにして隠る、これ大気中の最高所に浮泳する巻雲と称する雲にして下界より望めば綿の重畳せるがごときものなるべし、余は常に下界よりこの雲のたなびけるを望み、いかにその高きかを思えり、しかるに今は身はかれに伍して手にかれを握みつつあるなり、


YM-07

資料番号  YM-07
資料名

富士登山記(七)

富士山頂剣ヶ峯に於て

      特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月12日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

寒中の冷気 瀧河原に於て既に冷気の平地よりも加はれるを覚え、進んで馬返、太郎坊を過ぐるに及び一合は一合毎に増々冷気の加はるを覚えり而して今や身の漸く巻雲の間に進むる従ひ、冷気は寧ろ進一層寒気と為り、凛々として氷よりも冷ややかなる風は顔の左面を掠めて過ぎ、為めに左の頬と左の耳とは剃刀もて殺がれたるが如く、我れと我が鼻の猶を存するや否やを疑ふ、左れど路の峻として坂の急なるが為に背は猶ほ汗の涔々(しんしん)として流るゝあり

雲上の人と為る 手を披けば雲掌に集まり、足を揚ぐれば雲足に纏ふ白雲の間を兀々として進み、漸く三合目を過ぎ、四合目を過ぎ、五合目を過ぎ、六合目を過ぐる頃雲は既に盡きたり、見上げれば上峯数条に分れて??を現はし、宝永山の嶺に懸れる太陽は軟かなる光を放て峯の半面を照らせり、顧みれば身は既に白雲より高きこと数十尺雲は迢々として脚底数尋の間を過ぎ、大江の洋々として東に決するが如く、白波の澎湃(ほうはい)として岸を洗ふが如く、?々として聲あるに似たり、

富士の幽霊

眼下の眺望 唯一枝の金剛杖を便りに、甚たく疲れたる足を運ぶこと数丁、坂の弥や急ならざる處を撰んで休息す、見渡せば鞋底より起れる白雲は漠々として遠く天の一角に連なり、雲慢(うんまん)の缼くる處遠駿の野歴々として指顧(しこ)の間に在り、野中氏は余の為に説明して曰く遥か前面に當りて百反の布を引きたるが如きは駿河湾なり、其の間銀針の地に委したるが如きは富士川なり、青糸の白衣を縁とれるが如きは・・・

寶丹は禁物 僅に二合の行程を終えて既に弱りたる余は野中氏の指教(しきょう)を得て苦痛の幾分を殺ぎ得たり、左れど身の疲労は増々募りて坂路は弥々急なり、五勺に一息、一合に一休、僅かに苦しき胸を忍びて進めど苦痛は一歩は一歩毎に加はり、僅か十六丁より二十四五丁の間なる石室の遠きこと二三里を隔つるの思いあり、余は苦しさの餘り、革鞄の中より寶丹を取り出し之を服して僅かに口の喘ぐを凌ぎ、気の衰へたるを振るふ、野中氏之を見、制して曰く君寶丹を用ゆる勿れ、寶丹は此の山の禁物なり蓋し寶丹を用ゆるものは頭痛を覚ゆると弥々烈しければなりと、余は首肯して其の厚意を謝せり、左れど苦痛の募り来る毎に心密に思へらく、頭痛のしんしんたるは尚ほ忍ぶべし、此の苦痛は忍ぶべからずと、密かに野中氏の目を盗んで之を服し以て一時の急を救ふ漸くにして一行は八合目に達したり、アア今回の登山の佳境は実は八合目以上にあるなり

新字新仮名

寒中の冷気 滝河原においてすでに冷気の平地よりも加われるを覚え、進んで馬返、太郎坊を過ぐるに及び一合は一合毎に増々冷気の加わるを覚えり、しこうして今や身の漸く巻雲の間に進むる従ひ、冷気はむしろ進?一層寒気となり、凛々(りんりん)として氷よりも冷ややかなる風は顔の左面をかすめて過ぎ、ために左の頬と左の耳とは剃刀もて殺がれたるがごとく、我れと我が鼻の猶?を存するや否やを疑ふ、されど路の峻として坂の急なるがために背はなお汗の涔々(しんしん)として流るるあり

雲上の人となる 手を披けば雲掌に集まり、足を揚ぐれば雲足に纏ふ白雲の間を兀々として進み、漸く三合目を過ぎ、四合目を過ぎ、五合目を過ぎ、六合目を過ぐる頃雲はすでに尽きたり、見上げれば上峯数条に分れて??を現はし、宝永山の嶺に懸れる太陽は軟かなる光を放て峯の半面を照らせり、顧みれば身は既に白雲より高きこと数十尺雲は迢々として脚底数尋の間を過ぎ、大江の洋々として東に決するが如く、白波の澎湃(ほうはい)として岸を洗ふが如く、?々として聲あるに似たり、

富士の幽霊

眼下の眺望 唯一枝の金剛杖を便りに、はなはだしく疲れたる足を運ぶこと数丁、坂のやや急ならざる処を選んで休息す、見渡せば鞋底(あいてい)より起れる白雲は漠々として遠く天の一角に連なり、雲慢(うんまん)の缼くる処遠駿の野歴々として指顧(しこ)の間にあり、野中氏は余のために説明していわく遥か前面に当りて百反の布を引きたるがごときは駿河湾なり、その間銀針の地に委したるがごときは富士川なり、青糸の白衣を縁とれるがごときは・・・

寶丹は禁物 わずかに二合の行程を終えてすでに弱りたる余は野中氏の指教(しきょう)を得て苦痛の幾分を殺ぎ得たり、されど身の疲労は増々募りて坂路はやや急なり、五勺に一息、一合に一休、僅かに苦しき胸を忍びて進めど苦痛は一歩は一歩毎に加わり、わずか十六丁より二十四、五丁の間なる石室の遠きこと二三里を隔つるの思いあり、余は苦しさの余り、革鞄の中より宝丹を取り出しこれを服して僅かに口の喘(あえ)ぐを凌ぎ、気の衰えたるを振るう、野中氏これを見、制していわく君宝丹を用ゆるなかれ、宝丹はこの山の禁物なり、けだし宝丹を用ゆるものは頭痛を覚ゆることいよいよ烈しければなりと、余は首肯(しゅこう)してその厚意を謝せり、されど苦痛の募り来たる毎に心密に思えらく、頭痛のしんしんたるはなお忍ぶべし、この苦痛は忍ぶべからずと、密かに野中氏の目を盗んでこれを服しもって一時の急を救うようやくにして一行は八合目に達したり、アア今回の登山の佳境は実は八合目以上にあるなり


OM-17

資料番号  OM-17
資料名

富士登山記(八)

富士山頂剣の峯に於て 特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月13日

新聞社

報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供 
旧字旧仮名

千秋の雪  八合目に達せざること数丁、谾豅の間と云う程にはあらざるも地の少しく凹みたる所、燦爛(さんらん)として銀砂の如きもの数十項の地を蔽ふあり、蓋し是れ去年の雪、十年前の雪、百年前の雪、否な寧ろ千年前の雪にして、千秋の雪なり、遠く望めば白雲の如く、近く接すれば綿の如し、知らず是れ雪の神の長へに宿り玉ふの地にあらざるや否や

胸突八町 踏む所の地層初は濱の真砂の如く、次には山の荒砂の如く、次には豌豆の如く、次には桃の實の如く、次には炭屑の如く、次には石炭の如く微より細に細より粗に一合毎に愈々大を加ふる砂礫の間を辿り、漸く八合目に至れば凡て是れ稜々たる岩石にして、其の間怪岩奇石磊々(らいらい)として横たわり、石の梢や小なる所是れ即ち路なり、之に加ふるに坂は愈々急にして斜形を保つこと四十五度以上と覚ぼしく、上部の如き胸突八町の名あり、蓋し是れ坂の急なるが為めに直立すれば地胸を着けばなり

八合目以上の困難  八合目より頂上に至る間の困難に至ては殆んど筆にも口にも盡し難きものあり 日は既に神嶺の背後に没して其裾に洩残されたる残んの流蘇は僅に紫の光を天の一方に止むるの時、岩に攀ぢ石に縋り、稜石累々たる急坂を登る、其困難云ふべからず、剰へ口渇すれども飲むに一掬の水なく、腹飢ゆれども食のふに一椀の飯なし、今は力衰へ気阻み殆んど足を運ぶの勇気なし余は心密に幾度か繰返へせり、我れは元と是れ薩南の健児、曾て高千穂の峯に攀ぢて天の逆鉾に力の強弱を試めし、叉た曾て山紫水明の京都に遊びて愛宕の山を越え、鞍馬の山を跋渉し、四明の雲を踏みて都人誌士のおう弱事に耐へざるを嘲りたり、今や縦令(たとへ)多年都門に流宮し、山川の跋渉(ばっしょう)に慣れずと雖も、疲労斯くの如くんば是れ實に一生の恥辱なり、薩摩男子の体面を汚すものなり、能く頂上に達するを得ば足朽つるも可なり、身斃るゝも怨む處にあらずと、大に勇を鼓し、行々医師の如き餅を噛りて進む、顧みれば疲労余の如きもの強力に両三名あり、蓋し彼等は健強野猪の如き者なりと雖も背に数貫目の重荷を負い居ればなり、仰で野中氏を見れば差して苦しき体なし、余は大に其の健脚に感じ、之を氏に問ふ、氏曰く我れも同じく人間なり、何ぞ苦しからざらん、唯だ君等に比して多少の熟練を得たるのみと、時に一強力は余を慰めて曰く、都門遠来の客にして此の山に登る者皆な途中の石室に一泊し、日を重ねて頂上に達するなり、今や貴客都門より来たり、歩行に慣れざる身にして一日に頂上に達せんとす、其の困苦思ふべきなり、且つ登山の季節には途中の各室開け、茶あり鶏卵あるが故に行々之に息ふて以て進めば亦た大に元気を保つに足れりと雖も、今や時非にして之れあるなし、貴客幸いに静かに進め、日暮るゝも亦た憂ふる所にあらずと、余は其の厚意を謝し、徐々として進む

柱の如き氷筆 奇躯たる岩石の間を辿ると三十余丁、未だ頂上に達せざるに日は既に全く暮れ、煙の如き紫の雲は靉靆(あいたい)として上峯より襲ひ来る、漸くにして頂上を去ること数歩、右の方成就ヶ岳の南崖に當り、暮色い依稀たる處、閃々として百軍の刀を抜いて待つが如きものあり、余は一見富士の山神が百鬼に命じて抜刀以て山門を守らしむるにあらざるかを疑ふ、漸く之に就けば是れ断崖の間より垂下せる氷筆にして其の大きさ恰も柱の如し

暴風雨襲い来る  恰も一行の頂上に達するや墨を流したるが如き黒雲は天の一方に起る、見る間に黒風白雨驟然(しゅうぜん)として襲ひ来る、其の過ぐる所天鳴り石飛び、人も亦た掠め去らんとす、一行は走せて之を岩石の間に避く

新字新仮名

千秋の雪  八合目に達せざること数丁、谾豅(こうろう)の間という程にはあらざるも地の少しく凹みたる所、燦爛(さんらん)として銀砂のごときもの数十項の地をおおうあり、けだしこれ去年の雪、十年前の雪、百年前の雪、否なむしろ千年前の雪にして、千秋の雪なり、遠く望めば白雲のごとく、近く接すれば綿のごとし、知らずこれ雪の神の長(とこしな)えに宿りたまうの地にあらざるや否や

胸突八町(むなつきはっちょう) 踏む所の地層初めは浜の真砂のごとく、次には山の荒砂のごとく、次には豌豆(えんどう)のごとく、次には桃の実のごとく、次には炭屑のごとく、次には石炭のごとく微より細に細より粗に一合毎にいよいよ大を加うる砂礫(しゃれき)の間をたどり、漸く八合目に至ればすべてこれ稜々たる岩石にして、その間怪岩奇石磊々(らいらい)として横たわり、石のやや小なる所これ即ち路なり、これに加うるに坂はいよいよ急にして斜形を保つこと四十五度以上と覚(お)ぼしく、上部のごとき胸突八町の名あり、けだしこれ坂の急なるがために直立すれば地胸を着けばなり
八合目以上の困難  八合目より頂上に至る間の困難に至っては殆んど筆にも口にも尽くし難きものあり、日はすでに神嶺の背後に没してその裾(すそ)に洩残(もれのこ)されたる残(のこ)んの流蘇(ふさ)は僅に紫の光を天の一方に止むるの時、岩によじ石にすがり、稜石累々たる急坂を登る、その困難いうべからず、あまつさへ口渇すれども飲むに一掬(きく)の水なく、腹飢ゆれども食のうに一椀の飯なし、今は力衰へ気阻みほとんど足を運ぶの勇気なし、余は心密に幾度か繰返えせり、われは元とこれ薩南の健児、かつて高千穂の峯によじて天の逆鉾に力の強弱を試めし、叉かつて山紫水明の京都に遊びて愛宕の山を越え、鞍馬の山を跋渉し、四明の雲を踏みて都人誌士のおう弱事に耐へざるを嘲りたり、今や縦令(たとへ)多年都門に流宮し、山川の跋渉(ばっしょう)に慣れずといえども、疲労かくのごとくんばこれ実に一生の恥辱なり、薩摩男子の体面を汚すものなり、能く頂上に達するを得ば足朽つるも可なり、身たおるるも怨む処にあらずと、大いに勇を鼓し、行々医師のごとき餅をかじりて進む、顧みれば疲労余のごときもの強力に両三名あり、けだし彼等は健強野猪のごとき者なりといえども背に数貫目の重荷を負いおればなり、あおいで野中氏を見ればさして苦しき体なし、余は大いにその健脚に感じ、これを氏に問う、氏いわくわれも同じく人間なり、何ぞ苦しからざらん、ただ君等に比して多少の熟練を得たるのみと、時に一強力は余を慰めていわく、都門遠来の客にしてこの山に登る者皆な途中の石室に一泊し、日を重ねて頂上に達するなり、今や貴客都門より来たり、歩行に慣れざる身にして一日に頂上に達せんとす、その困苦思うべきなり、かつ登山の季節には途中の各室開け、茶あり鶏卵あるがゆえにゆくゆくこれにいこうてもって進めばまた大いに元気を保つに足れりといえども、今や時非にしてこれあるなし、貴客幸いに静かに進め、日暮るるもまた憂うる所にあらずと、余はその厚意を謝し、徐々として進む 

柱のごとき氷筆 奇躯たる岩石の間をたどること三十余丁、未だ頂上に達せざるに日はすでに全く暮れ、煙のごとき紫の雲は靉靆(あいたい)として上峯より襲い来たる、漸くにして頂上を去ること数歩、右の方成就ヶ岳の南崖に当たり、暮色依稀たる処、閃々として百軍の刀を抜いて待つがごときものあり、余は一見富士の山神が百鬼に命じて抜刀もって山門を守らしむるにあらざるかを疑ふ、漸くこれに就けばこれ断崖の間より垂下せる氷筆にしてその大きさあたかも柱のごとし 

暴風雨襲い来る あたかも一行の頂上に達するや墨を流したるがごとき黒雲は天の一方に起る、見る間に黒風白雨驟然(しゅうぜん)として襲ひ来たる、その過ぐる所天鳴り石飛び、人もまた掠(かす)め去らんとす、一行は走(わ)せてこれを岩石の間に避(さ)く


YM-08

資料番号

 YM-08
資料名

富士登山記(九)

富士山頂剣ヶ峯に於て

      特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月16日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

暴風を冒して馬背の嶮を渡る 今や天は弥々暗く風は益々烈げし、一刻を猶予しなば一行の運命は亦た知るべからざるものあり、走せて之を石室の内に避けんか頂上の石室は悉く之を鎖して開くべからず、此の一刹那唯だ一の血路は速やかに野中氏の新宅に向ふにあり、新宅は剣ケ峯の絶頂にして此処を去ること六七丁、其の間馬背の嶮を渡らざるべからず、馬背とは頂上本宮の前より剣ケ峯に至る間の鞍部なる峻路にして、其の形恰も馬背の如く、一方は急斜千里鞋底より直に下人寰に連なり、一方は石壁直下遠く噴火口の底に入る、其の間路甚だ狭くして田壟(でんろう)も啻(ただ)ならず、若し夫れ一歩を誤らば身は直ちに奈落の底に落つべく、天晴れ風眠るの時と雖も之を渡るは其の危険云ふべからず、況や石飛び砂飛ぶ暴風を冒して此の嶮を越えんとするをや、其の危険實に地獄の釜に架せる線香の橋を渡るよりも甚だしきものあるなり、一行奮発一、番大に其の準備を整へ、互いに相戒め、互いに相援け以て馬背に向ふ、漸く其の嶮に達するや、或は盲人の如く前者の金剛杖に縋りて進あり、或は忍者の如く匍匐するあり、又或は蟹の如く横行するもあり、今や恰も其の中間に来れる頃、一強力の草帽(そうぼう)暴風の掠むる所となり、恰も空に翔ける鷹隼(ようしゅん)の如く習々(しゅうしゅう)然響を為して中点に飛び、其の落つる所を知らず漸くにして一行は恙なく此の嶮を渡り終りぬ

剣ケ峯 馬背の嶮を越ゆれば是れ即ち剣ケ峯なり、剣ケ峯とは富士山頂八峯の一にして、頂上を抜くこと四百尺、其の高さ八峯に冠たり、全峯総て是れ稜々たる巌石にして、鑿もて穿てるが如きあり、刀もて削れるが如きあり、其の形恰も剣を立てたるが如し

野中氏の宅に着す 剣ヶ峯の山腹、胆を冷やすべき懸崖数ヶ所を越え、岩に攀ぢ石に縋がりて進めば漸くにして峯盡くる處一の石室あり、是れなん野中氏が一命を賭して空前絶後の越年を試むべき其の居宅なり、宅は後に岩を負ひ、其の外部を囲むに累石(るいせき)を以てす、一行此に着して恰も万死の嶮路より免れて自宅に帰りたるが如き思ひあり、倉庫扉を排して中に入れば野中氏既に燈を点じ火を燃やし、其の傍に盆座して待つあり。蓋し氏は頂上より一行に先だって剣が峰に攀ぢたればなり、

愈々山に酔ふ 余等の初め瀧河原を発するや、人皆な注意して曰く、山に酔ふ勿れと、蓋し初めて登る者、多くは昏々として舟に酔ふたるが如く、従って頭痛の涔々として襲ひ来るあればなり、余や一合二合にして少しも之を感せず、六合七合に至るに及びて、一合は一合毎に漸く頭痛を加へ、方に野中氏の宅に着したる頃には頭腦岑々(しんしん)として重きこと石の如し、アゝ余も亦た今は正しく山に酔ひたるなり、

大混雑 一行凡て十三人、今は悉く着して一人を余すなし、野中氏曰く君等速に草鞋を解き、暖炉の畔を囲めよと、暖炉は直径一尺高さ二尺余の鉄管の類にして其中に炭を燃やし、一は以て暖を取り、一は以て飯を炊き、汁を煮、又た湯を沸かすなり、其の周囲僅かに二畳敷、如何に身体を縮むるも未だ以て十三人を容るるに足らず、是に於てかあるいは荷物を他へ運びて席を広むるあり、或は土間に筵を敷きて席を設るあり、其の混雑云べからず

 新字新仮名

暴風を冒して馬背の嶮を渡る 今や天はやや暗く風はますます烈げし、一刻を猶予しなば一行の運命はまた知るべからざるものあり、はせてこれを石室の内に避けんか頂上の石室はことごとくこれを鎖(とざ)して開くべからず、この一刹那ただ一の血路は速やかに野中氏の新宅に向かうにあり、新宅は剣ケ峯の絶頂にしてここを去ること六、七丁、その間馬背の嶮を渡らざるべからず、馬背とは頂上本宮の前より剣ケ峯に至る間の鞍部なる峻路にして、その形あたかも馬背のごとく、一方は急斜千里鞋底(あてい)より直(ただち)に下人寰(じんかん)に連なり、一方は石壁直下遠く噴火口の底に入る、その間路はなはだ狭くして田壟(でんろう)も啻(ただ)ならず、もしそれ一歩を誤らば身は直ちに奈落の底に落つべく、天晴れ風眠るの時といえどもこれを渡るはその危険いうべからず、いわんや石飛び砂飛ぶ暴風を冒してこの嶮を越えんとするをや、その危険実に地獄の釜に架(わた)せる線香の橋を渡るよりもはなはだしきものあるなり、一行奮発一、番大いにその準備を整へ、互いに相戒め、互いに相援(たす)け、もって馬背に向う、ようやくその嶮に達するや、あるいは盲人のごとく前者の金剛杖に縋(すが)りて進あり、あるいは忍者のごとく匍匐(ほふく)するあり、又あるいは蟹のごとく横行するもあり、今やあたかもその中間に来れる頃、一強力の草帽(そうぼう)暴風の掠むる所となり、あたかも空に翔ける鷹隼(ようしゅん)のごとく習々(しゅうしゅう)然響をなして中点に飛び、その落つる所を知らずようやくにして一行はつつがなくこの嶮を渡り終りぬ

