ドキュメント1895年(明治28年)

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1月4日 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

到 第1回冬期富士登山

鳶口折れ鉄靴破れ、五合目で下山

 

 

 

 

 

 

 

 

大日本気象学会員福岡縣人⁽けんじん⁾野中至氏は、予⁽かね⁾て富士山上に一の気象台を設けんと、其⁽その⁾準備の為⁽た⁾め、去⁽さる⁾二月十五日単身氷雪を冒⁽おか⁾して同山に登り、絶頂⁽ぜっちょう⁾に於⁽お⁾ける積雪の模様並びに風力等を観察したりと、其⁽その⁾以前一月四日、氏は鳶口⁽とびぐち⁾其他⁽そのた⁾を用意し第一回の登山を試みし所、不幸にして五合目に至り、右の積雪に打込みて攀登⁽よじのぼ⁾るの具⁽ぐ⁾に供せし鳶口折れ、裏に大釘を打ちたる鉄靴⁽てつぐつ⁾破れて復⁽また⁾用を為⁽な⁾さざるに至りしかば、一応下山し、更に去⁽さる⁾十五日を以⁽もっ⁾て再度の登山を試みたるものなり 

東京朝日新聞 1895年2月24日 寒中の富士登山者

2月15日 

 

 

到 第2回冬期富士登山

山頂に到達

 

 鳶口の代りに鶴嘴⁽つるはし⁾を携へ、一層堅固の靴を穿⁽うが⁾ち登山せしが、折節⁽おりふし⁾非常の暴風なりしにも拘⁽かかわ⁾らず、終⁽つい⁾に頂上に達したり。

東京朝日新聞 1895年9月11日 富士山巓の気海体験

     

5月20日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

到 建築準備のため富士登山

山頂に到達(午後2時30分)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 予は又頂上に設くべき小屋組、地割用材若しくは備付物品の運搬方法等諸般の用事を帯び、五月二十日登山を試みたり、而して昨今の暖気は最早、満面氷雪の残留を許さず、僅かに二号二勺以上に残雪の散点するを見しが、遉(さすが)に五合目より七合五勺辺までは積雪猶ほ五寸内外にして、未だ地盤を見ること能はざりし、然れども表面は稍融解したるを以て之を攀づるに堅氷に於けるが如く困難ならず

而して六合目より以上の室は入口に石を畳みて密閉せり、故に室内を窺ふに由なしと雖も、五合目以下は開放するが故に、能く其の内に出入することを得たり、室内多くは雪の堆積するを見る、叉夏期所用の桶中には、猶ほ氷を結べり、午後二時三十分頂上に達す、氷点下八度を示せり、帰途積雪ある部分は多くは滑りて直下するを得たれば、意外に僅少の時間を以て帰着することを得たり、爾後(じご)瀧河原佐藤與平治方に宿泊し諸般の打合せをなし二十四日帰京の途に就きたり

東京朝日新聞 1895年9月14日 第二回冬期富士登山記(承前)4/4

     

8月1日 

 

到 御殿場 滝河原を拠点に観測所を建設のため東京を発つ

 

 

8月10日ー27日

 

 

観測所の建設工事

 

(前略)日々用材切組方督促、八月十日⁽ほぼ⁾成り、山上への運搬に着手、剛力共⁽ごうりきども霧中⁽むちゅう⁾列をなし背負⁽しょ⁾ひ上る有様は群蟻⁽ぐんぎ⁾が假山⁽つきやま⁾に餌物⁽えもの⁾を運ぶに異らず

同十二日 石工両名相伴ひ翌日剣が峯に至り、共々鶴嘴を執り敷地掘下た處⁽ところ⁾、偶々⁽たまたま⁾炎暑難堪⁽たえがたく⁾一名眩暈⁽げんうん⁾岩上に横臥⁽おうが⁾し業を執る能⁽あた⁾はず、他も疲労甚しきを以て休業

十四日 同様炎暑甚しく漸々⁽ようよう⁾掘下つつ殆んど二尺に及ぶ頃、左隅に堅硬なる岩石露出右隅は鶴嘴も入り難き程の堅氷にて自ら層をなし、今は如何とも為し難きに付、建前の日迄日光に晒⁽さら⁾すこととなし一先⁽ひとま⁾づ下山

