年 表

 

 

西暦 和暦

野中至(到)・千代子

富士山気象観測日本の出来事

       

1867

 

慶応 3

 

野中到 筑前国早良郡鳥飼村(現在の福岡市)に生まれる。父野中勝良、母トミ (8月22日) ※1, ※3  

1871 

明治 4 

梅津千代子(戸籍名チヨ) 福岡県警固村に生まれる。父梅津只圓、母糸子 (戸籍名「ヤス」、野中到の母トミの姉)(9月30日) ※1, ※3  

1875 

明治 8 

 

東京赤坂葵町に東京気象台が開設され、1日3回の定時気象観測を開始(6月1日) ※1  

1880

明治13

  東京大学教授メンデンホール(T.C.Mendenhall) らが富士山頂に滞在し、重力測定、気象・天体観測。東京気象台からも中村精男が参加 (8月3日-6日) ※9

1886

明治19

到 大学予備門に入学(尾崎紅葉と同じ下宿) ※1

 

 

1887

明治20

  気象台技師クニッピング(E.Knipping)らが、天文学者トッド(D.F.Todd)、東京気象台正戸豹之助と須走口頂上で天体・気象観測 (9月) ※9

1889

明治22

到 大学予備門を中退 .気象学に専念 ※1

国府津 - 御殿場 - 沼津間の鉄道開業、その中間駅の一つとして御殿場駅が開設(2月1日)

 

中央気象台技師 中村精男らが38日間にわたり本格的な気象観測 (8月1日-9月7日) ※9

1890

明治23

千代子 江木本店(神田淡路町)で写真撮影 (1月14日) ※3

*写真裏面に"富士登山前に母に遣すもの也"のメモ

 

1891

明治24

到・千代子結婚 ※1  

1893

明治26

長女園子誕生(7月27日) ※1, ※6  

1894

明治27

到 和田雄治に会い、高層気象学への志を披歴、援助を乞うとともに大日本気象学会に入会。恒久的な高層気象観測の必要を説き、温めていた計画を公表(8月) ※1

『気象集誌』に「富士山頂気象観測所設立の為に敢て大方の志士に告ぐ」を発表、世の理解と後援とを訴える(11月)

 

1895

明治28

到 第1回冬期富士登山 御殿場滝河原から登山(1月) ※1  

寒中の富士登山者(東京朝日新聞 1895年2月24日)

到 第2回冬期富士登山 御殿場滝河原から登山(2月) ※1   

到 御殿場 滝河原を拠点に観測所を建設のため東京を発つ(8月 1日) ※1

観測所竣工(8月28日) ※1

到 山頂観測所視察の官命を帯びて登山した和田雄治と 5日間観測所に滞在 諸器械装置を整備

(9月中旬) ※1,※13

到 気象測器等14品の借用証を中央気象台に提出 (9月28日) ※3

到 十数名の強力等と登山開始,午後9時観測所着(9月30日) ※1 

到 観測開始(10月1日午前零時) ※1  

千代子が園子を実家に預け出発(10月6日)  1

和田雄治に宛て「気象学会入会を希望する」旨の手紙を御殿場駅より出す(10月8日) 1

「気象集誌」第1輯14巻10号雑報に「野中千代子ノ通信」として全文掲載 ※2

千代子 登頂(10月12日)  ※1  

 

 

 

 

海軍大尉・郡司成忠の組織した千島拓殖団体・報効義会員 松井鋒吉, 女鹿角栄が強力を伴い慰問のため観測所を訪れ, 郡司からの書状や贈り物を届ける(10月28日)※1

 

和田雄治 到・千代子を救出のため東京を発ち御殿場へ向かう(12月18日) ※14

和田雄治一行11名(技師 和田雄治,警部 筑紫忠徳,巡査 平岡鐘次郎,人夫頭勝又熊吉,人夫7名) 滝河原から登山開始(12月20日) ※14

人夫4名が観測所に到達(12月21日) ※14, ※15

和田雄治一行 午前11時 観測所到着 到・千代子を伴って午後2時下山開始 (12月22日) ※1, ※5 ,※14

和田雄治 携行した最低温度計を観測所内に設置し示度を確認 (同日午後1時45分) ※16

瀧河原に到着(12月23日午後1時55分)