剣ケ峯 馬背の嶮を越ゆればこれすなわち剣ケ峯なり、剣ケ峯とは富士山頂八峯の一にして、頂上を抜くこと四百尺、その高さ八峯に冠たり、全峯総てこれ稜々たる岩石にして、鑿(のみ)もて穿てるがごときあり、刀もて削れるがごときあり、その形あたかも剣を立てたるがごとし、

野中氏の宅に着す 剣ヶ峯の山腹、胆を冷やすべき懸崖(けんがい)数ヶ所を越え、岩に攀ぢ石に縋がりて進めば漸くにして峯尽くる処一の石室あり、これなん野中氏が一命を賭して空前絶後の越年を試むべきその居宅なり、宅は後に岩を負ひ、その外部を囲むに累石(るいせき)をもってす、一行ここに着してあたかも万死の嶮路より免れて自宅に帰りたるがごとき思いあり、倉庫扉を排して中に入れば野中氏すでに灯を点じ火を燃やし、その傍に盆座して待つあり。蓋し氏は頂上より一行に先だって剣が峰に攀ぢたればなり、いよいよ山に酔ふ 余等の初め滝河原を発するや、人皆な注意していわく、山に酔うなかれと、けだし初めて登る者、多くは昏々(こんこん)として舟に酔ふたるがごとく、従って頭痛の涔々(しんしん)として襲い来るあればなり、余や一合二合にして少しもこれを感せず、六合七合に至るに及びて、一合は一合毎にようやく頭痛を加え、方(まさ)に野中氏の宅に着したる頃には頭脳岑々(しんしん)として重きこと石のごとし、アア余もまた今は正しく山に酔いたるなり、

大混雑 一行凡(すべ)て十三人、今はことごとく着して一人を余すなし、野中氏いわく君等速に草鞋を解き、暖炉の畔を囲めよと、暖炉は直径一尺高さ二尺余の鉄管の類にしてその中に炭を燃やし、一はもって暖を取り、一はもって飯を炊き、汁を煮、又た湯を沸かすなり、その周囲僅かに二畳敷、いかに身体を縮むるも未(いま)だもって十三人を容るるに足らず、これにおいてかあるいは荷物を他へ運びて席を広むるあり、あるいは土間に筵を敷きて席を設るあり、その混雑いうべからず


YM-081

資料番号  YM-08‐1
資料名 野中氏登山後の富士山
年代

 1895年(明治28年) 10月16日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

沼津測候所より静岡県庁への報告に依れば、曩(さき)に野中氏富士山越年を企てしより、頗る世人の注意する處となりしが、其山態雲状の如何は同氏目下の境遇を知るに足るを以て、沼津より観望して少しく異常を認めたるときは一々之を記録し置く事とせり、而して山頂に在りて観測上最も不便を感ずるは、時辰の比較なるを以て回光器によりて毎日三回時刻を報告せり、本月三日以後の状況を掲ぐれば、三日朝富士山頂に微雪あるを見たり、之を本年の初雪とす、昨年より遅きこと十一日なり、五日沼津は前日来冷気を催し夜間雷鳴ありしが、朝に至り大雪宝永山下に達せるを見たり、九日は終日笠雲出で風力強きものの如く、雪は殆ど全く融解して剣ケ峯の邊に僅に微雪を存するのみなりしと

 新字新仮名 沼津測候所より静岡県庁への報告に依れば、さきに野中氏富士山越年を企てしより、すこぶる世人の注意する処となりしが、その山態雲状のいかんは同氏目下の境遇を知るに足るをもって、沼津より観望して少しく異常を認めたるときは一々これを記録し置く事とせり、しこうして山頂にありて観測上最も不便を感ずるは、時辰(じしん)の比較なるをもって回光器によりて毎日三回時刻を報告せり、本月三日以後の状況を掲ぐれば、三日朝富士山頂に微雪あるを見たり、これを本年の初雪とす、昨年より遅きこと十一日なり、五日沼津は前日来冷気を催し夜間雷鳴ありしが、朝に至り大雪宝永山下に達せるを見たり、九日は終日笠雲出で風力強きもののごとく、雪はほとんど全く融解して剣ケ峯の辺にわずかに微雪を存するのみなりしと

OM-18

資料番号  OM-18
資料名

富士登山記(十)

富士山頂剣ケ峯に於て 特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月17日

新聞社

報知新聞

元データ  国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供
旧字旧仮名

野中氏の越年室  外より之を望めば石室の如く内に入れば恰も浴室に入りたるが如き心地す、其坪数総て六坪、之を分ちて三となし、其の北なるものを機械室に充て、其の南なる者を居間となし、中間の一は半ば薪炭を積み、半ば土壁に用ゆ、土壁とは板を以て界となしその間に土を充てたるものにして其厚さ三尺、居間の暖気の機械室に通じ、機械室の寒暖計をして山頂の真温度を誤らしめんことを恐れ、之を設けて予防したるなり、

居室  四畳敷の居間既に広しと云ふべからず、如之も其の奥なる一畳敷は中間に棚を設け、棚の上を寝台に充て、下を物置と為せり、而して亦た其の入口なる一畳敷は土間の儘にて之を存し、水桶、醬油樽の類を此に置けり、左れば残れるは僅かに二畳敷に過ぎず、其二畳敷は畳なく、唯だ板の間に筵を敷けるのみ、是れ野中氏が爾後八カ月の間、飲み、食い、且つ種々の用事を辯ずべき居室にして、其の中間に暖炉を据え、傍に風力計電気盤を置けり、風力計電気盤とは屋上に在る風車の回転するに従ひ、電気の力に依りて其の風の速力を現はすものにして其形枕時計に似たり、土間の上に窓あり、幅一尺、高二尺五寸餘、硝子と板とを以て二重の戸を設け、明りを取るの用に充つ、

山頂の無礼講 一行十三人、僅か二畳敷の間に暖炉を囲んで座す、其の形恰も樽に沢庵を詰めたるが如く、身動きも出来ず、後漸く更深くるや、踞したるまま眠に就くあり、他の膝を枕とするあり、或は足を他の腹に上げ、頭を他の股間に挟み体躯狼藉譬ふるに物なし、其の間強力なく大工なく、大学生なく新聞記者なく、亦た熱心と剛胆とを以て充たされたる富士越年者なし、嗚呼是れ眞に山頂の無礼講 

山頂の寒気 途中にては寒気如何に甚だしと雖も身体の常に動き居るが為に体温まり、差して厳しとも思はざりしが扨て身を一室の中に安んずるに及びては寒気四面より襲ひ来り凛として骨に砭(いしばり)す、一行或は毛布に包まり、或は褞袍 (どてら) を纏ひ、炎々として赤きこと丹の如き暖炉を囲みて僅に之を凌げり余は野中氏と共に熊皮の上に座し、冬洋服の上に外套を着け、其上に褞袍(どてら)を纏ひ、猶ほ其上を毛布もて包み、暖炉に㩀 (よ) り蹲踞(そんきょ)したるまま眠りに就けり

第一着の山頂測候 時恰も午前零時、野中氏は木筆と手帳を取て起ち、機械室に入る、是れ氏が山頂に於ける第一着の測候なり、氏は帰り来り報じて曰く、温度は摂氏一度七分、最高温度四度七分、最低温度一度五分、気圧は四八五ミリメートル十〇、風は南西の風、速力八四六ミリメートル二八 、

 新字新仮名

野中氏の越年室  外よりこれを望めば石室のごとく、内に入ればあたかも浴室に入りたるがごとき心地す、その坪数総て六坪、これを分ちて三となし、その北なるものを機械室に充て、その南なるものを居間となし、中間の一は半ば薪炭を積み、半ば土壁に用ゆ、土壁とは板をもって界となしその間に土を充てたるものにしてその厚さ三尺、居間の暖気の機械室に通じ、機械室の寒暖計をして山頂の真温度を誤らしめんことを恐れ、これを設けて予防したるなり、

居室  四畳敷の居間すでに広しというべからず、しかもその奥なる一畳敷は中間に棚を設け、棚の上を寝台に充て、下を物置となせり、しこうしてまたその入口なる一畳敷は土間のままにてこれを存し、水桶、醬油樽の類をここに置けり、されば残れるはわずかに二畳敷に過ぎず、その二畳敷は畳なく、ただ板の間に筵を敷けるのみ、これ野中氏が爾後(じご)八カ月の間、飲み、食い、かつ種々の用事を弁ずべき居室にして、その中間に暖炉を据え、傍に風力計電気盤を置けり、風力計電気盤とは屋上にある風車の回転するに従ひ、電気の力によりてその風の速力を現わすものにしてその形枕時計に似たり、土間の上に窓あり、幅一尺、高二尺五寸余り、硝子と板とをもって二重の戸を設け、明りを取るの用に充つ、

山頂の無礼講 一行十三人、僅か二畳敷の間に暖炉を囲んで座す、その形あたかも樽に沢庵を詰めたるがごとく、身動きもできず、後漸く更深くるや、踞したるまま眠に就くあり、他の膝を枕とするあり、あるいは足を他の腹に上げ、頭を他の股間に挟み体躯狼藉たとうるに物なし、その間強力なく大工なく、大学生なく新聞記者なく、また熱心と剛胆とをもって充たされたる富士越年者なし、嗚呼これ真に山頂の無礼講

山頂の寒気 途中にては寒気いかにはなはだしといえども身体の常に動きいるがために体温まり、さして厳しとも思はざりしが、さて身を一室の中に安んずるに及びては寒気四面より襲い来たり凛として骨に砭(いしばり)す、一行あるいは毛布に包まり、あるいは褞袍 (どてら) を纏い、炎々として赤きこと丹の如き暖炉を囲みてわずかにこれをしのげり、余は野中氏と共に熊皮の上に座し、冬洋服の上に外套を着け、その上に褞袍(どてら)を纏ひ、なほその上を毛布もて包み、暖炉に㩀 (よ) り蹲踞(そんきょ)したるまま眠りに就けり

第一着の山頂測候 時あたかも午前零時、野中氏は木筆と手帳を取て起ち、機械室に入る、これ氏が山頂における第一着の測候なり、氏は帰り来たり報じていわく、温度は摂氏一度七分、最高温度四度七分、最低温度一度五分、気圧は四八五ミリメートル十〇、風は南西の風、速力八四六ミリメートル二八 、


OM-19

資料番号  OM-19
資料名

野中千代子の登山

年代

 1895年(明治28年)10月19日

新聞社

報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供 
 旧字旧仮名

野中千代子の登山

予て郷里福岡へ帰省中なりし野中千代子は、去る九日の夕、母堂に送られて御殿場に着し、翌日瀧河原に向ひ、此にて至氏の弟清氏が東京より着するを待ち、愈々十二日午前六時同行者清氏外四名と共に瀧河原を発して登山の途に就けり、固より手弱き一婦人の身なれば、日の暮るゝは免かれ難かるべしとて提灯の準備など整へて出で立ちたるは思の外達者にて、八合目以上は少しく弱はりて強力に助けられたれど、午後六時頃には無事に頂上に達したり 若し翌日に至りて病むこともやあると気遣ひ居たるに、是れ亦た心配なく其壮健平日は異ならざりしとぞ、揃ひも揃ひし烈夫烈婦今や富士の絶頂に在り山神霊あらば幸に之を助けて、無事越年を遂げしめよ

 新字新仮名

野中千代子の登山

予て郷里福岡へ帰省中なりし野中千代子は、去る九日の夕、母堂に送られて御殿場に着し、翌日滝河原に向い、ここにて至氏の弟清氏が東京より着するを待ち、いよいよ十二日午前六時、同行者清氏外四名と共に滝河原を発して登山の途に就けり、もとより手弱き一婦人の身なれば、日の暮るるは免かれ難かるべしとて提灯の準備など整えて出で立ちたるは思いの外達者にて、八合目以上は少しく弱りて強力に助けられたれど、午後六時頃には無事に頂上に達したり もし翌日に至りて病むこともやあると気遣いいたるに、これまた心配なくその壮健平日は異ならざりしとぞ、揃いも揃いし烈夫烈婦、今や富士の絶頂にあり山神霊あらば幸にこれを助けて、無事越年を遂げしめよ


OM-20

資料番号  OM-20
資料名

富士登山記(十一)

富士山頂剣ケ峯に於て 特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年)10月19日

新聞社

報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供 
 旧字旧仮名

富士は総て氷塊  余之を野中氏に聞く、氏が初め剣ケ峯の絶頂に矩形に巌石の欠けたるを発見し之を相して越年室建築の地と為し、石工、健丁(けんてい)数名を雇ふて巌を堀り、之を広めて以て家を建てんとす、時に健丁つるはしを揮(ふる)ひ、こつこつとして岩石の間を掘ること三尺餘、憂然響を為して攻石錐(つるはし)を拒み其の堅さとは鉄の如し、石屑を払ふて之を験すれば何ぞ知らん是れ堅牢鉄の如き氷塊にして攻石錐の鋭、健丁の剛を以てするも亦た如何ともする能はざらんとは、世間富士に登る者、皆が其の石炭の燃え屑の如き岩石と土塊により成立せるを知る、然るに今は其の岩石の如きもの、土塊の如きもの、皆な是れ其の中心は氷塊にして、三国一の神嶺は夏日酷暑の時と雖も、その中心は全く是れ氷塊なりしなり、蓋し是れ冬日満山を包囲せる氷雪の夏期に向ふに従ひ、解けて地中に侵入し、地中に於て再び氷結せるもの終に解くるの機を得ずして存せるものなるべき乎

山頂の夜景  意地の悪き風、人を悩ます雨、アア此の二つさへなかりせば富士山頂更に月夜の景を恣 (ほしいまま) にするを得たらむに惜しい哉此の望は全く失せたること、左れど山頂の夜景を見ずして過ごすべきにあらず、余は雨の少しく已み風の少しく静かなる時を覗ひ、室内を出でゝ後の岩に攀ぢ、眦 (まなじり) を決して四方を望めば、遠近模糊として身は大洋に横たはれる島の一角に立つが如く、雲の迢々(ちょうちょう)として過ぐる處、男浪女波の風に誘われて寄せ来たるに似たり、折りしも雲膜少しく披きたる間より銀の如き月の面は忽然として天の一方に現はれ光輝迸 (ほとばし) りて岩間の氷柱を射る、氷柱は之に映じ燦爛として銀柱を垂れるが如し、左れど是れ唯だ一瞬間のみ、泉の湧くが如く、河の流るるが如く、次より次に峯の面を掠めて過ぐる雲は直に月を蔽ひ、初めは鏡の霞みたるが如く、次には銅の如く、遂に全く隠れて影を止めず、時に凛々たる稍寒(しょうかん)骨に砭(へん)し、今暫らくも佇み居なば身は氷の柱と変じ了(おわ)りなむ心地す、乃ち走せて再び室内に入れり

凄絶愴絶 余の室内に入るや、雹や雨や霏々として室の横面を打ち、風亦た漸く烈し、余は褞袍及び毛布を纏ひ、暖炉の傍に踞して暖を取る、既にして風は弥弥烈げしく、轟々響を為して室外を掠め其の室を飛ばし、岩を抜くにあらざるかを疑ふ、立つ窓を押せば窓外暗澹として咫尺(しせき)を弁ぜず、余曾て日向灘に暴風に逢ひ、千難万苦の中に僅に一命を拾ひ得たることあり、今や風の轟然(ごうぜん)として室外を掠むる處、一行の体を一室に縮むるの有様宛然(さながら)難破船中に在るが如し、余は野中氏に向ひて曰く凄絶愴絶斯くの如くんば君の勇と雖も遂に耐ゆる能はざらんと、氏笑て曰く、暴風暴雨今夜の如きは富士山頂の通常なるのみと、ああ余等は十数名一室に在るも猶ほ凄愴耐ゆべからざるものあり、野中氏は爾後二百五十余日の間、唯だ一人此の凄愴の中に座して気象の観測を試みんとす、其の剛胆、其の熱心實に驚くべきものあるなり

新字新仮名

富士は総て氷塊  余これを野中氏に聞く、氏が初め剣ケ峯の絶頂に矩形に岩石の欠けたるを発見しこれを相して越年室建築の地となし、石工、健丁(けんてい)数名を雇うて巌を堀り、これを広めてもって家を建てんとす、時に健丁(けんてい)攻石錐(つるはし)を揮(ふる)い、こつこつとして岩石の間を掘ること三尺余、憂然響をなして攻石錐を拒みその堅さとは鉄のごとし、石屑を払うてこれを験すれば何ぞ知らんこれ堅牢鉄のごとき氷塊にして攻石錐の鋭、健丁の剛をもってするもまたいかんともする能わざらんとは、世間富士に登る者、皆がその石炭の燃え屑のごとき岩石と土塊により成立せるを知る、しかるに今はその岩石のごときもの、土塊のごときもの、皆なこれその中心は氷塊にして、三国一の神嶺は夏日酷暑の時といえども、その中心は全くこれ氷塊なりしなり、けだしこれ冬日満山を包囲せる氷雪の夏期に向うに従い、解けて地中に侵入し、地中において再び氷結せるものついに解くるの機を得ずして存せるものなるべきか

山頂の夜景  意地の悪き風、人を悩ます雨、アアこの二つさえなかりせば富士山頂更に月夜の景を恣 (ほしいまま) にするを得たらんに惜しいかな、この望みは全く失せたること、されど山頂の夜景を見ずして過ごすべきにあらず、余は雨の少しくやみ風の少しく静かなる時を覗ひ、室内を出でて後の岩に攀ぢ、眦 (まなじり) を決して四方を望めば、遠近模糊として身は大洋に横たはれる島の一角に立つがごとく、雲の迢々(ちょうちょう)として過ぐるところ、男波女波(おなみめなみ)の風に誘われて寄せ来たるに似たり、折りしも雲膜(うんまく)少しく披(ひら)きたる間より銀のごとき月の面は忽然として天の一方に現われ、光輝迸 (ほとばし) りて岩間の氷柱を射る、氷柱はこれに映じ燦爛として銀柱を垂れるがごとし、左れどこれただ一瞬間のみ、泉の湧くがごとく、河の流るるがごとく、次より次に峯の面を掠めて過ぐる雲は直に月を蔽ひ、初めは鏡の霞みたるがごとく、次には銅のごとく、遂に全く隠れて影を止めず、時に凛々たる稍寒(しょうかん)骨に砭(へん)し、今暫らくもたたずみいなば身は氷の柱と変じおわりなむ心地す、すなわち走せて再び室内に入れり

凄絶愴絶 余の室内に入るや、雹(ひょう)や雨や霏々(ひひ)として室の横面を打ち、風また漸く烈し、余は褞袍(どてら)及び毛布を纏い、暖炉の傍に踞して暖を取る、すでにして風はいよいよ烈しく、轟々(ごうごう)響をなして室外を掠(かす)めその室を飛ばし、岩を抜くにあらざるかを疑う、立つ窓を押せば窓外暗澹として咫尺(しせき)を弁ぜず、余かつて日向灘に暴風に逢い、千難万苦の中にわずかに一命を拾い得たることあり、今や風の轟然(ごうぜん)として室外を掠むる処、一行の体を一室に縮むるの有様宛然(さながら)難破船中に在るが如し、余は野中氏に向いていわく凄絶愴絶かくのごとくんば君の勇といえども遂に耐ゆる能わざらんと、氏笑っていわく、暴風暴雨今夜のごときは富士山頂の通常なるのみと、ああ余等は十数名一室にあるもなお凄愴耐ゆべからざるものあり、野中氏は爾後二百五十余日の間、ただ一人この凄愴の中に座して気象の観測を試みんとす、その剛胆、その熱心実に驚くべきものあるなり


YM-09

資料番号  YM-09
資料名

富士登山記(十二)

富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月20日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

富士の八峯 轟々として地も裂けむばかりの響に夢を破られ、眠らんと欲して眠る能はず、ポッケットの中より喰ひかけの餅など取り出し、暖炉に於て之を焼く、時に一室皆な目を醒まし、四方山の話を始む、其間野中氏は余の為に語りて曰く、富士の山頂に八峯あり、剣ケ峯、白山岳、久須志岳、伊豆岳、成就岳、駒ヶ岳、浅間岳、三島岳と云ふ、仏家は此八陵を以て蓮華の八葉に擬せり、明朝幸に天晴るゝあらば、君身自ら此の八峯を蹂躙(じゅうりん)せよと、余は之を託し、其の間奇岩奇景の大に余を驚かすべきものあるべきを予想しつゝ心窃に明日の天気快晴ならんと祈る

