資料番号 | T019 |
資料名 | 葉書(年賀状) |
年代 | 1906年(明治39年) |
裏面メモ |
中村不折から野中到に宛てた年賀状
|
資料番号 | T014 |
資料名 | 野中到から廣瀬潔に宛てた書簡 |
よみ | |
年代 | 1933年(昭和8年3月5日) |
本文 |
肅啓高堂益御隆昌被爲涉奉恐悅候陳者迂生從來の御疎濶實 以て御詫の辭も無御座只管汗顏恐縮仕候此段偏に御寬恕の 程奉仰候然るに往年高配を辱うせし迂生多年の素志今般幸 に機至り望かなひて玆にをこがましくも其の顚末を追伸に 略記して淸聞を瀆し奉るの榮を得るは欣幸とするところに 御座候謹みて疎遠御詫申上御左右奉伺度愚札如斯御座候 恐惶頓首 昭和八年三月五日 野 中 到 廣 瀬 潔 殿
|
追伸 |
追伸 迂生菲才を顧みず明治廿二年高層氣象の観測に志し多年學術上並に大自然の偉力を顧慮して地を富士山に卜し其の半腹の大雪崩の恐あるに鑑み山頂劍峰に矮屋を私設し八ヶ月間の糧食を準備致し同廿八年冬觀測を試み候ところ不幸にして風土の冒すところとなり已むを得ず業半にして下山仕候へども寒中滞岳約三ヶ月間の經驗に因り東京帝國大學、中央氣象臺等の先輩諸士の熱烈なる賛同を得再擧の目的を以て同廿九年富士觀象會の設立を見るに至り候 然るに機運荷未だ至らざるか業務遅々として進展致さず是に於て断然獨力經營に決し爾来多年拮据勤儉し貸殖に努力致し經驗に鑑みて自から設計に工夫を凝らし將に百餘坪の工費を得んとするに至り候へども不明の致すところとはいへ不幸にして往年財界の恐慌に煩はされ為に甦生の已むなきに至り候間再び專念盡瘁致居候折から時なるかな昭和五年ゼネヴァに開催したる國際氣象會議に於て航空機の發展に伴ひ高層氣象観測の學術上及び實際上極めて重要なることを認むるに至り因て全世界の極地と高層との氣象観測を昭和七年七月一日より加盟各國一齊に實行致すことに決議相成たる次第に有之候 因て我國に於ては調査の上富士山頂に決定致候へども同山頂に未だ國立觀測所の設備無之然るに已に協定されたる各國一齊観測の時期は寸刻も躊躇すべきにあらざるを以て往年冬迂生劍峰籠居中踏査選定したる山頂東安ノ河原に多年考究の上大正元年夏自から創案設計し堅牢を旨として建置きたる特殊建造物の廿年間風雪に耐へ得たるを政府に於て使用の儀下命相成たる次第に有之一小矮屋ながら幸に斯業に貢獻し得べくば固より迂生の本懐と致すところに御座候へば快諾提供致候すゑ昭和六年八月各測器室、観測塔等を増築爾後中央氣象臺より時々こゝに出張して寒中の滞岳を豫行せられ風雪地震にも安全なる結果同七年五月該建物を政府に寄附して聊か奉公の微意を表し候 是に於て同年七月十日政府に於ては同上の建築様式に因りて起工し廳舎を増築せられ風雨と闘ひ多大の困苦を凌ぎて此難工事を幸に十月十五日竣工を告ぐるに至り候然るに一ヶ月を經て十一月十四日夜襲來せし颱風は東京方面に於ては一秒時最強卅米乃至卅五米なりしが山頂に於ては五十米にして已に風力計を吹飛ばせしも爾後體驗により七八十米なることを感ぜしに拘らず能く之に耐へ得ることを確認致し候 本観測所の位置は其の高さに於て世界第二に位し全坪數約百坪を算するに至り三階の觀測塔を設け無線電信、電話等の通信機關は申すに及ばず發電装置を以て各室に電燈を點じ、屋上の雨水を一大タンクに流注して飲料、沐浴の用に供し又寒中の運動室をも設けて保健に充て其他食料燃料等一切の搬上完了致したる次第に有之是より先き國際會議に於て協定したる一齊觀測は已に昨七年七月一日より迂生寄附の観測所に於て開始せられ引續き目下新館と併用して壯年の中央氣象臺員諸士四名滞岳して風雪と闘ひ粉骨碎身して観測實施中に有之其成績は追て萬國へ宣布可相成候 子孫の代を待つの外なきかをかこちたる斯業が幸に機運到來致し中央氣象臺の機宜を得たる措
|