 
1896 明治29

千代子の「芙蓉日記」『報知新聞』に連載(17回) (1月7日~2月1日)

到・千代子 帰京(1月12日)

 

到・千代子 江木本店(神田淡路町)で登山姿で写真撮影(1月14日)

 

中央気象台吉田清次郎等 富士山頂野中観測所に到達。前年12月和田雄治が設置した最低温度計の示度を確認 (8月9日) ※16

到『地學雜誌』8~10月号に「富士山気象観測報文」を連続執筆

作家落合直文『高嶺の雪』を明治書院から刊行(9月)

 
1897 明治30

千代子 萬朝報『新選女大學』懸賞読本に応募、第1等となり賞金100円を得る。同誌附録として刊行(1月15日)

 
1898 明治31 長男喬 誕生(1月9日)※3    
1899 明治32 富士観象会を設立 ※9  
1900 明治33

富士山巓の観象臺』発行(2月28日) ※3

『地學雜誌』5月号・7月号に「富士観象事業に付て」 を執筆

 
1901 明治34

長女園子 尋常小学校 第弐学年修業(3月26日)

長女園子 死去(7月18日) 没年月7歳11ヵ月※1, ※3

富士観象会解散(委員長の渡辺洪基逝去を機に)※9

 

到 父 野中勝良 死去(9月4日)※3,※11

 
1903 明治36 次女智恵子 誕生(1月11日) ※3   
1905 明治38

経営危機にあった御殿場馬車鉄道を買収し、個人で運営 (野中御殿場馬車鉄道) ※10

 
1906 明治39 次男厚 誕生(11月5日) ※3      
1907 明治40  

佐藤順一 到の助言を得て御殿場滝河原から山頂に登る(1月25日)

「気象集誌」に論文「日本の高山観測」発表(2月) ※9

1909 明治42

三女恭子 誕生(7月6日) ※3  

到  滝河原に「大麓閣」を新築 (山頂へ登る観測者のための休息所と山頂との比較観測のため) ※9

 
1912 大正元

到 東安河原に倉庫建設 (野中倉庫) ※9

 
1915 大正 4 三男守 誕生(5月25日) ※3    
1923 大正12 千代子 死去(2月22日) 享年51 ※1, ※3    関東大震災(9月1日)※7 
1927 昭和 2  

「佐藤小屋」完成  (「富士山気候観測所 設立者東京自動車学校長鈴木靖二」「臨時富士山観測所」の2つの看板)※9

1930 昭和  5   佐藤順一、梶房吉 3日がかりで登頂(1月3日 )、以後一人で観測し下山(2月7日) ※9
1931 昭和 6

中央気象台が第二極年観測 (1931-1932) のため到に野中倉庫を7月から9年10月までの無償貸与を照会 (6月8日)

第二極年観測のための予備調査(12月及び翌年1月) 三浦喜一、菅原芳生、藤村郁雄、強力・梶房吉等: 野中倉庫の外壁を強風に耐えるよう、斜めに裾をはり出す方式を検討 ※9

鈴木靖二が設備を中央気象台に寄付、「気候」の看板を外す。 8月1日より観測開始 ※9

 

盧溝橋事件、満州事変始まる(9月)※7 

1932 昭和 7

新観測所建設視察のため、厚、恭子、守と登山(9月10日) ※4

 *この時のエピソードが「野中到翁・晩年の富士登山」(永原輝雄)にある。

第2次予備調査(淵秀隆、三宅恒夫、梅田三郎、強力数名等、短波通信成功(7月) ※9

「中央気象台臨時気象観測所」通年観測開始(8月 ) 所長: 岡田武松兼任(実質的責任者: 関口鯉吉) ※9、※5

第二極年国際協同観測の一つとして山頂東安河原に「中央気象みうら台臨時気象観測所」を設立、一年限りの予算で観測を開始 ※5

満州国建国宣言(3月)※7 
1933 昭和 8

日本 国際連盟 脱退通告(3月)※7 

 

 