憎らしき風力計 余は心窃に明日の天気の快晴ならむことを祈るが故に、直に顧みて傍に在る風力計電気盤を注視す、然るにセコンドの如き針は一秒は一秒毎に回転愈々烈げし、余は之を見て心窃に呟けり、アゝ憎き風力計電気盤よ

富士言葉 所変われば品変わる、浪花の葦は伊勢の浜萩とかや、何処の国にても其の土地に従ひ、各々一種特別の方言あるが如く、富士の山にも所謂富士言葉なるものあり、是れ強力其の他の登山者が用ゆる富士限りの言葉なり、今其のニ三の例を挙ぐれば

「登山する」を「さす」  「下る」を「はしる」

「休むこと」を「行道」  「風」を「御いき」

「災に死する」を「御改め」

の如し、又た南口より登りて北口に降るを山を裂くとて忌み扇子を持つを風を招くとて嫌へり

富士の名物 富士山にて名物として知られたるは石楠箸(しゃくなぎばし)、浜梨、葛湯、甘酒、牡丹餅、春餅(もち)等にして石楠箸は其の名に恥ぢず、常に用ひて癪の根を断つと云へり

牡丹餅一個二十五銭 強力は語りて云へらく、ニ三年前のことなりき、一日暴風驟に起り、数名の登山者は強力に誘はれて途中の一室に之を避けたり、然るに風は日一日に烈しく、一日を経るも已まず、二日を経るも已まず、其中に食物は尽き、殆ど富士の山腹に於て餓死せんとしたるとあり時に室主は予て貯へたる餅米の粉を取出だし、鶏卵より猶ほ小なる牡丹餅を製し、一円に四個の割を以て鬻(ひさ)ぎたるに、登山者は縦令牡丹餅一個一円に値するも生命には代へ難しとて皆な之を贖ひたりとなむ

 新字新仮名

富士の八峯 轟々(ごうごう)として地も裂けんばかりの響に夢を破られ、眠らんと欲して眠る能わず、ポッケットの中より食いかけの餅など取り出し、暖炉においてこれを焼く、時に一室皆な目を醒まし、四方山の話を始む、その間野中氏は余のために語りていわく、富士の山頂に八峯あり、剣ケ峯、白山岳、久須志岳、伊豆岳、成就岳、駒ヶ岳、浅間岳、三島岳という、仏家はこの八陵を以て蓮華の八葉に擬せり、明朝幸に天晴るるあらば、君身自ら此の八峯を蹂躙(じゅうりん)せよと、余は之を託し、其の間奇岩奇景の大に余を驚かすべきものあるべきを予想しつつ心ひそかに明日の天気快晴ならんと祈る

憎らしき風力計  余は心ひそかに明日の天気の快晴ならんことを祈るが故に、直に顧みて傍にある風力計電気盤を注視す、しかるにセコンドのごとき針は一秒は一秒毎に回転いよいよ烈げし、余はこれを見て心ひそかに呟けり、アア憎き風力計電気盤よ

富士言葉 所変われば品変わる、浪花の葦は伊勢の浜萩とかや、何処の国にてもその土地に従い、各々一種特別の方言あるがごとく、富士の山にも所謂富士言葉なるものあり、これ強力その他の登山者が用ゆる富士限りの言葉なり、今そのニ、三の例を挙ぐれば

「登山する」を「さす」  

「下る」を「はしる」

「休むこと」を「行道」  

「風」を「御いき」

「災に死する」を「御改め」

のごとし、また南口より登りて北口に降るを「山を裂く」とて忌み、扇子を持つを風を招くとて嫌えり

富士の名物 富士山にて名物として知られたるは石楠箸(しゃくなぎばし)、浜梨、葛湯、甘酒、牡丹餅、春餅(もち)等にして石楠箸はその名に恥じず、常に用いて癪の根を断つといえり

牡丹餅一個二十五銭 強力は語りていえらく、ニ、三年前のことなりき、一日暴風驟(にわか)に起り、数名の登山者は強力に誘はれて途中の一室にこれを避けたり、然るに風は日一日に烈しく、一日を経るもやまず、二日を経るもやまず、その中に食物は尽き、ほとんど富士の山腹において餓死せんとしたるとあり時に室主はかねて貯えたる餅米の粉を取出だし、鶏卵よりなお小なる牡丹餅を製し、一円に四個の割を以て鬻(ひさ)ぎたるに、登山者は縦令(たとい)牡丹餅一個一円に値するも生命には代え難しとて皆これを贖(あがな)いたりとなむ


OM-21

資料番号  OM-21
資料名

富士登山記(十三)

富士山頂剣ケ峯に於て 特派員 石塚正治

年代

1895年(明治28年)10月23日

新聞社

報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供 
旧字旧仮名

山頂の野中氏 降雪登山の未知を塞ぎ堅氷富士の全面を包囲するの期は旦夕に迫れり之より後二百四十有余日の間は下界との交通全く絶えなむ、其の間縦令(たとい)身病むも呼ぶに医師なく、語らんと欲するも訪ふべき人はなし、唯だ一の天上と下界との通信器たる回光器はあれど是れ単に時間を合するの用に止まり、他に普通の応対を為し得べき機関無し、骨肉親戚の起居は如何、知己朋友の消息は如何、世には如何なる事の起りたるか、社会は如何に変遷したるか、之を知らんと欲せば来年六月を待たざるべからず、天涯千里の孤島に在る者は猶ほ時に舟子に逢ふこともありなむ、深林幽谷の山奥に棲む者は猶ほ時に樵夫(きこり)の訪ふこともありなむ、特(ひと)り此の天上数里の富士山頂には雪の雲、冷へし日、凍へし月、氷れる星の外に訪ひ来るものなかるべし、アゝ山頂の野中氏は此の寂寥寒烈の天半に八カ月の長の月日を送らざるを得ざるなり、
野中氏の食料品 野中氏が爾後八カ月の間山頂に於て生命を維ぐべき食料品は米、味噌、醤油、牛肉の缶詰、梅干、生姜漬、焼麩、餅、食塩等にして米には粳あり、糯米あり、一日四合の割を以て八カ月分を貯へ、其の他の副食物皆な之に適へり、聞く米の如きは半ば之を東京にて需め、半ば之を山下の民家にて整へたりと

室内運動器 数年前より野中氏は今日の事業を企て居りし事とて其の予備も等ならず四五年前東京の或る骨董店に於て買い求め置きたる室内運動器一脚あり、是れは端艇(ボート)を漕ぐの体に擬せる運動器械にして其の形図に示せるが如し、臺は木を以て之を作り、其の一端に平たき護謨(ゴム)の紐二筋を付く、臺の中部に足止めあり、叉た其の梯子の如き形を為せる所に腰掛けの板あり、此の板の両脚は臺の両脚(小舟に例すれば両舷に當る)に堀り付けたる溝に嵌めあり溝を通りて板は自由に前後に走る様に成り居れり、今其の用法を記せば、之を用ゆる者は先づ右の板に腰を掛け両手に各々護謨の紐を持ち、両の足にて足止めを踏まへ、ウンと力を入れて足を伸ばせば護謨の紐は伸び、腰部の板は臺の両脚の溝を滑りて後に動くなり、既に其の後に動くとこと充分なる時に於て足の力を寛むれば身は護謨の収縮するの力に引かれて板と共に再び前に動くなり、斯くの如くにして手足と腰部とに力を用い、体を前後に動かすこと端艇を漕ぐに異ならざるが故に、之を使用することニ三十分間に及べば充分の運動と為るなり、今や野中氏は之を山頂に運び、常に室内に於て之を使用し居れり

山頂の両便所 山腹及び山頂には小便所は云ふまでもなく、大便所の設けあるなし、故に大便を為さんと欲する者は四方広漠たる處、昼は雲を眺め夜は星を数へつゝ、二つ三つ積み重ねたる石の間に跨るなり、左れば寒風凛冽として脾肉を掠むるの苦は尚ほ可なり、少しく風暴るゝ時には室外に出づるを得ざるが故に、空しく室内の籠城して之を忍ばざるを得ざる事あり、野中氏語りて曰く山頂にて最も困るは便所なり、先頃山頂に数日を費したる和田技師の如き、忍び得らるゝ丈けよりも多く之を忍び、到底如何ともすべからざるに至りて室を出づるを常とせり、余も亦た便所には大に苦心したり、室外に出でられ得る間は暴風暴雨と雖も敢て之を辞せざるべし、左れど寒気増々募り、氷雪室を鎖して外出する能はざるに至らば如何にすべきか、室内の一隅に便所を設けんか狭き室内を益々狭くするのみならず、遂には積り積もりて不潔耐ゆべからざるに至らむ、是に於てか余は遂に一策を案出し、便器を以て便所に充て、冬日外出の出来ざる時に至らば窓より之を室外に傾け、以て其の清潔を保つこととなせりと 

 新字新仮名

山頂の野中氏 降雪登山の未知を塞ぎ堅氷富士の全面を包囲するの期は旦夕に迫れりこれより後二百四十有余日の間は下界との交通全く絶えなん、その間縦令(たとい)身病むも呼ぶに医師なく、語らんと欲するも訪うべき人はなし、ただ一の天上と下界との通信器たる回光器はあれどこれ単に時間を合するの用に止まり、他に普通の応対をなし得べき機関なし、骨肉親戚の起居は如いかん、知己朋友の消息はいかん、世にはいかなる事の起りたるか、社会はいかに変遷したるか、これを知らんと欲せば来年六月を待たざるべからず、天涯千里の孤島に在る者はなお時に舟子(かこ)に逢うこともありなん、深林幽谷の山奥に棲む者はなほ時に樵夫(きこり)の訪うこともありなむ、特(ひと)りこの天上数里の富士山頂には雪の雲、冷えし日、凍(こご)えし月、氷れる星の外に訪い来たるものなかるべし、アア山頂の野中氏はこの寂寥寒烈の天半に八カ月の長(なが)の月日を送らざるを得ざるなり、

野中氏の食料品 野中氏が爾後(じご)八カ月の間山頂において生命を維ぐべき食料品は米、味噌、醤油、牛肉の缶詰、梅干、生姜漬、焼麩、餅、食塩等にして米には粳(うるち)あり、糯米(もちごめ)あり、一日四合の割を以て八カ月分を貯え、その他の副食物皆なこれに適えり、聞く米のごときは半ばこれを東京にて需(もと)め、半ばこれを山下の民家にて整えたりと 室内運動器 数年前より野中氏は今日の事業を企ておりし事とてその予備も等(まま)ならず四、五年前東京のある骨董店において買い求め置きたる室内運動器一脚あり、これは端艇(ボート)を漕ぐの体に擬せる運動器械にしてその形図に示せるがごとし、台は木をもってこれを作り、その一端に平たき護謨(ゴム)の紐二筋を付く、台の中部に足止めあり、叉たその梯子のごとき形をなせる所に腰掛けの板あり、この板の両脚は台の両脚(小舟に例すれば両舷に当たる)に堀り付けたる溝に嵌(は)めあり溝を通りて板は自由に前後に走る様になりおれり、今その用法を記せば、これを用いる者はまず右の板に腰を掛け両手に各々護謨の紐を持ち、両の足にて足止めを踏まえ、ウンと力を入れて足を伸ばせば護謨の紐は伸び、腰部の板は台の両脚の溝を滑りて後に動くなり、すでにその後に動くとこと充分なる時において足の力を寛(ゆる)めれば身は護謨の収縮するの力に引かれて板と共に再び前に動くなり、かくのごとくにして手足と腰部とに力を用い、体を前後に動かすこと端艇を漕ぐに異ならざるが故に、これを使用することニ、三十分間に及べば充分の運動となるなり、今や野中氏はこれを山頂に運び、常に室内においてこれを使用しおれり

山頂の両便所 山腹及び山頂には小便所はいうまでもなく、大便所の設けあるなし、故に大便をなさんと欲する者は四方広漠たる処、昼は雲を眺め夜は星を数えつつ、二つ三つ積み重ねたる石の間に跨るなり、されば寒風凛冽として脾肉を掠むるの苦はなほ可なり、少しく風暴るる時には室外に出づるを得ざるが故に、空しく室内の籠城してこれを忍ばざるを得ざる事あり、野中氏語りていわく山頂にて最も困るは便所なり、先頃山頂に数日を費したる和田技師のごとき、忍び得らるる丈けよりも多くこれを忍び、到底いかんともすべからざるに至りて室を出づるを常とせり、余もまた便所には大いに苦心したり、室外に出でられ得る間は暴風暴雨といえども敢えてこれを辞せざるべし、されど寒気増々募り、氷雪室を鎖(とざ)して外出する能わざるに至らばいかにすべきか、室内の一隅に便所を設けんか狭き室内をますます狭くするのみならず、ついには積り積もりて不潔耐ゆべからざるに至らむ、これにおいてか余はついに一策を案出し、便器をもって便所にあて、冬日外出のできざる時に至らば窓よりこれを室外に傾け、もってその清潔を保つこととなせりと


YM-10

資料番号  YM-10
資料名

富士登山記(十四)

富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月24日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

炭一俵九十銭 我が身一ツを持て余すほどの峻坂を七八貫目の重荷を運搬するは縦令強力の強と雖も其の困難察すべく、従て其の賃銭の廉からざるも亦た無理ならじ、然るに野中氏は此の峻阪の間を、一家を構成するに足るの材木と八カ月を支ふるに足るの薪炭、米穀、味噌醤油の類とを運搬せしむ、若し之に対する正当の賃銭を払はざるを得ずとすれば其の額の少なからざる亦た知るべきのみ、而かも山下村民の義侠なる、強力の義侠なる、皆な大に野中氏の今回の事業を賛成し、氏の為に一臂の力を添ふるを無二の栄として其の賃銭の如き何れも出来得る丈け之を安くせり、斯く無類飛切の安運賃なるにも拘らず山巓までの運賃を加算するときは物価の高値と為るよと驚くべし殊に東京より運搬したる白米の如きは途中の汽車運賃其の他一切を計算し来れば一升の価非常に高く、銀一升米一升とは之を云ふにやあらんかと思はるゝ位なり、夜恰も闌(たけなわ)にして峭寒(しょうかん)骨を劈(つんざ)くの頃なりき、余は炭を暖炉に加えんと欲し、腕大の炭片一個を取り、試みに野中氏に向ひ、此の炭一個幾何に値するやと問ふ、氏曰く、多分五銭位なるべしと、余は其の高値なるに驚き、左らば一俵の価幾何に値するやと問へば氏は答えて曰へらく、此の炭は元と当山麓にて一俵三十銭を以て贖ひたるものにして、若し之に正当の運賃を加へなば非常なる高値となりしならむ、左れど強力の義侠なる一俵六十銭の割を以て山頂まで運び呉れたれば、今は一俵九十銭に値すと

回光器 数年前常州筑波山と東京中央気象台との間に回光器を用ひて互に信号を為し、充分の結果を得たるを聞き、余は心密に其の随分大仕掛にして軍艦に備へたる電気反射鏡の如き者なるべきを想像したり、然るに今回野中氏が携ふる回光器なる者を一見し、實に其の簡単にして且つ其の小さき器械なるに驚けり、其の形は図に示せるが如く、幅五寸、長二尺余の台の上に径四寸余の環三個あり、三個の環には其の上部に何れも狙ひを定むべき照準を設く、其の形鉄砲の照準に異ならず、而して其の最後の環中に円形の鏡を置き、釘を以て其の縁二カ所を環に取り付け其の俯仰を自由ならしむ、其の用法を記せば、先づ之を予て設けたる場所に置き、環上の照準に依り其の目的地に向て狙を附くべし、既に其の狙定まるや、最後の環中に設けたる鏡を動かして太陽に向はしめ、其の反射光をして前部二環の間を通せしむれば、其の光は恰も目的地に達するなり、而して之を以て信号を為すには手を以て其の反射光を遮断し、其の回数及び長短に従ひて符号を設け、自由に談話を試むるなり、因みに記す挿絵中環の少しく後ろに傾き且つ全部二環の鏡の如き形を為せるは下書の誤りなり

回光器の利用 野中氏が爾後八カ月の間に下界と通信するは只だ氏と沼津測候所との間に於て此の回光器を用ゆるの外なきなり、然るに野中氏の語る所に依れば、氏と沼津測候所との間には普通の談話を試むべき信号の打合せあらず唯だ沼津よりは時間を報じ、氏よりは其の日の最高温度、最低温度及び風力等を報ずるの信号あるのみなりと云ふ

 新字新仮名

炭一俵九十銭 我が身一ツを持て余すほどの峻坂を七、八貫目の重荷を運搬するは縦令(たとい)強力の強といえどもその困難察すべく、従ってその賃銭の廉(やす)からざるもまた無理ならじ、しかるに野中氏はこの峻阪の間を、一家を構成するに足るの材木と八カ月を支うるに足るの薪炭、米穀、味噌醤油の類とを運搬せしむ、もしこれに対する正当の賃銭を払わざるを得ずとすればその額の少なからざるまた知るべきのみ、しかも山下村民の義侠なる、強力の義侠なる、皆な大いに野中氏の今回の事業を賛成し、氏のために一臂(いっぴ)の力を添うるを無二の栄(えい)としてその賃銭のごとき何れも出来得るだけこれを安くせり、かく無類飛切の安運賃なるにもかかわらず山巓までの運賃を加算するときは物価の高値となるよと驚くべしことに東京より運搬したる白米のごときは途中の汽車運賃その他一切を計算し来れば一升の価非常に高く、銀一升米一升とはこれをいうにやあらんかと思はるる位なり、夜あたかも闌(たけなわ)にして峭寒(しょうかん)骨を劈(つんざ)くの頃なりき、余は炭を暖炉に加えんと欲し、腕大の炭片一個を取り、試みに野中氏に向い、この炭一個幾何(いくばく)に値するやと問う、氏いわく、多分五銭位なるべしと、余はその高値なるに驚き、さらば一俵の価幾何に値するやと問えば氏は答えていえらく、この炭は元当山麓にて一俵三十銭を以て贖(あがな)いたるものにして、若しこれに正当の運賃を加えなば非常なる高値となりしならん、されど強力の義侠なる一俵六十銭の割をもって山頂まで運びくれたれば、今は一俵九十銭に値すと

回光器 数年前常州筑波山と東京中央気象台との間に回光器を用いて互に信号をなし、充分の結果を得たるを聞き、余は心密(ひそか)にその随分大仕掛にして軍艦に備えたる電気反射鏡のごとき者なるべきを想像したり、しかるに今回野中氏が携うる回光器なる者を一見し、実にその簡単にしてかつその小さき器械なるに驚けり、その形は図に示せるがごとく、幅五寸、長二尺余の台の上に径四寸余の環三個あり、三個の環にはその上部に何れも狙いを定むべき照準を設く、その形鉄砲の照準に異ならず、しこうしてその最後の環中に円形の鏡を置き、釘をもってその縁二カ所を環に取り付けその俯仰を自由ならしむ、その用法を記せば、まずこれを予て設けたる場所に置き、環上の照準によりその目的地に向って狙を付くべし、すでにその狙定まるや、最後の環中に設けたる鏡を動かして太陽に向わしめ、その反射光をして前部二環の間を通せしむれば、その光はあたかも目的地に達するなり、しこうしてこれをもって信号をなすには手をもってその反射光を遮断し、その回数及び長短に従いて符号を設け、自由に談話を試むるなり、ちなみに記す挿絵中環の少しく後ろに傾きかつ全部二環の鏡のごとき形をなせるは下書の誤りなり

回光器の利用 野中氏が爾後八カ月の間に下界と通信するはただ氏と沼津測候所との間においてこの回光器を用ゆるの外なきなり、しかるに野中氏の語る所によれば、氏と沼津測候所との間には普通の談話を試むべき信号の打合せあらず、ただ沼津よりは時間を報じ、氏よりはその日の最高温度、最低温度及び風力等を報ずるの信号あるのみなりという


YM-11

資料番号  YM-11
資料名

富士登山記(十五)

富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月25日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