同十八日 叉々⁽またまた⁾登山

翌十九日 石工人夫合わせて十六名登山

二十日 風雨寒気ともに強く仕事遣り切れ不申、人足⁽にんそく⁾二名労に堪えずして下り申し候、午後霧弥々⁽いよいよ⁾深く咫尺⁽しせき⁾を辨ぜず衣服湿潤寒気に堪えず、一同人間の顔色を具⁽そな⁾ふるもの無之⁽これなし⁾(此夜⁽このよ⁾剣が峰に積み置きたる木材、杉皮、大澤内院辺へ吹き飛ばさんとせしも、幸いに一も失はざるを得申候)不得已⁽やむをえず⁾業を休み申候、此の夜雨少しく止みたるに乗じ、昨日来六合目に宿泊し居りたる大工五名登山

翌二十二日 建前に取り掛かり申候去れども、叉々濃霧咫尺⁽しせき⁾を辨⁽べん⁾ぜず、寒気漸く強く手足の働き意の如くならず、人足業を休むもの十三人、残りて共に働き呉るもの僅かに三人に至りたる時の如き、殆ど当惑致し候、併し桁廻り羽目板まで打付け、石屋は前面下段半ば相済み午後六時引取

二十三日 炎暑の為に頭痛を患ふる者三人、労に堪えずして岩上に臥し終に業を休む

二十四日 石工前廻り石垣成る、大工中仕切りの野地⁽のじ⁾成る、午後七時業を終わる

二十五日 濃霧正午頃より風雨寒気共に強く午後不得巳⁽やむをえず⁾一旦休業、風雨の歇⁽や⁾むを俟⁽ま⁾ちしも、漸く強くなるのみにして其⁽その⁾甲斐なし、四時半帰室、此⁽この⁾夕建前の祝いのためにとて瀧河原を始め途室⁽としつ⁾仲間一同より大鏡餅二重小生へ寄贈し来る

二十六日 風雨尚⁽なお⁾⁽や⁾まず午後休業、今日人夫一人労に堪えずして下山、午前風雨寒気にも拘わらず、大工取り急ぎ仕事致し、悉皆⁽しっかい⁾落成、大工一同下山、此日⁽このひ⁾酷烈なる風雨を冒して屋根裏板の上に杉皮を葺きし時などは随分酷烈なる仕事にて、職人等一同に対し誠に気の毒に思ひたりしも、或は慰め、或は励まし、辛うじて之⁽これ⁾を果たすことを得候ひき、然れども時候の関係と最終登山の期相迫り候とにより、破竹の勢を以て工事を迫り立てたるも不得已⁽やむをえざる⁾次第に候

二十七日 杉皮圧へ縁を亜鉛線にて〆付⁽しめつ⁾け、其⁽その⁾上に寸隙もなく石を畳み、茲⁽ここ⁾に全く工事を終わりしは此⁽この⁾日正午なりし、社頭⁽しゃとう⁾叉は気象台出張所其他⁽そのた⁾室々等へ一々用事相済まし、午後四時半石工十二名と共に下山同九時瀧河原に目出度⁽めでた⁾く帰着⁽きちゃく⁾仕候⁽つかまつりそうろう⁾、剣ケ峯は社⁽やしろ⁾より五丁ほど左りの方高く聳⁽そび⁾えたる一峯に有之候故石工が大なる岩石に上り石を打ち割る有様、叉は空洞になりたる岩石の上に鶴嘴⁽つるはし⁾を揮⁽ふる⁾ひ、叉は石を背負梯子⁽しょいばしご⁾にて濃霧断続の中を運ぶ有様を社の辺より望むときは、人間は豆程に見え随分見ものに御座候、山上風の強きため雨微塵になり恰も濃き霧に異ならず、此の霧の衣服を潤すことは叉⁽また⁾格別に御座い、畢竟⁽ひっきょう⁾風の強きため吹き込む故かと存じ候、四面朦朧⁽もうろう⁾として咫尺⁽しせき⁾を辨⁽べん⁾じ難く、風凛々⁽りんりん⁾として手足の働き自由ならず、眉、口、髭、頭髪等白髪の如く霧を結び一同ウヅぶるひをなしつつ面⁽かお⁾を背⁽そむ⁾け、風雨を避けつつ仕事を致すときは随分猛烈にも亦⁽また⁾凄まじきものに御座候、殊⁽こと⁾に平地と異なり少し烈しく労働致すときは温和なる日にても息の切るるには困り申候、別而⁽べつして⁾烈風の時風に向へば大饅頭を口中に押し込まれたるかの如く呼吸出来申さず候、併し工事中一名の怪我人ありしのみにて、別段大怪我致したるものも無、之先づ仕合せに御座候