 

 

 

 

三井報恩会から山頂維持費7,000円寄贈の見通し。中央気象台 昭和9年の観測継続を決定(12月) ※4

 

1934 昭和 9

東朝新聞に「富士山頂の観測所閉鎖の難を免る」の記事

(8月19日)  ※4

藤村郁雄らが廣瀬潔のために「富士山頂風速の記録」(9月21日) ※4

1935 昭和10 到 東京朝日新聞「富士の絶巓で迎ふ 新婚の第一春」と題した中央気象台技手 菅原芳生・恭子夫妻の記事に声を寄せる(1月1日) ※3  
1936 昭和11 到 弟・清とともに黒田長成侯爵古稀の祝賀会(丸の内日本工業俱楽部)に出席(9月25日)※12

中央気象台 剣ヶ峰に新観測所建設。菅原芳生所長任命(2月)

中央気象台富士山頂観測所設置の文部省令(7月)

剣ヶ峰で観測開始 (8月)

野中倉庫を7.8合に移設、倉庫として使用

廣瀬潔が「颱風時高山岳の風速と被害」を月刊山岳雑誌『ケルン』に掲載(9月)

1938 昭和13  

廣瀬潔、深田久弥ほか山頂剣ヶ峰から五本松までの2950㍍滑降に成功 (2月) ※9,※4 

陸軍が西安河原に「軍医学校衛生学教室富士山分業室」開所、2.8合には避難所を設置、気象庁と共有 ※9    所長: 藤村郁雄(~1968)

1940 昭和15

山と渓谷 社主催冬乃富士座談会に藤村郁雄、廣瀬潔らと出席(10月28日) ※3

 
1941 昭和16  

中央気象台 御殿場 (当時:駿東郡玉穂村)に事務所開設 (5月) ※9

 

真珠湾攻撃・対英米宣戦布告(12月8日)※7 
1943 昭和18 橋本英吉「富士と水銀」『文藝春秋』1月号に掲載p172-204 ※1  
1945 昭和20

三男守 インドネシア・ハルマヘラ島で戦死(3月21日) 享年30

 

東京大空襲(3月10日) ※7 

 

広島・長崎原爆(原爆(8月6日、9日)※7 

ポツダム宣言受諾・無条件降伏(8月15日)※7 

1948 昭和23

橋本英吉著 小説『富士山頂』初版(3月10日)   ※1

 
1955 昭和30

到 死去(2月28日) 享年87※1, ※3

 
       

この年表は主として野中至 野中千代子・著作 大森久雄・編『富士案内  芙蓉日記』(※1)に以下の注に示す情報を加えて作成しています。

 

※1 野中至 野中千代子・著作 大森久雄・編『富士案内  芙蓉日記』(平凡社ライブラリー, 2006) 解説 (P240-P254)

※2 山本哲 天気, 65 ( 8 ), 601-603, 2018

※3 野中勝氏情報(写真の裏書きなど)

※4 廣瀬洋一氏寄贈書類より (NPO事務局保存)

※5  『富士山頂有人観測72年の歴史』 (富士山測候所, 2004)

※6 大森久雄「野中千代子」(『物語 明治大正を生きた女101人』,『歴史読本』編集部編, KADOKAWA, 2014) P125-P136

※7 亀井高孝, 三上次男, 林健太郎, 堀米庸三編『世界史年表・地図』吉川弘文館, 1996

※8 布川欣一『明解日本登山史』ヤマケイ新書, 2015, P31, P220

※9  『富士山の気象観測90年』 (富士山測候所, 1974)

※10『御殿場馬車鉄道』 (御殿場市教育委員会, 1987)

※11『法律新聞』第53号,明治34年9月23日

※12『福岡時事』昭和11年10月1日

※13 和田 雄治「富士山観測所の記」『氣象集誌』. 第1輯/14 巻 (1895) 10 号

※14 和田 雄治「富士登山日記」『氣象集誌』. 第1輯/15 巻 (1896) 1 号

※15 野中千代子『芙蓉日記』

※16 和田 雄治「富士山頂の最低温度」『地学雑誌』8 巻 (1986)8号