山頂の黎明 夜は既に朧々と明け渡りぬ、若し幸にして風なく雲なき晴れの日なりせば、東の空の漸く紅を染むる處、太平洋の彼方より茜さす旭日は忽然として其のせん顔を現はし、火矢の如き光は千糸万流に分かれて天を射ると同時に、銀の如き海の面の忽ち変じて黄金を溶かしたるが如くなるの景を眺め得たらむに、宵まだきに吹き起こしたる風、昨日日暮に降り初めたる雨は益々募りて、可惜(あたら)此の望みは全く破ふれ丁はんぬ、余は黎明の空の未だ薄暗き頃より最と口惜しげに窓の下に立ちて夜の明くるを待ちたりけるが、唯だ朧月夜の如き空は漸く白めど濛々たる濃霧は四辺(あたり)を罩(こ)めて咫尺(しせき)の外をも見分かち難く、其の間烈しき風の轟々たる響きを為して室外を掠むるの様は、宛(さな)がら暴風暴雨の際、海上に於て汽船の中に夜の明るを待つに異ならず

山頂の暴風雨 夜の明け渡るに従ひ、風と雨とは次第に募りて、午前八時頃には非常なる暴風暴雨となれり、一強力は予て貯へたる雨水を運び来らんが為に室を出でたれど復た直に走せ帰りて曰く、風強くして馬の背の嶮を渡るべからずと、顧みれば其の全身雨に潤(うるほ)ひ、戦慄甚だしく殆んど血色なし、斯かる折に強いて室外に出づる者は直に奈落の底に吹き飛ばさるゝなり、斯かる折に体を温むるの備へなき者は直に氷塊と化し去るなり

釣鐘横に垂れて動かず 余が実見せる当日の暴風と雖も之を下界の暴風と比較せば非常なる暴風にしても、若し斯る風の下界に吹きなば、数多の木は折られ、数多の家は倒され、又た数多の船舶は覆されたるなるべし、然るに野中氏の語る所に依れば、斯かる暴風は富士山頂に於ては珍らしからぬことにて、下界にて少しく空模様悪しと思ふ日は富士山頂は常に斯かる暴風にてあるなり、山頂に於ける所謂真の暴風なるものは中々此の位の者にあらず現に夏期の間山頂に宿れる一宮司の実験せる所に依れば、風強きに至れば径二尺余の釣鐘は風の為に横に垂れたるまゝ、其の静まるまでの間は下に垂れずと云へり、蓋し下界の風は恰も人の呼吸を為すが如く、一陣の風吹き過ごせば又た次の風の吹き来るまで多少の間断あれど、富士山頂の暴風は其の吹き初むるや、其の吹き已むまでノベツに吹き続きて、苟(いやしく)も一瞬間と雖も間断なければなりと、

天然的風雨計 野中氏は語りて曰く、山頂なる富士山本宮の宮司は毎年夏期には山頂に宿り、山頂に於ける経験を積めること少なからず、今其の親しく経験せし所なりとて余に注意せし所に依れば若し太平洋の中天に帯の如き雲の靉靆(たなび)けるを見なば、直に暴風に対するの準備を整ふるを好しとす蓋し是れ暴風襲来の兆にして、其の漸く垂れて水面に着くや否や、烈しき風は驟然(しゅうぜん)として山頂を襲ひ来るべければなりと、嗚呼是れ實に野中氏の為に此の上もなき好良の天然的風雨針と云ふべき乎

 新字新仮名

山頂の黎明 夜はすでに朧々(ほのぼの)と明け渡りぬ、もし幸にして風なく雲なき晴れの日なりせば、東の空の漸く紅を染むる処、太平洋の彼方より茜さす旭日は忽然としてそのせん顔を現わし、火矢のごとき光は千糸万流に分かれて天を射ると同時に、銀のごとき海の面のたちまち変じて黄金を溶かしたるがごとくなるの景を眺め得たらんに、宵まだきに吹き起こしたる風、昨日日暮に降り初めたる雨はますます募りて、可惜(あたら)この望みは全く破れ丁(お)はんぬ、余は黎明の空のまだ薄暗き頃よりいと口惜しげに窓の下に立ちて夜の明くるを待ちたりけるが、ただ朧月夜(おぼろづきよ)のごとき空は漸く白めど濛々(もうもう)たる濃霧は四辺(あたり)を罩(こ)めて咫尺(しせき)の外をも見分かち難く、その間烈しき風の轟々たる響きをなして室外を掠むるの様は、宛(さな)がら暴風暴雨の際、海上において汽船の中に夜の明るを待つに異ならず

山頂の暴風雨 夜の明け渡るに従い、風と雨とは次第に募りて、午前八時頃には非常なる暴風暴雨となれり、一強力は予て貯えたる雨水を運び来たらんがために室を出でたれど復た直に走せ帰りていわく、風強くして馬の背の嶮を渡るべからずと、顧みればその全身雨に潤(うるほ)ひ、戦慄はなはだしく殆んど血色なし、かかる折に強いて室外に出づる者は直に奈落の底に吹き飛ばさるるなり、かかる折に体を温むるの備えなき者は直に氷塊と化し去るなり

釣鐘横に垂れて動かず 余が実見せる当日の暴風といえどもこれを下界の暴風と比較せば非常なる暴風にしても、若しかかる風の下界に吹きなば、数多(あまた)の木は折られ、数多の家は倒され、また数多の船舶は覆されたるなるべし、しかるに野中氏の語る所によれば、かかる暴風は富士山頂においては珍らしからぬことにて、下界にて少しく空模様悪しと思う日は富士山頂は常にかかる暴風にてあるなり、山頂におけるいわゆる真の暴風なるものは中々この位の者にあらず、現に夏期の間山頂に宿れる一宮司の実験せる所によれば、風強きに至れば径二尺余の釣鐘は風のために横に垂れたるまま、その静まるまでの間は下に垂れずといえり、蓋(けだ)し下界の風は恰も人の呼吸をなすがごとく、一陣の風吹き過ごせばまた次の風の吹き来るまで多少の間断あれど、富士山頂の暴風はその吹き初むるや、その吹きやむまでノベツに吹き続きて、苟(いやしく)も一瞬間といえども間断なければなりと、 天然的風雨計 野中氏は語りていわく、山頂なる富士山本宮の宮司は毎年夏期には山頂に宿り、山頂における経験を積めること少なからず、今その親しく経験せし所なりとて余に注意せし所によれば、もし太平洋の中天に帯のごとき雲の靉靆(たなび)けるを見なば、直に暴風に対するの準備を整うるを好しとす、蓋しこれ暴風襲来の兆にして、その漸く垂れて水面に着くや否や、烈しき風は驟然(しゅうぜん)として山頂を襲い来るべければなりと、嗚呼これ実に野中氏のためにこの上もなき好良の天然的風雨針というべきか


YM-12

資料番号  YM-12
資料名

富士登山記(十六)

富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月26日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

身は富士より高し 野中氏の宅背は剣ケ峯の絶頂にして、方にこれ富士の頂上より高きこと四百尺の頂に在り、余は風の稍や弱き時を覗い、室を出でて宅後の巌に攀ぢ、所謂剣ケ峯の最高頂に立つ、アゝ今や余の足は海面を抜くこと一万二千四百七十尺、余の身は實に日本第一の高山たる富士よりも高きこと五勺一寸豪然天地を睥睨(へいげい)して得意腹に満つ

山頂の飯は生米に等し 余は烈しき風に追われて日東最高の位地を奪はれ再び室内に走せ込みぬ、時恰も野中氏は飯出来たりとて余に喫飯を進む、厚意を謝して箸を取れば飯はボサボサとして心をし、マヅきこと生米を嚙むよりも甚だし、余は随分空腹を感じ居たれど、余りのマヅさに畢生(ひっせい)の力を盡して僅に一椀を傾け盡せり、野中氏は之を見て気の毒に思ひけむ、余の為に特に餅数箇を焼けり、余は之に依りて僅かに腹の飢えたるを癒やすを得たり、蓋し是れ山頂は空気希薄なる為に空気の圧力薄く、甚だ弱き熱にても水は既に沸騰するが故に飯の熟すると水の沸くとの均衡を得る能はざるに因るが故に山頂にては粳(うるち)に餅を半ば加はへ、僅かに粘気を得て食するを常とせり、野中氏は爾後八カ月の間、斯かる粗糲(それい)食に堪えざるものを常食とせざるを得ざるなり、嗚呼野中氏たるもの亦た難(かた)ひ哉、強力は曰ふ、初めて此の山に登りたる者は、如何に健啖なる者と雖も、頂上の飯三椀を傾け通す者は殆ど之れなしと、

宝永山 余の富士登山記を読みたる者は屡々宝永山なる語を目にしたるなるべし、宝永山とは富士の肩部に突出せる一峯稜にして、東海道より望めば左の肩に少しく堆く見ゆるもの即ち是れなり、是れ宝永年間の噴火と共に突出したる峯にして、中部に噴火口あり其の四囲(しゐ)年々崩壊し、今や口は増々広く底は漸々浅くなれり、其の坎側に十二神石、屏風岩、牡丹岩、臥龍岩、蓮華石等の奇岩あり

富士の虎杖 富士には満山草木あるなし、只だある者は虎杖(いたどり)のみ、而かも其の長甚だ短かくして二尺に充たず、聞く数年前某外国人は虎杖の富士の焼砂の中に生ぜるを見て、是れ或は砂漠に植ゆるに適するならんかと、態々其の種子を瀧河原の藤屋に注文し之を試作の為め某砂漠に向て送りたることありと、強力の話に拠れば斯く丈の短かく幹の小なるは富士の山腹にあるものゝみにして、山麓の深林中に生じたる者は、幹の周囲六七寸、高さ一丈に余る者ありとなむ

 新字新仮名

身は富士より高し 野中氏の宅背は剣ケ峯の絶頂にして、まさにこれ富士の頂上より高きこと四百尺の頂にあり、余は風のやや弱き時を覗い、室を出でて宅後の岩に攀ぢ、いわゆる剣ケ峯の最高頂に立つ、アア今や余の足は海面を抜くこと一万二千四百七十尺、余の身は実に日本第一の高山たる富士よりも高きこと五勺一寸豪然天地を睥睨(へいげい)して得意腹に満つ 山頂の飯は生米に等し 余は烈しき風に追われて日東最高の位地を奪われ再び室内に走せ込みぬ、時あたかも野中氏は飯できたりとて余に喫飯を進む、厚意を謝して箸を取れば飯はボサボサとして心(しん)を存し、マヅきこと生米を嚙むよりもはなはだし、余は随分空腹を感じいたれど、余りのマヅさに畢生(ひっせい)の力を尽くしてわずかに一椀を傾け尽くせり、野中氏はこれを見て気の毒に思いけん、余のために特に餅数箇を焼けり、余はこれによりてわずかに腹の飢えたるを癒やすを得たり、蓋(けだ)しこれ山頂は空気希薄なるために空気の圧力薄く、はなはだ弱き熱にても水はすでに沸騰するが故に飯の熟すると水の沸くとの均衡を得る能わざるによるが故に山頂にては粳(うるち)に餅を半ば加え、わずかに粘気を得て食するを常とせり、野中氏は爾後八カ月の間、かかる粗糲(それい)食に堪えざるものを常食とせざるを得ざるなり、嗚呼(ああ)野中氏たるものまた難?(かた)い哉、強力はいう、初めてこの山に登りたる者は、いかに健啖(けんたん)なる者といえども、頂上の飯三椀を傾け通す者はほとんどこれなしと、

宝永山 余の富士登山記を読みたる者は屡々(しばしば)宝永山なる語を目にしたるなるべし、宝永山とは富士の肩部に突出せる一峯稜(ほうりゅう)にして、東海道より望めば左の肩に少しく堆(うずたか)く見ゆるものすなわちこれなり、これ宝永年間の噴火と共に突出したる峯にして、中部に噴火口あり、その四囲(しい)年々崩壊し、今や口は増々広く底は漸々浅くなれり、その坎側(かんそく)に十二神石、屏風岩、牡丹岩、臥龍岩、蓮華石等の奇岩あり

富士の虎杖(いたどり) 富士には満山草木あるなし、ただある者は虎杖のみ、しかもその長はなはだ短かくして二尺に充たず、聞く数年前某外国人は虎杖の富士の焼砂の中に生ぜるを見て、これあるいは砂漠に植ゆるに適するならんかと、態々(わざわざ)その種子を滝河原の藤屋に注文しこれを試作のため某砂漠に向って送りたることありと、強力の話によればかく丈の短かく幹の小なるは富士の山腹にあるもののみにして、山麓の深林中に生じたる者は、幹の周囲六七寸、高さ一丈に余る者ありとなむ


YM-13

資料番号  YM-13
資料名

富士登山記(十七)

富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月27日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

宛然東洋の魯敏孫(ロビンソン) 野中氏の携帯品中には鑿(ノミ)あり、鉋(カンナ)あり、小刀(ナイフ)あり、其の他ありとあらゆる金物刃物一として備はらざるなし、始めて此に来れる者は大工の住居かと疑ひなむ、余も始めて之を見たる折には多分是れ大工の預け置きたるものなるべしと思ひたるが後ち野中氏に聞けば是れ皆な氏が其の用を辨ぜんが為に携へ来たりたるものにして鉋の如きは毎日之を以て板片を削り、鉋屑を製して日用の焚付に為すなりと、アゝ野中氏は爾後八カ月の間は、時に或は気象観測者と為り、時に或は三助と為り、時に或は医師と為り、時に或はお三と為り、又た或る時は大工と為り、石工と為り、便所掃除人とも為らざるを得ざるなり、見去り思ひ来れば、氏の生活は宛然(さながら)是れ無人島に於けるロビンソンクルソーの生活に異ならず

牛肉の缶詰 東京気象学会員の寄贈に係る、野中氏は朝げの菜に供せばやと之を開きたるに肉は凍りて硬きこと鯣(するめ)を噛むが如し、即ち之を暖炉の上に置き、其の軟ぐを待て之を食ふ

大に鳥獣を拾う 野中氏と強力とは口を合わせて語りて曰へらく、数年前林務官数名此の山に登り、山腹に小鳥の夥しく斃れ居るを発見し、之を拾ふて食ひたるとあり、然るに一二カ月前にも亦た五六合目の間に鵯の類夥しく死し居るを見たり、蓋し是れ下界に在る小鳥が暴風に掠められて中天に揚り、遂に富士の山腹に吹き着けられて死したるものなるべし、又た先頃には六合目邊に於て鹿の二頭離れ居るを発見したり、ニ三合目以上に於て曾て見たることのなき鹿の何が故に斯くは山腹に登り、斯くは頭を連ねて離れたるか、其の原因は定かならざれども是れ或は山麓に棲める鹿が狼の類に逐はれて山腹に駆け登り、途に暴風に逢ふて斃(たお)れたるものなるべきかと、鳥獣を拾ふて食ふとは随分珍らしき話と云ふべし

八子の梯子 駒ヶ嶽の山腹に當り、岩石の間に梯子二ツを架して登山者の渡るに任せたるあり、名づけて八子の梯子と云ふ、伝へて云へらく、是れ聖徳太子が騎馬に騎して踏み給へる遺跡なりと

富士山本宮 頂上浅間ヶ岳の麓に當りて富士山本宮あり、是れ大山祇大神の女木花佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)を祭れる国幣中社にして、富士の信者は皆な此に参拝せんが為に登山するなり、聞く夏日登山の季節には常に山麓の浅間神社より宮司出張し、登山者の金剛杖に頂上の焼印を捺すと

強力暴風を冒して降る 午前九時頃に至るも暴風激雨は依然として止まず、左れど流石は強力なり、一人風雨を冒して降山すべしと言い出したるに何れも之に賛成し、直に帰装(きそう)を整へて帰途に就けり、残るは野中氏兄弟、及び余と強力と大工の五人なり、余は屋後に出でゝ遥に強力等の帰り行けるを望み、其の人をも岩をも吹き飛ばさん計りの暴風の間を、登りては降り、降りては亦た登りつゝ帰り行ける体を見て、心密かに其の前途を危みたり

 新字新仮名

宛然(さながら)東洋の魯敏孫(ロビンソン)  野中氏の携帯品中には鑿(ノミ)あり、鉋(カンナ)あり、小刀(ナイフ)あり、その他ありとあらゆる金物刃物一として備わらざるなし、始めてここに来れる者は大工の住居かと疑いなん、余も始めてこれを見たる折には多分これ大工の預け置きたるものなるべしと思いたるが、後野中氏に聞けばこれ皆な氏がその用を弁ぜんがために携え来たりたるものにして鉋のごときは毎日これをもって板片を削り、鉋屑を製して日用の焚付(たきつけ)になすなりと、アア野中氏は爾後八カ月の間は、時にあるいは気象観測者となり、時にあるいは三助となり、時にあるいは医師となり、時にあるいはお三となり、またある時は大工となり、石工となり、便所掃除人ともならざるを得ざるなり、見去り思ひ来たれば、氏の生活は宛然(さながら)これ無人島におけるロビンソンクルソーの生活に異ならず

牛肉の缶詰 東京気象学会員の寄贈に係る、野中氏は朝げの菜に供せばやとこれを開きたるに肉は凍りて硬きこと鯣(するめ)を噛むがごとし、すなわちこれを暖炉の上に置き、その軟ぐを待ちてこれを食う

大に鳥獣を拾う 野中氏と強力とは口を合わせて語りていわえらく、数年前林務官数名この山に登り、山腹に小鳥の夥しく斃(たお)れおるを発見し、これを拾うて食いたるとあり、しかるに一、二カ月前にもまた五、六合目の間に鵯の類夥しく死しおるを見たり、蓋しこれ下界にある小鳥が暴風に掠められて中天に揚り、ついに富士の山腹に吹き着けられて死したるものなるべし、また先頃には六合目辺において鹿の二頭離れおるを発見したり、ニ、三合目以上においてかつて見たることのなき鹿の何が故にかくは山腹に登り、かくは頭を連ねて離れたるか、その原因は定かならざれどもこれあるいは山麓に棲める鹿が狼の類に逐はれて山腹に駆け登り、途に暴風に逢うて斃(たお)れたるものなるべきかと、鳥獣を拾うて食うとは随分珍らしき話というべし

八子の梯子 駒ヶ嶽の山腹に当り、岩石の間に梯子二ツを架して登山者の渡るに任せたるあり、名づけて八子の梯子という、伝えていえらく、これ聖徳太子が騎馬に騎して踏み給へる遺跡なりと

富士山本宮 頂上浅間ヶ岳の麓に当りて富士山本宮あり、これ大山祇大神の女木花佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)を祭れる国幣中社にして、富士の信者は皆なここに参拝せんがために登山するなり、聞く夏日登山の季節には常に山麓の浅間神社より宮司出張し、登山者の金剛杖に頂上の焼印を捺(お)すと

強力暴風を冒して降る 午前九時頃に至るも暴風激雨は依然として止まず、左れど流石は強力なり、一人風雨を冒して降山すべしと言い出したるに何れもこれに賛成し、直に帰装(きそう)を整えて帰途に就けり、残るは野中氏兄弟、及び余と強力と大工の五人なり、余は屋後に出でて遥に強力等の帰り行けるを望み、その人をも岩をも吹き飛ばさんばかりの暴風の間を、登りては降り、降りてはまた登りつつ帰り行ける体を見て、心密かにその前途を危みたり


YM-14

資料番号  YM-14
資料名

富士登山記(十八)

富士山頂剣ヶ峯に於て

特派員 石塚正治

年代

 1895年(明治28年) 10月30日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
旧字旧仮名

山頂の用水 夏日炎熱の候には巌の間より霤(あまだれ)のごとく水の溜まる場所あり、桶をその下に置けば遂に溜まりて用水と為すに足るも、冬日厳寒の候には其水は凍りて氷筆と為るなり、頂上亦一滴の水あるなし、左れば野中氏は初の間はその氷筆を折り、之を解かして用水となし、漸く雪深く積もるに至らば、雪を解かして用水と為す筈なり、下界より想像しなば雪を解かすが如き最と易き業とのみ思はるべけれど、寒気烈げしき山頂にては雪も僅かばかりの熱度にては中々解けやらず、而かも薪と炭とに限りある山頂にて之を解かし、飲料水は云はずもがな、洗濯その他一切の用をも之を以て辨せざるべからず、その業の易からざる亦た察すべきのみ

山頂の沐浴 水は乏し、薪炭には限りあり、山頂にては實に一杯の湯も猶ほ千金の価あるなり、いわんや湯を盥(たらい)に満て、之にて沐浴(ゆあみ)するが如きは殆ど夢にだも望み得べきにあらじ、左ればとて八カ月の長(なが)の月日を一たびの沐浴することもなくして過ごしなば、身は汚れて垢(あか)の鱗(うろこ)を生じ、ついには病の基ともなりなん、余は此点に付て一の疑問を醸もし、之を野中氏に問へり、氏は答へて曰へらく、左ればなり、此の水と薪炭とに乏しき山頂にては、沐浴など云へる如き贅沢なることは迚も望み得べきにあらねば、余は唯だ一週間に一度づゝ濡手拭いもて身体を拭くことを以て満足すべしと

