資料(峡中日報)


1895年(明治28年)

資料NO

掲載年月日

掲載面 資料名 備考
MZ-81 1895年(明治28年) 9月13日     野中氏富士山探検談  
MZ-81-1 1895年(明治28年) 9月13日    第二回冬期富士登山記(承前)  
MZ-82 1895年(明治28年) 9月14日     第二回冬期富士登山記(承前)  
MZ-83 1895年(明治28年) 9月15日     第二回冬期富士登山記(承前)  
MZ-84 1895年(明治28年) 9月16日   第二回冬期富士登山記(承前)  
MZ-85 1895年(明治28年) 9月17日   第二回冬期富士登山記(承前)  
MZ-86 1896年(明治28年) 9月24日   富士山の大暴風  
MZ-87 1896年(明治28年)10月 9日   富士山其他の初霜  
MZ-88 1896年(明治28年)10月11日   甲府測候所への通知  
MZ-89 1896年(明治28年)12月23日   野中至氏と和田技師  
MZ-90 1896年(明治28年)12月 25日   高気層観測に就て  
MZ-91 1896年(明治28年)12月 26日   野中至氏の下山  

1895年(明治28年)

MZ-81

MZ-81-1-1

資料番号  MZ-81
資料名 野中氏富士山探検談
年代

 1895年(明治28年) 9月13日  

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
 内容

福岡県人野中至氏(東京控訴院判事野中勝良氏の息が)富士山巓に越年を試みんとするに付今左に其の来歴の一二を載せ併せて氏が第二回富士登山記を掲げて氏が困難と決心との状を彰表することと・・・ 


資料番号  MZ-81-1
資料名 第二回冬期富士登山記(承前)
年代

 1895年(明治28年) 9月13日  

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
 内容

余は前に第一回登山の始末を報道したれども其事半ばにして止み、未だ余の本懐を遂ぐること能はざりしを以て、今回は気力の続かん限り万難を排して是非とも望みを達せずんば止まじと心中堅く誓い、乃ち前回実験したる処を参酌して・・・(未完)


MZ-82

資料番号  MZ-82
資料名 第二回冬期富士登山記(承前)
年代

 1895年(明治28年) 9月14日  

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
 内容 本日は朝来既に天候宜しからず加ふるに東京出発依頼日々温暖なりしが此の地も前回に比すれば遥かに暖かなり・・・ (未完)

MZ-83

資料番号  MZ-83
資料名 第二回冬期富士登山記(承前)
年代

 1895年(明治28年) 9月15日  

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
   (未完)

MZ-84

資料番号  MZ-84
資料名 第二回冬期富士登山記(承前)
年代

 1895年(明治28年) 9月15日  16日?

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
  是より先一合辺りより此の辺迄は積雪の上を掠めて山上より(未完)

MZ-85

資料番号  MZ-85
資料名 第二回冬期富士登山記(承前)
年代

 1895年(明治28年) 9月17日  

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
   (完)

MZ-86

資料番号  MZ-86
資料名 富士山の大暴風
年代

 1895年(明治28年) 9月24日  

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
   

MZ-87

資料番号  MZ-87
資料名 富士山其他の初霜
年代

 1895年(明治28年) 10月9日  

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
 

 富士山及び県下各高山に降しり本年の初雪は左の如し

 本年   昨年

富士山   9月15日   9月22日

白根山 10月  3日 10月  5日

駒ヶ岳 10月  3日 10月31日


MZ-88

資料番号  MZ-88
資料名 甲府測候所への通知
年代

 1895年(明治28年) 10月11日  

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
 

先頃来峡せし中央気象台次長和田技師には野中至氏が富士越年の計画にて高層気象の観測に従事し居らるるに就き、沼津測候所と同山頂とに於ける符号を調整中にて当市測候所にも調整済の上は、参考として送付すべければ山頂に於ける標号反射器に就き観測せらるべしとの通知ありたるよし


MZ-89

資料番号  MZ-89
資料名 野中至氏と和田技師
年代

 1895年(明治28年) 12月23日  

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
 内容

野中至氏が積雪万畳の中、富士山巓に於て水腫病に罹り病勢余程危篤なりとは既に聞く處なるが、何分山上山下に隔居し通信の便全く杜絶せしことゝて其詳細の事は知るを得ず、之れが為め親戚知友は甚しく憂慮し、和田技師の如き此度沼津測候所へ出張を命ぜられたるを機とし其帰途には皷勇登山其疾病を見舞ふ筈のよし、然れども和田技師は果して野中氏夫妻を引連れ下山せらるゝや否は未だ知る可からず、和田技師も出立の際必らず同行下山することを言はず、登山其病勢を見たる上其模様に依て決せらるる都合なりと、元来極寒の地に在ては食欲甚だ長ずるものゝよ志、若し其食欲に任せ少しも節制を施す處なきに於ては必ず水腫病を引起すとの事なり、尤も運動さへ怠らずに行ふ時は罹病の憂はなしと、已に水腫病を起したる後は全く反対にて、食欲頓に減え竟(つい)に生命を落とすに至ること此病の経過なりとうは兎も角野中氏が斯学の為め此窮境に陥り、今や千難萬險を嘗めつゝあるもの真に気の毒の至りならずや、記者は氏の無事健全ならんを祈る


MZ-90

資料番号  MZ-90
資料名 高気層観測に就て
年代

 1895年(明治28年) 12月25日  

新聞社

 峡中日報

元データ  溝口克己氏提供
 

高気層観測は如何なる利益影響を社会に與ふるやに就き、其の気象学者の話を聞くに、先づ高山の類に於ける風位と下層を吹く風位とは全く反対のことあり、則ち高層で北風なるも下層は南風のことあり、叉暴風の時高層にては下層と異なりたる状況を生することありて頗る下層通常の観測のみにては分明し難き處あり、尚叉日光の温度に就いては山?にては夏時幾何(いくばく)冬時幾何等を精細に観測し、下層の者と対照して温度の差を算出し、之に依りて日光は気層一里の間に何度を冷却するやを知り、太陽の熱度は何度なりやの測定を為すを得る等、其の他直接には学理上、間接には経済上に大概の山々の?にては已に観測を為したれども、冬の高山の観測は未だ遂げたる者なければ、野中氏の回復して良好なる結果を得んは頗る必要なりと語れり


MZ-91

資料番号  MZ-91
資料名 野中至氏の下山
年代

 1895年(明治28年) 12月26日  

新聞社

 峡中日報

元データ 溝口克己氏提供
  富士山頂気象観測者野中至氏夫妻を迎ひの為めに登山したる和田技師と共に去二十二日第八合迄下山し、翌夜は瀧河原村迄帰着の筈にて夫妻共無事なりとの報あり