御鉢廻り 頂上に旧噴火口あり、称へて御鉢という、その形凹(なかくぼ)にして擂鉢(すりばち)に似たり、深さ五丁余、天気快晴の日には自由に昇降するを得、所謂富士の八峯なるものはその周囲を囲めるなり、御鉢廻りとは其噴火口を一周するの謂(いい)にして、八峯の内部を一周するを内廻りと云ひ、外部を一週するを外廻りと云ふ、内廻りは三十六町、外廻りは五十町の路程あり、御鉢廻りを為す者は常に左に廻るを以て例とす、聞く御鉢の内部往々岩燕(いわつばめ)なるものを棲ますと

金明水と銀明水 頂上の南北に金明水及び銀明水の霊井(れいせい)あり、是れ元と夏日雪の解けて溜まりたるものに過ぎずと雖も、これを用ゆれば諸病に奇効ありとて、登山者は多くこれを携へ帰るなり

胎内竇 各登山の道に当りて御胎内と岩穴数ヶ所あり、中に矮小なる廟社を安置す、今其の一なる吉田口胎内竇(くぐり)の模様を記るさん、洞は途中鈴原に在り、洞口凡そ方六尺、漸く奥に至るに従ひ一歩は一歩毎に狭く、深さは殆んど其の盡くる所を知らず、此窟に入る者は膝頭に草鞋を着け燭を点じ匍匐して進むなり、洞口二間の間を肋と称す、岩石の形肋骨に似たればなり、漸く進んで臍石の辺より腹帯に至るに従ひ、路は弥々狭く、穴は弥々小なり、之を過ぐること六、七間、稍々廣き所に出づ、俗に之を子宮と云ふ、富士道者は此窟を無戸室と称し、之に入りし者の襷を用ひて懐胎婦人の腹帯と為せば、其婦人は必ず安産すと傳ふ

富士の人穴

 新字新仮名

山頂の用水 夏日炎熱の候には岩の間より霤(あまだれ)のごとく水の溜まる場所あり、桶をその下に置けばついに溜まりて用水となすに足るも、冬日厳寒の候にはその水は凍りて氷筆となるなり、頂上また一滴の水あるなし、されば野中氏は初めの間はその氷筆を折り、これを解かして用水となし、漸く雪深く積もるに至らば、雪を解かして用水となすはずなり、下界より想像しなば雪を解かすがごときいとやすき業とのみ思わるべけれど、寒気烈げしき山頂にては雪もわずかばかりの熱度にては中々解けやらず、しかも薪と炭とに限りある山頂にてこれを解かし、飲料水はいわずもがな、洗濯その他一切の用をもこれをもって辨せざるべからず、その業の易からざるまた察すべきのみ

山頂の沐浴 水は乏し、薪炭には限りあり、山頂にては実に一杯の湯もなお千金の価あるなり、いわんや湯を盥(たらい)に満て、これにて沐浴(ゆあみ)するがごときはほとんど夢にだも望み得べきにあらじ、さればとて八カ月の長(なが)の月日を一たびの沐浴することもなくして過ごしなば、身は汚れて垢(あか)の鱗(うろこ)を生じ、ついには病の基ともなりなん、余はこの点に付て一の疑問を醸(か)もし、これを野中氏に問えり、氏は答えていわえらく、さればなり、この水と薪炭とに乏しき山頂にては、沐浴などいえるごとき贅沢なることはとても望み得べきにあらねば、余はただ一週間に一度づつ濡手拭(ぬれてぬぐい)いもて身体を拭くことをもって満足すべしと

御鉢廻り 頂上に旧噴火口あり、となえて御鉢という、その形凹(なかくぼ)にして擂鉢(すりばち)に似たり、深さ五丁余、天気快晴の日には自由に昇降するを得、いわゆる富士の八峯なるものはその周囲を囲めるなり、御鉢廻りとはその噴火口を一周するの謂(いい)にして、八峯の内部を一周するを内廻りといい、外部を一週するを外廻りという、内廻りは三十六町、外廻りは五十町の路程あり、御鉢廻りをなす者は常に左に廻るをもって例とす、聞く御鉢の内部往々岩燕(いわつばめ)なるものを棲ますと

金明水と銀明水 頂上の南北に金明水及び銀明水の霊井(れいせい)あり、是れ元と夏日雪の解けて溜まりたるものに過ぎずといえども、これを用ゆれば諸病に奇効ありとて、登山者は多くこれを携え帰るなり

胎内竇 各登山の道に当りて御胎内と岩穴数ヶ所あり、中に矮小なる廟社を安置す、今その一なる吉田口胎内竇(くぐり)の模様を記るさん、洞(ほら)は途中鈴原にあり、洞口およそ方六尺、ようやく奥に至るに従い一歩は一歩毎に狭く、深さはほとんどその尽くる所を知らず、この窟に入る者は膝頭に草鞋を着け燭を点じ匍匐(ほふく)して進むなり、洞口二間の間を肋(あばら)と称す、岩石の形肋骨に似たればなり、漸く進んで臍石の辺より腹帯に至るに従い、路はいよいよ狭く、穴はいよいよ小なり、これを過ぐること六、七間、やや広き所に出ず、俗にこれを子宮という、富士道者はこの窟を無戸室と称し、これに入りし者の襷(たすき)を用いて懐胎婦人の腹帯となせば、その婦人は必ず安産すと伝う

富士の人穴


YM-15

資料番号  YM-15
資料名 富士山巓の音信
年代

 1895年(明治28年) 11月1日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

富士山頂の野中至氏より社員に宛てたる第二回の書信は昨日到達したり其の後の模様を知るに足るものあれば之を左に掲ぐ

拝啓 先日は遠路御見送被下難有奉存候爾来無事消光能在候間御安神可被下候扨(さ)て小生実は中央気象台よりは一昼夜六回の観測を嘱託せられ候得共、隴(ろう)を得て蜀を望むの心より漫りに一昼夜十二回に相改め申し候處、昼夜安眠の暇なく一時は稍々躊躇致し候折柄兼て固く拒絶致置きたるにも拘はらず、去る十二日荊妻登山致候に付、右様の場合図らず活きたる目覚時計を得たる心地致候、爾来観測の間合に一時間半計りづつ四五回安眠を得申し候に付、毎夜徹宵致候とも聊か健康を失するの感無之候向後も十二回宛観測を継続することにし相決し、聊か仕合せに存申し候、当地は去る廿二日以来氷雪に閉ぢられ外出叶ひ不申候、昨日安否訪問の為め郡司大尉の代理として報効議会員両名氷雪を冒して思ひ縣けなく来訪せられ候折の如き内外力を合わせ辛うじて窓の戸を引放し此処より這ひ込みもらひたる位の始末にて入口の戸の如きは熱湯を溌(そそ)ぐも又た破れん計りに烈しく動かすも其の甲斐無之候右の始末に付き沼津との回光儀も一先断り申し候間今後は全く音信不通と相成り申し候、年内は最早や下界の音信に接するとは思ひも寄らずなど打語居候折柄、思ひがけなき幸便を得申し候に付き、不取敢寸?呈上?候両名今日下山の由に付き取り急ぎ右認め申し候、乱筆御推讀被下度候

十月廿九日 野中 至

●報効義会員の富士訪問 報効義会員松井縫吉女鹿角英の両氏は郡司大尉の代理として富士山頂なる野中至氏を見舞はん為め、去る二十七日強力一名を従へて登山したり、同日は八合目を過ぎて胸突まで登りたれど、暴風の為に進むを得ず、余儀なく六合目まで降りたるが、六合目の石室に薪の少しばかり残り居たるを幸ひ、之を焚きて暖を取り、茣もなければ布団もなき富士の山腹に其の夜を明かし、翌日午前十一時頃剣ヶ峰なる野中氏の居宅に達するを得たり、最早や本年は下界の便り絶えたりと諦め居たる野中氏は、突然右両氏の訪問に接し非常なる悦びを以て迎へたり、殊に郡司大尉は慰問の印として鮭の皮にて作りたる長靴、毛皮の衣服、毛皮の手袋、雪下駄、其の他燐寸、紙類、新聞、餅など数多送りたるにぞ、野中氏は非常に悦び、厚く其の厚意を謝したりと

●富士登山記は都合に依り本日丈け相休み候 

 

富士山頂の野中至氏より社員にあてたる第二回の書信は昨日到達したりその後の模様を知るに足るものあればこれを左に掲ぐ

拝啓 先日は遠路御見送被下難有奉存候爾来無事消光能在候間御安神可被下候、さて小生実は中央気象台よりは一昼夜六回の観測を嘱託せられ候得共、隴(ろう)を得て蜀を望むの心より漫(みだ)りに一昼夜十二回に相改め申し候処、昼夜安眠の暇(いとま)なく一時はやや躊躇致し候折柄兼ねて固く拒絶致置きたるにも拘わらず、去る十二日荊妻(けいさい)登山致候に付、右様の場合図らず活きたる目覚時計を得たる心地致候、爾来(じらい)観測の間合に一時間半計りづつ、四、五回安眠を得申し候に付、毎夜徹宵致候とも聊(いささ)か健康を失するの感無之候向後(こうご)も十二回宛観測を継続することにし相決し、聊か仕合せに存申し候、当地は去る二十二日以来氷雪に閉じられ外出叶(かな)い不申候、昨日安否訪問のため郡司大尉の代理として報効議会員両名氷雪を冒して思いがけなく来訪せられ候折のごとき内外力を合わせ辛うじて窓の戸を引放しここより這ひ込みもらいたる位の始末にて入口の戸のごときは熱湯を注ぐもまた破れんばかりに烈しく動かすもその甲斐無之候、右の始末に付き沼津との回光儀もひとまず断り申し候間今後は全く音信不通と相成り申し候、年内は最早や下界の音信に接するとは思いも寄らずなど打語居(うちかたりおり)候折柄、思いがけなき幸便を得申し候に付き、不取(とりあえず)敢寸?呈上?候両名今日下山の由に付き取り急ぎ右認め申し候、乱筆御推読被下度候

十月二十九日           野中 至

 

●報効義会員の富士訪問 報効義会員松井縫吉女鹿角英の両氏は郡司大尉の代理として富士山頂なる野中至氏を見舞わんため、去る二十七日強力一名を従えて登山したり、同日は八合目を過ぎて胸突まで登りたれど、暴風のために進むを得ず、余儀なく六合目まで降りたるが、六合目の石室に薪の少しばかり残りいたるを幸い、これを焚きて暖を取り、ゴザもなければ布団もなき富士の山腹にその夜を明かし、翌日午前十一時頃剣ヶ峰なる野中氏の居宅に達するを得たり、最早や本年は下界の便り絶えたりと諦めいたる野中氏は、突然右両氏の訪問に接し非常なる悦びをもって迎えたり、ことに郡司大尉は慰問の印として鮭の皮にて作りたる長靴、毛皮の衣服、毛皮の手袋、雪下駄、その他燐寸(マッチ)、紙類、新聞、餅など数多送りたるにぞ、野中氏は非常に悦び、厚くその厚意を謝したりと

●富士登山記は都合に依り本日丈け相休み候


YM-16

資料番号  YM-16
資料名 雪中の富士登山
年代

 1895年(明治28年) 12月17日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

左の一篇は野中至氏の令弟清氏が同志と共に風雪を冒して此の程阿兄阿嫂(あけいあそう)を富士の絶頂剣が峰に慰問したるときの紀行なり

同行者五人 十二月十日余は静岡県駿東郡玉穂村中畑有志者数名と富士山頂気象観測所訪問の為め登山を試む一行総て五名曰く勝又恵造曰く平岡鐘次郎(新橋駐在巡査)曰く勝又熊吉曰く西藤鶴吉及び余とす而して此の内勝又恵造平岡鐘次郎及び西藤鶴吉の三氏は先月三十日登山を試み烈風の為め其の意を果たさざりし人々にして此の回は百難を冒すも是非登山を果さんと欲し、勇気勃々として鉄脚為めに鳴らんとするの概あり、勝又熊吉氏は中畑口剛力の随一として鬼熊叉は荒熊の綽名を取りたるものなり

 

途中の状況

(未完)

   

YM-17


資料番号  YM-17
資料名 雪中の富士登山(続)
年代

 1895年(明治28年) 12月18日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 旧字旧仮名

雪窟の起臥 然るに四合目の室を右方上部に望む頃までは、歩行案外に容易なりしも、漸く之を右方下部に見る頃に及んで、雪の下層堅くして上層軟らかに加ふるに、傾斜急にして歩に鳶口の扶(たすけ)なくしては進むこと能はず、且つ此の辺は疾風の雪を吹き立ること最も烈しく、屡々其の襲ふ所となり、辛うじて進みたる歩は、直に六七尺吹き下げられ切歯再び這い上らんとする途端、二度の襲来に逢ふが如き困難も亦た少々ならず、午後一時五分五合目に達す、此處にて喫飯し、直ちに出発して六合目に向ふ、此の間は雪は疾風の為めに吹き取られ、處々岩石露出するを以て転下せんとするの懼れは反って少なかりき、六合目に達し此處に一泊すべきや、叉は直ちに頂上に至るべきや、或は八合目に至って宿すべきやを議し、遂に其の第三説に決し六合目を発し七合目に向ふ、此の間も亦た山骨露出して歩行稍々容易なり、七合に至って積雪頓に深く其の室の如き全部埋没して到底其の内に入ること能はず、則ち直ちに此処を発し斜めに西して八合目に向ふ、雪の深さ殆ど股に達す、八合目の直下に至るや岩石漸く大に積雪の状亦た一様ならず、或は深さ丈餘に達し、或は岩角顕はる、思ふに此の辺風勢猛烈なるが為め突出せる地の雪は風に吹き去られ、自ずから凹處に堆積せしものならん、午後八合目に達す、室前なる積雪を掻き除け、戸を破って入る室内は雪堆積し桁梁悉く白し、先づ燃料を捜し出し、之を焚きて暖を取り、僅かに活気を保つを得たり、一同喫飯し了り有合う荒筵を取り出して焚火の周囲に横臥したれども、寒気の為め殆ど眠りに就きたる者なし、其の臥したる様は恰も乞食小屋を見るが如く覚へず、一笑をも催ほしたり

胸突の難所 翌十一日午前八時出発す、此処より以上は名にし負ふ大ダルミ胸突きの難處とて、夏時登山の時すら容易の場所に非ざるのみならず、寒気も一層酷烈を覚ゆ、行くこと未だ数十歩ならざるに、指頭全く感覚を失ふ、初一行の室を出づるや風勢稍々穏やかなりしも、大ダルミを過んとする頃、風威頓に強烈にして例の如く雪を捲上げ、驀地(まっしぐら)に頂上より吹下し、其の寒冷なること数枚の衣服を透ほして皮膚を刺さるるが如し、此に至りて一同進むこと能はず、或は十間或は五間を隔てて岩陰に蹲踞し、殆ど為す所を知らず、而かも頂上は既に眉睫(びしょう)の間に在るを以て一同勇を鼓して進み胸突に懸るや風勢益々烈しく到底進む能わず、勝叉熊吉氏が負いし所の背負子の紐縄風に吹切られて後へに翻へりたる勢にて、同氏も共に打ち倒れたれども、幸いに転下せず叉負傷なかりし、一行は之を見て背負子を収め、再び立たんとするや之に結束せし飯温め復た風に吹取られ矢の如く宙を飛び、櫃の如きは微塵に砕けて其の之く所を知らず、是に於て一行は強いて此の烈風を冒して進むの不得策なるを見て、一旦八合目に戻るに決したり

山上の対面 翌十二日午後十時勝叉恵造同熊吉の両氏先づ発し、余等三人次で発して山頂に向ふ、此の日風稍穏やかなりしを以て、頂上に達することを得たり、頂上本社社前の邊は雪甚だ深きも、其の他の處は多くは岩石露出し殊に意外なりしは中央舊(きゅう)噴火口中に積雪の割合に深からざることなり、十一時四十分剣ケ峯観測所に着す、訪ひし者、訪はれし者、互に手を握て無事を祝し、彼一句是一句歓談時の移るを知らず、而しも午後に至り風勢の再ぎ猛烈ならんことを慮り、盡きぬ名残を惜しみながら午後一時十分別れを告げて剣が峰を出発す、果たして風勢漸く加わりしも、三時廿分無事八合目に帰着したり、同夜は此処に一泊、翌十三日午前八時八合目出発、途中多少の困難ありしも固より登山の時の比に非ず、且つ積雪大ひに減せしを以て案外速に下山することを得、午後二時卅分無事瀧河原佐藤與平次方に帰着したり、要するに今回の登山は少なからざる困難ありと雖ども、其の困難の原因は寒気よりは寧ろ烈風にありしかと思はる、勿論山上に於ては無風は望むべくもあらざるも、若し幾分か静穏なる日を期して登らば困難の程較々少なかるべしと信ず、尚ほ余の茲に特筆するは第一には登山を試みんものの當に充分の食糧を携ふべきことなり、蓋し山上は気候の変動すること甚だしく、ややもすれば風雪のため室内に蟄居せざるべからざるの恐れあればなり、第二には屈強の剛力を従へざれば充分の食糧を携ふること難く、叉行路に迷ふの恐れあり、實に今回の余等の一行が首尾よく其の行を果たしたるも勝叉熊吉、西藤鶴吉二氏の力與(あずか)つて大なりとす(完)

 新字新仮名

雪窟の起臥 しかるに四合目の室を右方上部に望む頃までは、歩行案外に容易なりしも、ようやくこれを右方下部に見る頃に及んで、雪の下層堅くして上層軟らかに加うるに、傾斜急にして歩むに鳶口の扶(たすけ)なくしては進むことあたわず、かつこの辺は疾風の雪を吹き立ること最も烈しく、しばしばその襲う所となり、辛うじて進みたる歩みは、直に六、七尺吹き下げられ切歯再び這い上らんとする途端、二度の襲来に逢うがごとき困難もまた少々ならず、午後一時五分五合目に達す、ここにて喫飯し直ちに出発して六合目に向う、この間は雪は疾風のために吹き取られ、処々(しょしょ)岩石露出するをもって転下せんとするの懼(おそ)れは反って少なかりき、六合目に達しここに一泊すべきや、叉は直ちに頂上に至るべきや、あるいは八合目に至って宿すべきやを議し、ついにその第三説に決し六合目を発し七合目に向う、この間もまた山骨露出して歩行やや容易なり、七合に至って積雪とみに深くその室のごとき全部埋没して到底その内に入ること能わず、すなわち直ちにここを発し斜めに西して八合目に向う、雪の深さほとんど股に達す、八合目の直下に至るや岩石ようやく大(だい)に積雪の状また一様ならず、あるいは深さ丈余に達し、あるいは岩角顕(あら)わる、思うにこの辺風勢猛烈なるがため突出せる地の雪は風に吹き去られ、自ずから凹処に堆積せしものならん、午後八合目に達す、室前なる積雪を掻き除け、戸を破って入る、室内は雪堆積し桁梁(こうりょう)ことごとく白し、先ず燃料を捜し出し、これを焚きて暖を取り、わずかに活気を保つを得たり、一同喫飯し終り有合(ありあ)う荒筵(あらむしろ)を取り出して焚火の周囲に横臥したれども、寒気のためほとんど眠りに就きたる者なし、その臥したる様はあたかも乞食小屋を見るがごとく覚えず、一笑をも催おしたり

胸突の難所 翌十一日午前八時出発す、ここより以上は名にし負ふ大ダルミ胸突きの難所とて、夏時登山の時すら容易の場所にあらざるのみならず、寒気も一層酷烈を覚ゆ、行くこと未だ数十歩ならざるに、指頭全く感覚を失う、初一行の室を出ずるや風勢やや穏やかなりしも、大ダルミを過んとする頃、風威とみに強烈にして例のごとく雪を捲上げ、驀地(まっしぐら)に頂上より吹下し、その寒冷なること数枚の衣服を透して皮膚を刺さるるがごとし、ここに至りて一同進むこと能わず、あるいは十間あるいは五間を隔てて岩陰に蹲踞(そんきょ)し、ほとんどなす所を知らず、しかも頂上はすでに眉睫(びしょう)の間にあるをもって一同勇を鼓して進み胸突に懸るや風勢益々烈しく到底進む能わず、勝叉熊吉氏が負いし所の背負子の紐縄風に吹切られて後へに翻えりたる勢にて、同氏も共に打ち倒れたれども、幸いに転下せずまた負傷なかりし、一行はこれを見て背負子を収め、再び立たんとするやこれに結束せし飯温め復た風に吹取られ矢のごとく宙を飛び、櫃のごときは微塵に砕けてそのゆく所を知らず、これにおいて一行は強いてこの烈風を冒して進むの不得策なるを見て、一旦八合目に戻るに決したり

山上の対面 翌十二日午後十時勝叉恵造同熊吉の両氏先ず発し、余等三人次で発して山頂に向う、この日風やや穏かなりしをもって、頂上に達することを得たり、頂上本社社前の辺は雪はなはだ深きも、その他の処は多くは岩石露出しことに意外なりしは中央旧噴火口中に積雪の割合に深からざることなり、十一時四十分剣ケ峯観測所に着す、訪いし者、訪われし者、互に手を握て無事を祝し、彼一句是一句歓談時の移るを知らず、もしも午後に至り風勢の再び猛烈ならんことを慮(おもんばか)り、尽きぬ名残を惜しみながら午後一時十分別れを告げて剣が峰を出発す、果たして風勢ようやく加わりしも、三時二十分無事八合目に帰着したり、同夜はここに一泊、翌十三日午前八時八合目出発、途中多少の困難ありしも固(もと)より登山の時の比にあらず、かつ積雪大いに減せしをもって案外速(すみやか)に下山することを得、午後二時三十分無事滝河原佐藤与平次方に帰着したり、要するに今回の登山は少なからざる困難ありといえども、その困難の原因は寒気よりはむしろ烈風にありしかと思わる、勿論山上においては無風は望むべくもあらざるも、もし幾分か静穏なる日を期して登らば困難の程やや少なかるべしと信ず、なほ余のここに特筆するは第一には登山を試みんもののまさに充分の食糧を携うべきことなり、蓋し山上は気候の変動することはなはだしく、ややもすれば風雪のため室内に蟄居(ちつきょ)せざるべからざるの恐れあればなり、第二には屈強の剛力を従えざれば充分の食糧を携うること難く、また行路に迷うの恐れあり、実に今回の余等の一行が首尾よくその行を果たしたるも勝叉熊吉、西藤鶴吉二氏の力あずかって大なりとす(完)

YM-18

資料番号  YM-18
資料名

野中至氏の現状

(病勢危急に瀕す)

年代

 1895年(明治28年) 12月18日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

野中氏の実情 富士山頂の有志者が野中至氏の令弟清氏と共に富士の絶頂に至氏夫婦を慰問して帰るら、氏等は健全無事なりのと報あり、前号以来登載する清氏の紀行中にも、絶て至氏の病気を記さざることなるが、這(こ)は全く野中氏が鉄石心より堅く口止めしたる結果にして、其の実を云へば氏は目下病に侵され、到底今後数月間を山巓に送るべからざる危急の有様に立ち至り居れり、山麓玉穂村の有志者が本社に寄せたる書面及び玉穂村長松井永賜氏が、此の儘に打ち捨て置くべきに非ず、何とか応急の手段を相談せんとて自身態々出京しての物語に依るに、至氏の容体は正(まさ)しく曾て本紙に記せる北海道其の他寒地に行はるゝ特殊の病気たる水腫病に罹れることにして、顔貌其の他痛く憔悴して、足部は脚気と同様に水腫を来し、氏が居室より観測室へ出掛くる間にも、ニ三回は小休みせねば一息には歩まれぬ危殆の容体を呈し居れりと云ふ、去るにても野中氏は斯程の病気に罹りながら、何故に健全なりと報せしめたるか、氏は飽く迄も斃(たお)れて後に止むの決心を有すればなり、又た此の容体が如何にして知れたるか、慰問者勝又恵造氏が深切なる注意に依りてなり

勝又氏の苦諫 過日山頂に野中氏を訪ひたる玉穂村の有志勝又恵造氏が野中氏に面会するや、氏の顔貌憔悴せるを見て、必定身体に異状あるべしと思ひて心痛に堪へず之を問ひたるに、野中氏は平気な面色にて、何事もあらずと答へしが、勝又氏は押し返して「不肖ながら僕は同志数百名の村民を代表し此の慰問の任に當れるものにして、中心君の容貌に不安の恐れあるを感じながら其の由縁をも問ひ究めずして下山しては、獨り僕の良心が許さぬのみならず、深切なる我が郷黨(きょうとう)に対しても済まぬ咄なれば、是非共包まず咄されよ」と切に問ひ質せしに、良人の心を酌みて今迄黙し居し至氏の令閨は、今はコウよと思ひ切りて具(つぶ)さに右の容体を勝又氏に告げたるより、至氏も左らば是非なしとて、其の脚部を勝又氏に示し、指にて押すに水腫の兆候歴然たり、且つ食欲も痛く減退して、気分甚だ宜しからずと其の実を明かしたれば、勝又氏は此に至りて愈々其の容易ならぬに驚き、命ありての物種なれば是非に下山して療養を盡し、更に再挙を企てられよと辭(ことば)を盡して至氏を諫めたり

野中氏の拒絶 至氏は此に至りて粛然として容(かたち)を改め「段々の御芳志且は山麓諸君の此の友愛は、身に余りて千萬忝(かたじ)けなけれども始めより斃(たお)れて止むの決心を抱き此の山巓に閉じ籠れる事なれば、病気に罹ればとて今更驚くべきに非ず、此の山上に観測の事業に従ふは至が天職なり、天職を全うし得んとて中道に倒れなば、至は天命と諦らむべし、至は冬季越年高層観測の天職あるを知り、至は身命を此の天職に捧ぐべきを誓ふ、此の他には栄誉も無く、生命も無く、有らゆる何ものも無し、況んや区々(くく)の病気をや、厳父慈母良師益友諸君の力に依りて建設せる此の観測所を枕にし浩然(こうぜん)剣が峯に絶命せば、至の能事(のうじ)畢(おわ)れる、亦た何かを憾みんや、至は此の心を以て心とせる事なれば、友愛なる君よ、願わくは至をして此の微志を成さしめられよ、至は實に此所一寸も動かざるの決心を定たり」と断然として言ひ放ち、復た動かすべくもあらで、勝又氏も其の熱心に感激し、暗然涙を飲みて復た一語なし、至氏は重ねて「君よ願くば僕をして僕の志を成さしめよ、果たして僕の願ひを容れられなば、下山の後は堅く此の事の秘密を保ち、至の親戚盟友何人たりとも實を告げ給ふこと勿れ、只だ至は無事に山巓に在りと語り給はれ」と懇々委嘱したれば、勝又氏は是非もなく之を承諾し、此に袂を分ちたり

勝又氏の苦心 勝山氏は下山の後ち、至氏への約語を重んじ一たびは世間へ向けて国家の無事を報じたるが、考ふれば考ふる程打ち捨て置き難く、玉穂村長松井永賜氏に実を告げ、尚ほ一昨日本社の石塚正治氏は同行登山の縁故もあれば、何とか考案を廻らし呉れよとの事を報じ越されたるより、本社にては一面之を厳父に報じ、一面之を公表して、余の志士仁人に告げ、如何に此の鉄石の如き志士を救護すべきかの方案を求めんと手配する内、昨日に至り松井村長の来訪を受けたり

松井氏の盡力 玉穂村長松井永賜氏は年配五十左右の好漢にして思慮周到、当初より頗る野中氏の擧を賛し、村民を糾合して大に氏の為めに尽力する所ありしが、勝又氏の報を得て憂慮に堪へず、一昨日に至る迄の間に種々村内を斡旋する所あり、同村の医師瓜生駒太郎氏は豪爽快活頗る侠骨あるを以て氏を山頂に赴かしめ、焦眉の手当てを為すことを嘱せんか抔、兎様角様(とさまかくさま)思推せしが、一と先づ厳父を訪ひて百事を相談するに如かずと決し、一昨夜同村を発して新橋に着し、昨朝先づ第一番に本社を訪ひて、具に事情を報じたる後ち、野中氏に至り下山勧告救援者派遣の相談に及び、周旋頗る勉めり

和田氏の厚意  中央気象台の和田技師は野中氏に対して師執の関係あり、予て野中氏の事業を嘉みし居りしが、前記の急報に接して大ひに此の気象上有益の事業の中道にして挫折せんことを憂へ、其の筋にも稟議する所あり、沼津測候所出張の命を帯びて同地に至るを幸ひとし、本日午前出発して雪中の登岳を試み、野中氏を要して下山せしむるの考へなりと云ふ、和田氏は此こと事に付き説を為して、気象観測は一部分の成功と雖も、猶ほ十分の成功なり、例へば家屋の如きは礎石の置据へより家根葺に至り、敷居、鴨居戸、障子の取り付けに至るまで之を全くせざれば全部の竣功と云ひ難けれども、気象観測の如きは一日観測すればソレ丈けの効益あり、富士測候所閉鎖後、今日に至るまで野中氏が観測したる結果は、實に帝国気象上に取りて非常の賜ものなりと云はざるべからず、故に野中氏にして今日下山するも、決して効無しと云ふべからず、此の偉功を奏しながら好みて死地に就くは、決して学者の為すべき所に非ずと云ひ居らるゝ由なり

野中氏の厳父 至氏の厳父勝良氏は、至氏が不屈不撓の精神は予てより熟知し居らるる事とて、今回の報に接するも、不測の変あらば其迄の運命のみと諦らめ、例に依り悠揚として迫られざるが、和田氏及び山麓村民諸氏の好意には痛く感激し居らるゝと云う

決死の夫婦 勝又氏の噺に依れば、野中測候所開始以来、至氏は一日十二回を観測の回数と定め、爾来(じらい)更に怠ること無し、病余の身を以て毎日二時間毎に一回の観測を一人して怠らざる至氏の熱心實に感ずべし、叉た至氏の夫人は登山の初発には疲労の為め病疾を起し、後には扁桃腺(咽喉佛の近所に)當豆大の腫物を生せしが、至氏に迫りて之を切開し呉れよと求め治療功を奏せざれば其れ迄のみ、死は始めより決し居れど乞ふ人事を盡して止まんと云ふにぞ、至氏も是非なく鎗にて右の腫物を突き破り、化膿を排出せしが、此の気象家の外科治療、意外な功を奏し、右腫物の治癒せし後ちは身体頗る健全と為り、甲斐甲斐しく良人を助け居れりと云ふ

此の勇士を救へ  至氏の勇決は左ることながら、明治の社会は此の志士を見殺しにすべからず、宜しく之を救護するの道を盡すべきなり

 

野中氏の実情 富士山頂の有志者が野中至氏の令弟清氏と共に富士の絶頂に至氏夫婦を慰問して帰るら、氏等は健全無事なりのと報あり、前号以来登載する清氏の紀行中にも、絶て至氏の病気を記さざることなるが、這(こ)は全く野中氏が鉄石心より堅く口止めしたる結果にして、その実をいえば氏は目下病に侵され、到底今後数月間を山巓に送るべからざる危急の有様に立ち至り居れり、山麓玉穂村の有志者が本社に寄せたる書面及び玉穂村長松井永賜氏が、このままに打ち捨て置くべきにあらず、何とか応急の手段を相談せんとて自身態々(わざわざ)出京しての物語によるに、至氏の容体は正(まさ)しくかつて本紙に記せる北海道その他寒地に行わるる特殊の病気たる水腫病に罹れることにして、顔貌その他痛く憔悴して、足部は脚気と同様に水腫を来たし、氏が居室より観測室へ出掛くる間にも、ニ三回は小休みせねば一息には歩まれぬ危殆の容体を呈しおれりという、去るにても野中氏は斯程の病気に罹りながら、何故に健全なりと報せしめたるか、氏は飽くまでも斃(たお)れて後に止むの決心を有すればなり、またこの容体が如何にして知れたるか、慰問者勝又恵造氏が深切なる注意によりてなり

勝又氏の苦諫 過日山頂に野中氏を訪ひたる玉穂村の有志勝又恵造氏が野中氏に面会するや、氏の顔貌憔悴せるを見て、必定身体に異状あるべしと思いて心痛に堪えずこれを問いたるに、野中氏は平気な面色にて、何事もあらずと答えしが、勝又氏は押し返して「不肖ながら僕は同志数百名の村民を代表しこの慰問の任に当たれるものにして、中心君の容貌に不安の恐れあるを感じながらその由縁をも問い究めずして下山しては、独り僕の良心が許さぬのみならず、深切なる我が郷黨(きょうとう)に対しても済まぬ咄(はなし)なれば、是非共包まず咄されよ」と切に問い質(ただ)せしに、良人の心を酌みて今迄黙し居し至氏の令閨は、今はコウよと思ひ切りて具(つぶ)さに右の容体を勝又氏に告げたるより、至氏も左らば是非なしとて、その脚部を勝又氏に示し、指にて押すに水腫の兆候歴然たり、かつ食欲も痛く減退して、気分甚だ宜しからずとその実を明かしたれば、勝又氏はここに至りて愈々その容易ならぬに驚き、命ありての物種なれば是非に下山して療養を尽し、更に再挙を企てられよと辭(ことば)を尽して至氏を諫めたり

野中氏の拒絶 至氏はここに至りて粛然として容(かたち)を改め「段々の御芳志且は山麓諸君のこの友愛は、身に余りて千萬忝(かたじ)けなけれども始めより斃(たお)れて止むの決心を抱きこの山巓に閉じ籠れる事なれば、病気に罹ればとて今更驚くべきに非ず、この山上に観測の事業に従うは至が天職なり、天職を全うし得んとて中道に倒れなば、至は天命と諦らむべし、至は冬季越年高層観測の天職あるを知り、至は身命をこの天職に捧ぐべきを誓う、この他には栄誉も無く、生命も無く、あらゆる何ものも無し、況(いわ)んや区々(くく)の病気をや、厳父慈母良師益友諸君の力に依りて建設せるこの観測所を枕にし浩然(こうぜん)剣が峯に絶命せば、至の能事(のうじ)畢(おわ)れる、なた何かを憾みんや、至はこの心を以て心とせる事なれば、友愛なる君よ、願わくは至をしてこの微志を成さしめられよ、至は実に此所一寸も動かざるの決心を定たり」と断然として言ひ放ち、復た動かすべくもあらで、勝又氏も其の熱心に感激し、暗然涙を飲みて復た一語なし、至氏は重ねて「君よ願くば僕をして僕の志を成さしめよ、果たして僕の願いを容れられなば、下山の後は堅くこの事の秘密を保ち、至の親戚盟友何人たりとも実を告げ給うこと勿れ、只だ至は無事に山巓に在りと語り給われ」と懇々委嘱したれば、勝又氏は是非もなくこれを承諾し、ここに袂を分ちたり

勝又氏の苦心 勝山氏は下山の後ち、至氏への約語を重んじ一たびは世間へ向けて国家の無事を報じたるが、考ふれば考ふる程打ち捨て置き難く、玉穂村長松井永賜氏に実を告げ、尚ほ一昨日本社の石塚正治氏は同行登山の縁故もあれば、何とか考案を廻らし呉れよとの事を報じ越されたるより、本社にては一面之を厳父に報じ、一面之を公表して、余の志士仁人に告げ、如何に此の鉄石の如き志士を救護すべきかの方案を求めんと手配する内、昨日に至り松井村長の来訪を受けたり 松井氏の盡力 玉穂村長松井永賜氏は年配五十左右の好漢にして思慮周到、当初より頗る野中氏の擧を賛し、村民を糾合して大に氏の為めに尽力する所ありしが、勝又氏の報を得て憂慮に堪へず、一昨日に至る迄の間に種々村内を斡旋する所あり、同村の医師瓜生駒太郎氏は豪爽快活頗る侠骨あるを以て氏を山頂に赴かしめ、焦眉の手当てを為すことを嘱せんか抔、兎様角様(とさまかくさま)思推せしが、一と先づ厳父を訪ひて百事を相談するに如かずと決し、一昨夜同村を発して新橋に着し、昨朝先づ第一番に本社を訪ひて、具に事情を報じたる後ち、野中氏に至り下山勧告救援者派遣の相談に及び、周旋頗る勉めり 和田氏の厚意  中央気象台の和田技師は野中氏に対して師執の関係あり、予て野中氏の事業を嘉みし居りしが、前記の急報に接して大ひに此の気象上有益の事業の中道にして挫折せんことを憂へ、其の筋にも稟議する所あり、沼津測候所出張の命を帯びて同地に至るを幸ひとし、本日午前出発して雪中の登岳を試み、野中氏を要して下山せしむるの考へなりと云ふ、和田氏は此こと事に付き説を為して、気象観測は一部分の成功と雖も、猶ほ十分の成功なり、例へば家屋の如きは礎石の置据へより家根葺に至り、敷居、鴨居戸、障子の取り付けに至るまで之を全くせざれば全部の竣功と云ひ難けれども、気象観測の如きは一日観測すればソレ丈けの効益あり、富士測候所閉鎖後、今日に至るまで野中氏が観測したる結果は、實に帝国気象上に取りて非常の賜ものなりと云はざるべからず、故に野中氏にして今日下山するも、決して効無しと云ふべからず、此の偉功を奏しながら好みて死地に就くは、決して学者の為すべき所に非ずと云ひ居らるゝ由なり 野中氏の厳父 至氏の厳父勝良氏は、至氏が不屈不撓の精神は予てより熟知し居らるる事とて、今回の報に接するも、不測の変あらば其迄の運命のみと諦らめ、例に依り悠揚として迫られざるが、和田氏及び山麓村民諸氏の好意には痛く感激し居らるゝと云う 決死の夫婦 勝又氏の噺に依れば、野中測候所開始以来、至氏は一日十二回を観測の回数と定め、爾来(じらい)更に怠ること無し、病余の身を以て毎日二時間毎に一回の観測を一人して怠らざる至氏の熱心實に感ずべし、叉た至氏の夫人は登山の初発には疲労の為め病疾を起し、後には扁桃腺(咽喉佛の近所に)當豆大の腫物を生せしが、至氏に迫りて之を切開し呉れよと求め治療功を奏せざれば其れ迄のみ、死は始めより決し居れど乞ふ人事を盡して止まんと云ふにぞ、至氏も是非なく鎗にて右の腫物を突き破り、化膿を排出せしが、此の気象家の外科治療、意外な功を奏し、右腫物の治癒せし後ちは身体頗る健全と為り、甲斐甲斐しく良人を助け居れりと云ふ 此の勇士を救へ  至氏の勇決は左ることながら、明治の社会は此の志士を見殺しにすべからず、宜しく之を救護するの道を盡すべきなり


YM-19

資料番号  YM-19
資料名 野中至氏の書簡
年代

 1895年(明治28年) 12月20日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

左に記せるは、去る十二日勝又恵造氏等が登山して野中至氏を見舞ひたる際、至氏が鉛筆もて紙片に認め、八合目なる令弟清氏に送りたる書簡を其の儘摘抄したるものなり、山頂の寒気、其の困難の有様等、歴々として書中にあり

御祖母様御両親様初め御無事皆々様にも御無事卿も御無事家事は打ち捨て学事専一に御励みあれ

御来訪の諸君へ宜しく郡司君にもよろしく

清殿          至

思ひも寄らぬ御訪問に預かり有難く存じ候、両人共先づ体の機嫌を取り、兎や角凌ぎ申し候、頂上は夏とは具合全く異なり逆上甚だし、返書なぞは書けぬ、平地と異なり火力を要する予想以上に超ゆ、燃料続く丈け滞在の積もり(云々)千代は先づ唯今の處にては下山せぬも宜しかるべし、又迚(とて)も下山はせぬ、今日正午最低零下二十七度五分なり、凡ての分凍らざるなし毎日夜風と戦争下界の事思い出せばやるせなし、果ては大息するのみ、然しつらきは覚悟の上、何事も辛抱辛抱、尚ほ荒増(あらまし)の話は恵君より聞かれたし、気象學會、報知朝日新聞社其の他等へ報告をせねば済まね共、此の地は何事も無理出来ず、然るべく断はられ度、此の地医もなく薬もなければ雪に骸をさらすの外なし、諸事試験中とは乍申(もうしながら)面来は覚悟の前、何事も御国の為めと唯々辛抱づくに候、兎に角無事越年を遂度(とげたき)ものに候、頂上は一日も寧日(ねいじつ)なし、寒気にせよ平地ならば何でもないと思へども、此の地は一種の筆法あるには困る、一度寒中此の地に寝食した者は平地にて苦しいのつらいのと申す人の腹が分からぬ實に勿体なくして口に出された沙汰でない

●野中氏慰問の篤志家 野中至氏が其の職務に対して献身的の忠誠を抽(ぬき)んづるを見、且つ其病状の危急に瀕する聞きては、江湖幾多の志士必ず其心を動かす事なるべきが、浅草なる椎塚七平氏は左の懇篤なる書状と義金を寄贈せられたり

吾は、貴社が社会の為めに常に有益なる業務を他新聞に先んじて吾人に紹介さるるの労を感謝す、吾は泣けり、野中氏に関する今日の報を見て否な独り吾のみならず血あるものとして、之を聞きて涙を漑(そそ)がざるものは蓋しあらざるべし、吾は氏が天職と確信し居る気象観測事業の為のみならず、氏が為めに献身的精神の塊たる我が国婦人社会の為に其模範となるべき妻女の為に、徹頭徹尾之を救護せざるを得ず、若し氏をして万一のことあらしめば、此の事業をして挫折せしむると共に、此の良?(ふ)をして不幸の淵に沈ましめざるを得ず、願くは貴社に於て氏を救護するの中心点と為り、一時一刻も早く氏をして下界の風軟らかき寝台の上に移らしめよ

吾は斯くの如く熱心に感激絶叫すれど、未だ不幸にして微力者なれば、之が運動を佑くる能はず、實に遺憾とする所なり、茲に僅少なれど、金一園を貴社に託す、何卒救護の際の費用の一部分に加へらるゝを得ば、満足の至りに不堪候

 浅草区諏訪町三番地

十二月十八日      椎塚七平

野中家の人々が此の厚意に感謝さるべきは勿論なれども、其の義金に至りては定めて之を辞さるることなるべきが、今日の謀(はかりごと)は至氏及び夫人千代子を要して下山せしむるの外無く、剛力其の他の費用も又、量られざるものあるべし、本社は常に野中氏の為めに尽力する富士山巓の有志者と交渉して、必ず適当の用途に之を支出せんことを期す

   

YM-20

資料番号  YM-20
資料名 和田氏の富嶽登攀
年代

 1895年(明治28年) 12月20日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

和田氏の発程  中央気象台の和田技師が野中至氏を富士山頂に訪ひ、下山療養を勧告する為京地を出発せしことは既に記せしが、同氏は予て年末には嶮を冒して野中測候所を訪ひ、其の実況を視察するの意見を抱き、僚友にも謀りし事ありしが、僚友は其の行程甚だ危険なる故見合せられよと、親切に忠告せし人多かりしに、今回野中氏疾病の報に接するや、一通りの事にては野中氏の剛情なる到底下山すべくもあらずと見て取り、身自(じしん)馳せ向ひて之を説くの決心を起せし訳にて、此の程至氏の厳父に面会の折にも、病勢危殆(きたい)ならば断然下山せしむるの外無し、令息も剛情の人にはあれど僕も亦た決心あり、時宜に依らば極論放言「死は決して気象学の目的に非ず、活きて斯道に盡すこと最も斯道に忠実なるものなれ、然るに君が生命を軽んずる何ぞ甚だしき、僕は君が斯道の忠士なるを信ぜしに、頑として斯くの如きは存外の不忠ものと謂ふべし」と罵倒しても尚ほ其の決心を翻へさしむべしと物語りし由なるが、和田氏は此の覚悟を抱きて愈々去る十八日午前八時五分新橋を発し正午御殿場駅に着して、午後四時山麓中畑村に着し登山の準備に着手せり

中畑村民諸士の尽力義挙 中畑村民諸氏が野中氏の為に盡力せることは屡々(しばしば)記載せし所なるが、今回和田氏の登山に付いては松井村長始め殊に周旋尽力する所少なからず、御殿場駅には和田氏の出迎えとして筑紫御厨分署長、平岡巡査、勝又恵造氏、佐藤與平治氏外両名出張し居り、和田氏を案内して中畑村村長役場前の福島某方へ延き、松井村長は同所に在りて夫々周旋する所あり、剛力は既に屈強の人物五名を選定しありしが、尚ほ之にては不足なりとて更に五名を増員することとし、夫々人選に着手したり、蓋し此の際に要する剛力の事なれば、尋常金銭の為に使用を望むものにては実際其の役に立たず、義侠の精神を体し進みて働くものならでは到底途中の艱難に堪えざる故、松井村長は予てより是等の事に注意する所ありて、其の人選に怠らざりしなり、斯くて十九日には、中央気象台より「本日山上強風ならん」との電報あり、右夫人(にんぷ)選定、登山準備等の整頓等に同日を送り、一行は愈々翌廿日を以て登山することと定めたり

登山準備の概要 勝又恵造氏は自身登山の経験あり、凡そ四五日を費やして登山を全くすべき計画を施さざれば危険の恐れありとて、其の設計を立て、糧食、薪炭、見ず、石油、蝋燭等夫々人数に割り当て四五日分を携ふることと為り、十九日は和田氏之を督して其の整頓を全くし、翌二十日を待てり

一行の登山  廿日の佛暁(ふつぎょう)には一行悉く中畑に集会せしが、登山して野中測候所に至る人々は、和田技師及び特に登山の官命を受けたる筑紫署長平岡巡査の外、中畑村役場の書記某、勝又恵造の諸氏にして、彼の鬼熊と異名を取りたる中畑第一の大剛力勝又熊吉は剛力頭として自余の剛力十名を率ひ、一行総べて十六名道を瀧河原に取りて、白雪皚々(がいがい)たる山巓に向ひたり、而して一行は野中氏を要して下山せしむる考へなるが野中氏は病気の事にもあり、婦人千代子も共に山路の跋渉(ばっしょう)に堪ふべくもあらねば、野中氏夫婦はモッコウにて荷い卸す計画にて、其等の準備全く整い居りぬ、此の一行が下山の日取りは固より不分明なれども明日頃は多分下山の運びとなるべし

有志者山中の各室に応援隊を駐屯す 中畑村は云うに及ばず富士山麓の各地は、殊に野中氏の為めに同情を表することとて、駿東郡の人々は冬季に山頂を慰問せんとて現に慰問事務所を起し居る事なるが、中畑村は屡々(しばしば)野中氏と相接せる事とて一層同情を表し、松井村長の如きは常に福島大佐の単騎旅行、郡司大尉の占守開拓、野中氏の富士冬季測候は世界に対して誇称すべき東洋の三大事業なりと称え、村内の婦人子供に至るまで朝々暮々富嶽の頂上を仰ぎ見れば、必ず野中氏夫婦は今頃は如何に暮らし居らるるならんと語り合う程の事なれば、今回和田氏の登山に対して其の深切を盡せること右の如きのみならず、村内の有志は之にも飽き足らでや、有志二十余名相建議し和田氏の一行に尾して山中の各室に出張し、一行の為めに登山下山の折に於ける不慮の事変の場合に応援を供せんとて、共に山上に向ひたりと聞きぬ、中畑村民の義気實に感称すべし

   

YM-21

資料番号  YM-21
資料名 和田氏登山の別報
年代

 1895年(明治28年) 12月24日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

和田氏一行の登山者 一昨日富士山麓瀧河原より接手したる一報に依れば、彼の和田技師に随ふて野中測候所に向ひたる一行は都合十一名にして、其の人々は

技師 和田雄治  御坊警察署長 筑紫忠徳

巡査 平岡健次郎 剛力     勝叉熊吉

剛力 斎藤鶴吉  同上     鈴木政太郎

同上 福島興一  同上     勝叉萬次郎

及び御殿場駅剛力高杉某外二名為り、之を前報に比すれば一行中勝叉恵造氏中畑村役場書記某氏及び剛力三名の欠員せるを観る、発するに臨み或は何等かの故障の為め此に至れるならんか

一行の宿泊 瀧河原より山上を眺めたるに、和田氏の一行が登山したる廿日の夜には山の五合目に於て火光を認め得たり、因って案ずるに同一行は廿日に五合目迄登り、此に宿泊したることなるべし、而して二十一日は山下至極の好天気なりしかば、一行は同日中に無事頂上に達したるなるべく、随って下山の日取りは廿二日なるべしと村民は待ち受け居れる(昨日午前には未だ下山の報に接せざりし故、此の予定通りには運ばざりしならんか)

名誉の剛力 前記八名の剛力は、何れも練りに選りたる屈強のものなるの中にも、勝又熊吉は前号にも記せる如く、同輩中にて鬼熊の異名を取り、勝又恵造氏が第ニ回の登山の折には之を助けて頂上観測所に導きたる、富嶽剛力の先達にして斎藤鶴吉と云へるは、曾て野中夫人千代子を山頂に送れるとき婦人は元来婦女としては大兵(だいひょう)の方なるが七合目より右の鶴吉之を背負ひ測候所まで送りしに、途中には彼の胸突の難所、馬の背の渡り場等の嶮路あるにも拘らず、七合目より測候所まで僅かに二回小憩したるのみにて易々と之を負い徹したり、而して両人共野中氏の事業に対しては満腔の同情を表し、従来其の用を達せしこと少からず、今回も奮って其の睨みに當りしことにて、鬼熊は野中氏を鶴吉は夫人を負ひて下山するの割役りに當れりと云ふ

中畑村民の熱情 中畑村民の同情を野中氏に表せることは屡々記せし所なるが、実見すれば其の熱心殊に驚くべきものあり、全村数十戸大人より小供に至るまで、我劣らじと下山を迎ふるの準備を整へ、後るゝを愧づるの有様、實に感ずるに堪へたり、廿二日夕刻には下山の運びと為るべしとの想像より有志勝又十三郎、福島保三郎の両名は三合目にて一行を待ち受くる積もりにて、同日未明に炊具を用意して登山し、叉た瀧河原の佐藤與平次氏及び其子五郎氏と共に熱心に野中氏の事業を助け来たりしが、五郎氏は有志数名と共に駕篭及び馬を用意し、廿二日午後太郎坊迄出迎ひに赴きたり、叉た誰の発議にや何時の間にか村民は数十名の同氏の糾合して手に手に猟銃を携へて裾野より上り、太郎坊近辺にて兎狩りを催し、下山の一行を待ち受けて之を饗せんとて、廿二日は裾野の巻狩りを催せりと云う

   

YM-22

資料番号  YM-22
資料名 野中氏夫妻の下山
年代

 1895年(明治28年) 12月26日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

父子の対面 廿四日夜九時頃瀧河原の佐藤方に野中氏夫妻を担ぎ込みしが、予て厳父勝良氏も此処に来たりて待受け居る表の六畳座敷に二人の床を設け炬燵を掛けて布団を暖め置きぬ、野中氏夫妻は速も歩くとことならねば駕篭の儘此の座敷へ担ぎこまれ、和田技師と厳父とにて静かに床に移して案臥せしめたるが、至氏は毛の襟巻に外套を着し、千代子は被布を着し、鳥打帽氏を戴き居たり、此の時勝良氏が至氏の口元に口を付けて「至、至」と呼びしも応答すること能はず、只静かに手を動かして厳父の顔を撫で廻せしのみ、千代子は至氏ほどに衰弱せざれば、勝良氏が同じく耳元にて「お千代」と声を掛けしに「御父さん残念でなりません」と云って声を放って泣き出せり、勝良氏は「己れが居るから大丈夫だ安心せよ」とて懇ろに慰めつゝ嬉し涙に目を潤しければ、見るもの共に袂を絞らざるはなかりき

直に治療を施す 義侠なる深原病院長瓜生駒太郎氏は先きに三合目と太郎坊にて診察の上救急療法を施し、徒歩にて付き添ひ来たりしが、瀧河原に着してよりも直に治療に着手し、足部の凍傷には予て用意し来りたる薬を塗り、包帯を施し、万端洩れなく手当をなせり後凡そ二時間を経て、野中氏夫妻は以前の容態とは異なり諸症減退して、至氏も始めて厳父と語を交ゆるに至りかば、三合目にては「是では迚も」と心の中に案じ居たる人々も、此に漸く安堵の思をなしぬ、瓜生氏は此夜は一泊して翌二十四日一先ず郷して細君の病状をも見たる上、二十五日は又瀧河原へ往診する筈なりし、家に重病に悩める妻子あるにも拘わらず、富士の半腹に待ち設けて救急療法を施すの如きは尋常人の及ばざる處、医は仁術なりとは瓜生氏に於てか之を見る

出迎の兎狩 廿三日に中畑村民数十名太郎坊まで出向ひ、兎狩を催して下山の一行を待受けしも、遂に下山せざりしかば、午後八時頃太郎坊を引上げて帰村し、翌廿四日にも亦た村民一同兎狩りしつつ待受けんとて此の日は鍋、釜、醤油、豆腐まで用意して出迎えたり、社員鮫島鉄馬も此の狩仲間に加わりしが、前日は三頭の獲物ありたるも、此の日は一頭だも打ち得ず、已むを得ず豆腐の汁のみにて下山の一行を饗応せしが、彼の鬼熊の如き何より結構なりと舌打ち鳴らして賞味せしは可笑しかりき

応援隊の出発 二十四日の朝より村民一同打ち連れて太郎坊に向ふ折りしも一人の剛力息せき切りて駈け来るあり是れなん和田氏一行に随ひて登山せし剛力鈴木政太郎なり此の消息吉か凶かと手に汗を握りて同人を取り巻き「口々に野中さんは無事か東京の旦那(和田氏のこと)は別条ないか」と問い掛けたり「野中さんは御夫婦ともに無事だ東京の旦那も無事どころか恐ろしい強い御方よ昨夜は八合目に泊まり今に下山の積もりなれば電報を打つため先へ帰ったのよ」と言い放ちて後をも見ずして瀧河原へ馳せ行きたり一同は茲に始めて安堵の思いをなして太郎坊に着せしに叉候高杉卯之吉と云へる剛力の今しも下りて憩へるを見る扨(さ)ては野中氏に変でもありはせぬかと様子を聞けば和田氏一行食糧に欠乏して今日は一人に付き餅二切れつゝより外になし左れば早く下りて飯の用意をなし置けとの事なりしと云へり村民は予て斯くもやあらんとて態々三合目まで炊具を用意して登せおきしも何か故障のありっしならん兎も角も各々持合の握り飯を集めて行かれる丈け持ち行かんと四つの握り飯を持てる者は二つは差出す事となし急ぎ登山せり社員鮫島の弁当は宿屋の仕出しにて村民のよりは上等なれば此れは和田氏へ贈る事となせり此の応援隊を率ゆるものは例の勝又恵造氏と野中氏定宿の子息佐藤藤五郎氏にて総勢凡そ三十人なりき

筑紫警部と平間巡査 頓て午後四時頃に至り二人の下山せるものあり即ち御厨分署長筑紫警部と平岡巡査なりつく警部は中体以下の小男なり官服の上に引き回しを着け鳶口を携へ少しも疲労の様子なし平岡巡査は禿頭豊髯(ほうぜん)身体又偉大なり顎の下の髭は一面に氷柱ブラ下がりて遼東半島の戦地に於ける哨兵(しょうへい)も斯くやと思はれたり、村民は氏に馬を進めしもイヤ歩く方なれば未だ十里でも平気よとて辞退せり左れども筑紫警部が疲労なくとも急ぎなれば好意に任せて騎らんと言ひしかば平岡巡査も之に従ひ二氏とも馬にて御殿場へと急ぎたり

残念ながら仕方がない 応援の為に糧食を用意して登山せる勝又氏以下は三合目に於て下山の一行に出会したるが勝又氏は野中氏の口止めせしにも拘わらず之を密告せし人なれば野中氏に向ひ實は御口止を破りて此の通りの始末に及び今さら謝するに辭なしと言ひしに野中氏は幽かなる息の下より「残念ながら仕方がない」と答へたり

用意の牛乳

剛力の名に背かず 二十四日の朝村民の一行は、太郎坊に出迎ふ途中に於て出会せる剛力鈴木政太郎は瀧河原に至りて野中勝良氏に面して親しく至氏の状況を話し、夫れより和田技師の為めに東京へ電報を発せん為、御殿場町に出で所用を済まし、瀧河原に帰りて多量の握り飯を背負い再び太郎坊へ引き返し、夫れより直に登山し、三合目にで和田氏以下に合したり、又剛力高杉卯之吉も食糧欠乏の急報をなしおき、太郎坊より応援隊の出発と共に折り返して登山せり、流石は剛力の名に背かず、殆ど人間業とは思はれざる程なり中にも政太郎の如きは前日九合目の胸突きと唱ふる難所にて誤って墜落し、六十間も下なる宝永山の頂き頗るキワドキ處にて止まり、今少しにて同山の洞穴にハマり無残の最後を遂ぐる所なりし、筑紫警部は之を見て迚(とて)も生命あるまじと声を掛けしも、政太郎はムックと起き上がりて来たりと、而して其の翌日は斯くの如く使者として下山し、又直に登山するの余勇あり鬼熊と好一対の剛力なりき

湯飩の好み 野中氏帰着の後凡そ二時間も経過せしに大に元気付き、至氏も稍々人心地するに至りて、厳父遠来の労を謝し、且つ途中の苦辛を物語り、八合目の小屋に着してより自分ながらも六(むづ)かしからんと思ひたれば寧ろ山上の観測所にて死ぬとは實に遺憾なりと思ひしと語り、夫れより宿婦を呼びて温飩(うどん)を望みぬ、宿婦の語る處によれば、野中氏は温飩が大好きにて、山から下る度毎に温飩を食するが例なりと、左れば今日も気分稍々快くなりたれば斯く温飩を所望せしなるべし

鬼熊鬼を恐る 斯くて其の夜の三時頃、来客も帰りて残りしは鬼熊一人のみなり、炉辺に集まりしは佐藤の家族と和田氏及び社員鮫島等にて鬼熊も亦た座を占めしが、時に鬼熊は佐藤五郎氏に向ひ「聞けば東京の新聞に己の事を鬼熊と書いてあるとの事なるが、鬼などと言われては、来年の山開きに御客が怖がりて雇ふて呉れる人があるまい、とんでもない事を書いてくれた」と呟やく、和田技師は鮫島を指さしつゝ「此の人が書いたのぢゃ」と云へば、鬼熊キットなり「旦那本当ですか」と云ふ、鮫島は気の毒にもあり可笑しくもあり、鬼と言ふは敢て恐ろしき意味に用ひしにあらず、剛力無双の強き處を書かんが為めなりと云へば、鬼熊語を継ぎ「夫れならば安心だが、己れは鬼は恐ろしいものに極つて居るから来年から御客が山の上で食われるはならんと思はれはせぬかと實に心配しました」と云ひしに、和田氏叉口を添へて「ソラそんな事を言ふと叉書かれるよ」と云えば、鬼熊「ヤー大変だ」と頭を掻き、一座為めに大笑ひとなれり

中畑有志の人名 此度和田技師の一行が野中氏を下山せしめたるは、同氏の義侠勇胆に由るものなるも、一は中畑村民の熱心なる幇助(ほうじょ)與つて力あり、剛力の如き金銭づくなら百円貰ってもイヤと言う程なるに此の度は皆奮って之に随ひ、各々家事を打ち捨て全村狂するが如くなりき、別けて此の中畑は富士の新道にして他の口よりは平易なる将来有望の地なり、此の新道開拓の発起人とも称すべき二十人組あり、野中氏の為めに全力を注ぐも多くは此の二十人組なり、其の他村長松井永賜氏及び書記芹沢良太郎氏等の奨励宜しきを得るあり、中畑の人気喬然として野中の為めに骨を惜まさるは其の純朴なる習俗の欽仰すべきものあるによらすんばあらず、茲に有志の姓名を列記して、義気熱情なる中畑をあまねく江湖に紹介せんに、中畑にては土屋喜一郎、勝又宗一、佐藤與平次、同五郎、福島儀作、同源作、福島新平、同保三郎、同久七、保科好平、勝又恵造、同萬次郎、同喜十郎、同堂蔵、同総次郎、同堂三郎、勝又壽十郎、同吉五郎、同儀之助、川柳にては有名なる勝又熊吉、土屋美之助、土屋宇平治等の諸氏なり

   

YM-23

資料番号  YM-23
資料名 野中氏夫妻の下山(続)
年代

 1895年(明治28年) 12月26日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

和田技師一行の登山 予報せし如く、和田技師及び筑紫警部等の一行十二人は野中至氏夫妻の下山を促がさんが為に、去廿日午前六時半瀧河原を発して富士山巓に向へり、此の日は幸いに好天気にて、午後三時ごろには難なく五合目に達したり、和田技師は勇を鼓して更に登らんとせしに、山慣れし剛力は頭を振りて之を諫め、積雪の為に一室の埋もれ居れば、之を開くに時間を要し、殊に山中に在りて寒中には、午後の五時以後は仕事の出来難きより、

小屋開き手間取るものと云ひしかば、一行は此に泊まり雪を切りて小屋開きに掛りしに、仕事中々困難にして二時間を費やし、辛うじて五時頃に至り始めて室に入るを得て、和田氏は剛力の先見に服したりとなん、夫れより夏中に用ひし板を敷き、燃料を焚きて暖を取り、此処に一夜を明かしぬ、明れば二十一日午後八時頃一行は室を出で絶頂に向ふ、此の日も天気は申し分なく登山は思ひしよりは容易なりしが、七合目に至りて剛力勝又萬次郎、鈴木政太郎、福島與一、高杉卯之吉の四名は、道を転じて黒岩を越へ、茲に一行は午後二時八合目に達せしも、相変わらず小屋開きの困難なるより手間取るべきを知りたれば、此処に泊まる事となし、小屋を開きて之に入りしは、午後五時なりき

枝隊の一行 道を黒岩越えに取りたる勝又万次郎外三名の一行は、頗る山馴れし熟練家にて、枝隊長とも云うべき勝又は曾て剛力を業とし、現に四合目の小屋主なれば、此の日の天気を大丈夫と見定め、道を黒岩越えに取るの利なるを説きしが、和田氏一行の自重するより、然らば先発と為りて赴くべしとて、本隊と手を分かちたることとなるが、何しろ近道を取りしこととて、枝隊の行進は意外に早く、本隊の一行が八合目に到着したる二十一日の午後二時には、此の枝隊は既に絶頂に達し、剣ケ峯の測候所に至りて野中氏夫婦に面し、和田氏一行登山の旨を告げて直ちに頂上の小屋に引つ返し、浅間本社の側らなる福島儀作の小屋を開きて茲に宿し、本体の来着を此処に待ち受けしは、頗る手柄と思はれたり、且つ感ずべきは、此の一行は予て観測所のものを貰いて野中氏の必要品を減乏せしむる勿れとの命を受け居りしより、剣ケ峯にて野中氏夫婦が一行に心計りの饗応を為さんとせしに、堅く辞して一切之を受けず、頂上の小屋に返りて携帯の食糧を取り出し、飢えを凌げりと云ふ

野中氏祖父の霊を祭る 十二月二十一日は野中勝郎氏の父君にして至氏の祖父にあたれる関哉氏の命日なりしかは、至氏夫妻は心ばかりの回向せんとて正面の壁に「三友軒関哉大居士」との戒名を貼はし、形ばかりなる供物を献じて法会を営み居りしに、突然屋外に声あり「瀧河原から参りました」と叫ぶ野中氏夫妻は夢に夢見る心地して戸を開きしに、此れは是れ和田技師の率  

 を先降枝隊の剛力四名なりしなり、夫妻は一行の厚き心の賜ものなるを知り、下界の音信はコレまでなりと思いし身の此の報を得るとは、祖父神霊の感応に由るものならんとて大に悦び、雪中登山の労を慰し、最と懇(ねんごろ)に労りしとなん、因みに云う野中の孝心深きは疾く聞く處にして、母堂の如きは嬉し涙に咽びて我が子ながらも感じ入ると言わるる事も度々ありしとか、今富嶽の絶頂に越年せんとして端なく二豎(にじゆ)の冒す處となり空しく死を待つの外なき境遇に在りながら、従容迫らず祖父の霊を祭るが如き、至氏至考の然らしむる處なりとは言へ、空前の美談なり、翌日和田技師が始めて至氏の室に辿り付きしときも、逸早く此の戒名を見付けて、至氏の孝心深きに感じ浩然たるもの、之を久しうせんりとなん

和田技師剣ケ峯に向ふ 和田技師の一行は、二十二日午前十時八合目の室を発して剣ケ峯に向かひ、十一時半頃剣ヶ峰に達す、至氏は前日剛力の知らせによりて、和田技師の登山せるを聞き、是までは疾病漸々重きを加へて寒中に打ち臥し居りしも、此の日は特に起き上がりて、強いて健康を粧ひ居たり是れ技師の為めに下山を促されんことを恐れたるに由るものならん、和田技師は他の剛力を頂上の小屋に留めおき、只筑紫警部、平岡巡査及び有名なる剛力鬼熊の三人を伴ふて野中氏の室に赴きしに、野中氏は欣然として一行を迎へしも、顔面蒼白にして更に血色なく、其の衰弱甚だしくて復た前日の野中氏にあらず、和田技師は斯程迄とは思ひ設けざることとて、一目見るより暗然として涙先づ落ち、何より語り出でん様もなく、暫く野中氏の顔を見つめて黙然たりしが、野中氏も亦た久し振りに和田技師に面会するを得て其の喜び譬ふるに物なく、是叉咽び入りて一語なし、客は悲しさに泣き、主人は嬉しさに泣く、筑紫警部、平岡巡査及び鬼熊も亦た、此の体を見て男泣きに泣き入りて室中暫く無言なりき

和田技師野中氏を説く 頓(やが)て和田技師は野中氏に向ひ、見受くる處君は容易ならざる病症に罹れるが如し、今にして下山せざんば、空しく屍を山頂に晒すのみ、斯道に取りて些の益する處なし、越年は今年のみに限らざるにあらずや、實は過日勝又恵造氏が訪問せしとき、君の病に悩めることを口止めされしにも拘わらず余に密告せしにより、余は其の筋にも稟議する處あり、病気の軽重に拘らず、是非とも下山せしむるの任を帯びて来れり、今日は一個人の和田雄治ならず気象台技師和田雄治なり、君にして下山を諾せずんば、強制して任務を全うすべし、と粛然として言い放ちけるに、至氏は慨然大息し、僕先生の好意は感謝に堪えず、然れども僕今中道にして止まば誰れか復た此の事業を成就するものぞ、一旦死を決して登山せしからは縦令割腹して屍を雪中に曝すとも決して貴命に応じ難し、と頑然として聞かず、和田技師は、至氏の厳父及び実弟よりの書簡を示しつつ、此の書面は依頼によりて持参せしも、余は元と野中家の使者にあらず、官命を帯びて此に出張せるものなり、故に此の二通は渡すも渡さざるも余の勝手なれば、先づ君の応答如何によりて決すべしとて、尚ほもしきりに下山を勧めたり、野中氏は暫く感慨に沈みしが、父及び実弟の音信は見たし、左らばとて下山するは潔(いさぎよし)とせざる處、暫し思案に暮れたるが、終に和田技師が将来の善後策は余が厭迄も引き受けたり、此の事業を中道にして廃するが如き事なきは余断然之れを請け負ふべし、と言ふに及んで、野中氏は漸く然らば貴命に随ふべしと答へしにぞ、和田氏は此に始めて厳父と実弟の書簡を渡したりとなん、夫より野中氏は然らば荷物をも片付くべしと立ち上がりにバッタリ倒れて起つ能わず、蓋し既に歩行出来難き程に衰弱し居たるなり

千代子越年を乞う 和田技師は時正に正午十二時なりしを以て流石は気象学者なり、造次(ぞうじ)にも其の職務を忘れず、自から起つて観測所に至り将さに観測せんとせしに、此の時までも黙然たりし夫人千代子は和田技師の跡を追い来たりて、其の足にすがり涙ながらに乞ひけるやう、良人至が越年観測を思い立ちしは十年前の事にして、其の四五年此の方と噂さるるは人様の仰せらるるに過ぎず、然るに今や事業漸く緒に就きて是れから越年せんとするに当り、先生に促されて下山するときは十年の宿志も空しく水泡に属する訳なれば、セメテ当年一杯なりとも留め置き玉へとて、切に乞ふて止まず和田技師も其の気丈なるに感ぜしも、態(わざ)と声を勵まして訳の分からぬも程があるもの、アノ容態にて何うなるかと心にもなき立腹の体を示せしに、千代子は一言の返す言葉もなく、ワッとばかりに泣き伏したり

剣ケ峯を立退く 和田技師は暇取りては明日の天気の程も分からねばとて、急ぎ立て器械類は必要のものは取り外して、他は据え付け置き、最低温度の如きは自己器械にて分るように仕掛け置き、彼の鬼熊をして至氏を負わしめ鶴吉をして千代子を負はしめて、剣ケ峯の観測所を立ち退きしは、其の日の午後二時頃なりき

八合目に達す 千代子は衰弱甚だしきも至氏の如くならず、従って背負ふにも造作なかりしが、至氏は極めて衰弱せる事とて、胸部を剛力の背にいつることを苦しみ、流石の鬼熊も手に余し一生懸命となりて今は礼儀作法も打ち忘れ「クマが付き居れば野中は殺さぬ」と声を掛けて励ましながら、頻りに道を急ぎしも、何分十七貫目もある大の男を毛布其の他にてクルミたることなれば、重さは重し、歩行為に捗らず、時に背合わせに負いて見ても是れ叉危険なれば之を中止し、遂に無理やりに野中氏を八合目の小屋に負ひ込みしは午後七時頃なりしが、千代子は日の中に疾くに着し居たり

人事不省  至氏が八合目に至りしときは既に人事不省となりしが、和田氏以下手を盡して介抱せし為め、暫くにして蘇生せり、叉鬼熊も絶頂の難所を必死となりて来たりしより心身疲労したるも大事は至らず、併し肝心の剛力にして此の位なれば、和田氏の如きは始終野中氏を励ましてシッカリせよと気を付けられりと

八合目を出づ 二十二日の夜は八合目に泊まり明けて二十三日午前八時出発登下山の途に就き、道を宝永山腹に取り、俗に走りと称する急坂を下りて、三合目に出でたり、此の日は野中氏が前日背負ひ方を苦しがりしを以て善き工風もがなと衆議を凝らし、遂に山馴れたるを以て名を知らるる勝又萬次郎氏の議に基づき、背負ひ子二つを丁字形に合わせ、此の上に野中氏を背合わせに負う事となせしに、大に具合よく病者の苦痛を減じ、夫妻とも此の仕掛けにて三合目まで無事に達するを得たり、至氏を負ひしは、矢張り例の鬼熊なりし

医師の診察  三合目には医師瓜生駒太郎氏が出迎ふるあり、此処に始めて医師の手当を施すを得たり、其の診断書の要領は左の如し

至氏  脈拍は九十二至にして最微呼吸急迫顔面少しく浮腫等の諸症あり救急療法を施す太郎坊に於て再診諸症前に仝じ

千代子 脈拍は八十九至呼吸急迫顔面蒼白にして嘔吐の気味あり嘔吐を催せしこと三合目にて一回馬返しの下にて一回帰着後諸症減退す

両人とも足部に紫色を呈し凍傷の症候あり直に治療を施せり

太郎坊に着す 三合目には勝又恵造氏外数十名、駕篭二梃を用意して出迎ひ居たれば、之より両人を駕籠に移して下山し、太郎坊に着せしは午後七時頃なり、太郎坊には村民は勿論松井村長芹沢訓導及び社員鮫島鉄馬等の待ちを受くるあり、共に駕篭の前後に付き添い、瀧河原の佐藤與平次方に着せしは午後九時なりき

和田技師の親切  和田技師は野中氏の師事せる人、此度官命を帯びて氏を下山せしめんが為、幾多の危険と艱難を拝して任務を完ふせしが、其の帰着するまでの間は駕篭の側に付き添ひ、丁寧に労りつつ、瀧河原まで徒歩して従へり、見るもの其の友情の篤きに感ぜざるはなかりき(未完)

●富士の近信(瓜生医士の義侠) 富士の裾野なる中畑の村民が我劣らじと野中氏の為に尽力することは、先前来の報道にて明かなるが、同村近傍なる駿東郡深原村の開業医瓜生駒太郎氏は、曾ても記せし如く、中畑村長松井氏が野中氏治療手当ての為登山を頼まんとせし人にて、侠骨陵々平素より義に勇むの美質家なるが、和田氏登山の報に接するや、瓜生氏は一行と共に登山して野中氏が焦眉の急を救はんと心構を為し居たりしに、生憎や登山予定の前日妻君の病勢劇しく体温四十度以上の高熱に冒され、長子も亦た病に罹りしより和田氏一行の登山に後れたるが、妻子の病勢少しく閑なるに至りしかば、兎にも角にも見舞の素志を果さんとて、予て用意せる防寒具を結束して二名の剛力を随へ野中氏下山の一行に出逢ふ所まで赴かんと、二十二日午後山上に向ひ同夜は二合五勺目に宿泊せるを見受けたれば、翌日は四合目乃至五合目にて下山の一行に出逢ひしなるべく随って野中氏の救急手当てに少なからぬ便宜を與へしならんと思はる、我社の石塚氏が先頃登山せし折、裾野付近の民情に親炙して淳獏太古の風ありと其の紀行にものせしが、一村の長より剛力に至るまで打ち揃ひて義に勇み、家に疾病の妻子を治療しつゝ単身嶮を冒して、山に愛敬する友人を迎ふるの医士あるに至りては、徳の棲む所此処を距(さ)る遠からずと思はる

   

YM-24

資料番号  YM-24
資料名 野中氏夫妻の下山(続)
年代

 1895年(明治28年) 12月27日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

日本人としては当り前なり 和田技師は最と軽装なるか如く見られたれば、定めし頂上にて寒かりしならんと問えば、否な頂上の寒気零下二十度位のものにして此の度合い内地に於て稀に見る處なれば、敢て凌ぎ得られざるにあらず、唯雪中の危険を冒して登る事なれば、其れだけの用意は肝要なるを以て斯く身軽にせしが、其れにても朝は少し寒さを感じたりと語りぬ、シテ幾枚着せるやと問ひしに、下はメリヤスのズボン下二枚切りにして、上はフラマルのシャツ二枚、紙子のシャツ一枚、毛糸のチョッキ一枚、メリヤスの二枚を着し、其の上にセビロの上衣を着し、脚絆に雪靴を履き、鳶口を携へ、鳥打帽を被れりと云ふ、社員は剛力が恐ろしい強い御方なりと呆れ居たりと言えば、東京の者はああ弱いものとばかり思い居るゆえ̪爾が思へるならん、成程東京の者としては強きやも知らず、左れども日本人としては当り前なり否な寧ろ弱き方なりと笑いながらに物語りぬ、見受くる處如何にも健足にして剛力の驚きしも無理ならずと思はれたり

カンジキの効用  雪中の登山には尋常一様の準備にては其の用を為さず、防寒の具は勿論雪靴、鳶口の如き之なくては一歩も到す能はざるものなり、中にも雪靴を底に付くべきカンジキなるものあり、鉄製にて雪靴の底に結付け、雪上を歩く度毎に深く喰込みて滑落を防ぐ仕掛けなり、野中氏の如きは是れにて数十度の登山に屡々之を試験せしも、格別の効用なきを以て、餘り必要とも思ひ居ざりしが、此度勝又恵造氏が第一回の雪中登山を試みしときは此のカンジキを用意せざりし為、空しく半途にて引き返し、其の後第二回目には登山の目的を達して野中氏の病を得たることを報道し、以て氏が屍を山頂に曝すの不幸を見ざるに至らしめたるが、此の時には前に懲りてカンジキを用意したる為、登攀容易かりしなり、左れば和田技師一行十一人は各々カンジキを用意し鳶口を携へたれば左しも滑脱極りなき、雪上を攀ぢ登りて而かも予定より一日早く下山するに至りしなりと云ふ

積雪丈余に及ぶ 富士の山頂には終年絶へざる太古の雪あることは夏時登山者の親しく見る處なり、其の厳冬隆寒の候にあたりて満山白皚々復た寸土を露はさざるは、此れ叉富士の見ゆる十三州のあまねく知る處なり、左れば登山するにも道とてはなく、此処等あたりと見当を取りて登る事なるが、中畑の富士道にては先ず太郎坊より一合目までは積雪なきも、試みに鳶口の尖きを以て土を掘れば、下は一面に積雪の氷り詰めたるものにして、其の上に土の被ぶり居るを見る、更に二合目に至れば最早雪あり、厚さ五寸許り夫より二合二勺目に至れば積雪の性質を異にし、此迄は歩くにもブクブクして却って心地好き様なるも、是れより先は滑べること甚だしく、カンジキ鳶口の力によらざれば登る能はざるなり、扨て三合目以上は更に急にして、登攀頗る困難を覚え、随って積雪も段々深くなり、終に頂上にては丈餘に及ぶものあり、彼の勝又万次郎以下四名の剛力が頂上に先着せしとき、浅間本社の側なる福島儀作の小屋を開きしときも一丈餘の積雪室を閉ざし、迚も尋常にては開く能はざりしが、小屋の勝手を知れるものあり、辛うじて他に入口を開きたりと、斯かる雪山を登りて難なく野中夫妻を救ひたる和田技師一行の危険艱難(かんなん)想像の及ばざるものあり

洗湯氷結す  野中氏夫妻は過る十月より山頂に籠り居りたれば、洗湯は何より望む處なれど、盥(たらい)もなければ風呂は尚更なし、偶々雪を熱して湯となし、之にて身体を拭んとすれば、忽ちにして氷結し、迚も思ふ通りに湯を使う能はず、此ればかりは大に閉口したりとなん

注文の箇条書 左れば小形の風呂にてもあらば沸かしながら湯を使うを得べければとて、野中氏は数か条の注文書を認め居たりと、此れは先に和田技師が勝又恵造氏に託して野中氏へ贈りたる書簡の末尾に、自分も年末の休暇には是非登山して君の現状をも確かめんと欲す、左れども止むる人もあれば、未だ確言する能はざれども、先ず成るべく登山の積もりなりと言い送りしかば、野中氏は萬に一ツも和田技師の登山することもあらんかと思い其の時は此れごれの品を注文して如何にもして届け貰はんと言ひ居たりと、其の注文書の中に第一に薪の欠乏せること小形風呂の事など認めありしとなん

薪の欠乏せし所以 始め野中氏が登山する折りには、薪炭は来年五月迄を支ゆる丈け用意し、殊に薪よりは炭の方に力を入れ多分に貯へしが、実地経験となりて案外に薪を要し、炭は逆上の気味多くして置き腐りの姿となり扨てこそ薪は不足を告げ、迚も来春二三月迄より外は支ふる能はざる程に至りたれば、若しも和田技師にして雪中登山を企つるの日あらば是非とも此れ丈けは注文せんと楽しみに思ひ居たりと、豈(あ)に図らんや注文せんと思ひし人は下山の天使ならんとは

炭山を破ること二回 彼の鬼熊の異名を取りたる剛力熊吉は川柳の炭焼きにして、寒中山籠もりして炭焼きに従事せる男なり、野中氏が山頂越年の計画あるや奮って之を助け甲斐甲斐しく働き居りしが、彼れの義気に富める仕掛りの家事を打ち捨てて野中氏の為めに二回まで炭山を破りしことあり、田舎の事とて炭山を起すには五円位の費用にて足れども、野中さんの生命は十円には換えられぬとて、此度も中畑の有志者より手紙を出して、野中氏が病気なるを通知するや否応なしに駆け付けたり、と炭焼き風情のものにして頬骨稜々たる熊吉の如きは得難き人物なり

医士其の他有志の慰問 先きには野中氏が下山するにあたり半腹に待ち受けて救急療法を施し、尚ほ瀧河原まで付き添ひて治療せし瓜生駒太郎氏あり、今叉大学院を代表したる医学博士三浦謹之助氏は、廿四日午後四時新橋発の汽車にて其の夜御殿場に着し、直に瀧河原なる野中至氏の宿處佐藤與平次方へ赴きて診察を遂げたり、叉大磯病院よりは予て御厨分署へ電報にて野中氏下山せば報じ呉れよとの申し越しありしが、同二十四日吉鶴善八氏出張して野中氏を慰問せり、何れも診察の結果生命に別条なしとの事なりしと、其の他駿東郡長代理郡書記某氏及び玉穂村村長松井氏、郡会議員勝又恵造氏を始め諸有志続々慰問し、野中氏の實父勝良氏は朝来応接に忙かりき(をはり)

   

YM-25

資料番号  YM-25
資料名 野中氏夫妻の容態
年代

 1895年(明治28年) 12月28日  

新聞社

 報知新聞

元データ 国立国会図書館所蔵
 

富士峯頭寄りの下山後、尚ほ中畑の瀧河原に在りて治療中なる野中至氏夫妻は其の後の経過甚だ宜しきも、至氏は重病の事とて腰は立たず足は凍傷にて動かざる由、千代子の方は至氏に比すれば大に経過宜しき方なりと云ふ、今至氏の厳父勝良氏が次男清氏へ宛てたる二十五日付の手紙を得たれば、左に掲ぐ

昨二十四日帝国大学より三浦謹之助君見舞はれたり此は当方より請求したる處案外にも大学各分科教員職員諸君一同の代表者として特に三浦博士を派せられ至を訪問せられたり至の光栄何ものか之に過ぎん又大磯の病院長吉鶴善八氏も昨日見舞われ三浦博士と協議し薬餌を投せられたり病状は二人とも脚気に異なるなし併し果たして脚気なるや否や断定し難きも多く間違いなき由なり而して容体は宜敷方にて二人共命には別条なきに付き七日も経ば大磯邊に連れ行くとも又は帰京するも可然との事なり一同安心すべし

其の他寺尾天文台長、沼津測候所員及び駿東郡原置村村長土屋好道氏等何れも野中氏を慰問せりと