東京朝日新聞 1895年(明治28年) 9月15日 野中氏家族に送りたる書翰

25日 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第3回富士登山・観測準備

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

斯⁽か⁾くて氏が第三回の登山は、八月二十五日より九月五日迄に於てし、其間⁽そのあいだ⁾非常の辛苦艱難⁽しんくかんなん⁾を以て、専⁽もっぱ⁾ら気海⁽きかい⁾観測の準備をなせしが、茲⁽ここ⁾に最も人をして感動せしむるに足るべきものは、氏の此⁽こ⁾の行⁽こう⁾に随行⁽ずいこう⁾したる健気⁽けなげ⁾なる細君が、繊弱⁽せんじゃく⁾の手を以て始終糧食衣服万般の準備を管理處弁⁽しょべん⁾し、良人をして毫⁽ごう⁾も後顧⁽こうこ⁾の憂⁽うれい⁾なからしめんことを期したるの一事⁽いちじ⁾なり、氏は斯くして第三回の探検を了⁽おわ⁾りたるを以て、来る九月十三日には愈々⁽いよいよ⁾第四回の登山をなし、徐⁽おもむ⁾ろに冬籠⁽ふゆごも⁾りの準備をなす筈⁽はず⁾にて、此行⁽このこう⁾に於ても氏の細君は是非とも同行辛酸⁽しんさん⁾を分⁽わか⁾たんことを希望し、三才の嬰児⁽えいじ⁾をさへ郷里福岡の親戚に託⁽たく⁾し、オサオサ準備に怠⁽おこた⁾りなしと云⁽い⁾ふ、此夫⁽このおっと⁾にして此婦⁽このふ⁾あり、一双⁽いっそう⁾の聯壁⁽れんぺき⁾といふべし 東京朝日新聞 1895年9月11日 富士山巓の気海体験

28日 

 

 

 

 

観測所竣工

 

 
     

9月中旬 

 

到 和田雄治と 5日間観測所に滞在 諸器械装置を整備

 

28日 

 

 

 

 

 

 

到 気象測器等14品の借用証を中央気象台に提出

 

 

30日 

 

到 十数名の強力等と登山開始     午後9時観測所着 

 
     

10月1日 

到 観測開始(午前零時)   

 

6日

 

千代子 園子を郷里福岡の実家に預け出発

 

8日 

 

千代子 和田雄治に宛て「気象学会入会を希望する」旨手紙を御殿場駅より出す 

「気象集誌」第1輯14巻10号雑報に「野中千代子ノ通信」として全文掲載 

 

12日

 

 

 

 

 

 

午前6時同行者弟清外4名と共に瀧河原を出発して登山

 

 

 

野中千代子の登山予て郷里福岡へ帰省中なりし野中千代子は、去る九日の夕、母堂に送られて御殿場に着し、翌日瀧河原に向ひ、此にて至氏の弟清氏が東京より着するを待ち、愈々十二日午前六時同行者清氏外四名と共に瀧河原を発して登山の途に就けり、固より手弱き一婦人の身なれば、日の暮るゝは免かれ難かるべしとて提灯の準備など整へて出で立ちたるは思の外達者にて、八合目以上は少しく弱はりて強力に助けられたれど、午後六時頃には無事に頂上に達したり 野中千代子の登山 1895年(明治28年)10月19日 報知新聞

28日 

 

千島拓殖団体・報効義会員が慰問

 

 海軍大尉・郡司成忠の組織した千島拓殖団体・報効義会員 松井鋒吉, 女鹿角栄が強力を伴い慰問のため観測所を訪れ, 郡司からの書状や贈り物を届ける

     
 

11月30日

 

 

玉穂村中畑の有志者3名 野中氏慰問のため 富士登山を試みるも烈風のため断念

勝又恵造平岡鐘次郎及び西藤鶴吉の三氏は登山を試み烈風の為め其の意を果たさざりし
     

12月10日

 

 

 

 

 

 

弟清 駿東郡玉穂村中畑の有志者5名と慰問のため再度富士登山 

 

 

 

 

 

 

 十二月十日余は静岡県駿東郡玉穂村中畑有志者数名と富士山頂気象観測所訪問の為め登山を試む一行総て五名曰く勝又恵造曰く平岡鐘次郎(新橋駐在巡査)曰く勝又熊吉曰く西藤鶴吉及び余とす而して此の内勝又恵造平岡鐘次郎及び西藤鶴吉の三氏は先月三十日登山を試み烈風の為め其の意を果たさざりし人々にして此の回は百難を冒すも是非登山を果さんと欲し、勇気勃々として鉄脚為めに鳴らんとするの概あり、勝又熊吉氏は中畑口剛力の随一として鬼熊叉は荒熊の綽名を取りたるものなり 

報知新聞1895年(明治28年) 12月17日 雪中の富士登山 

12日

 

 

 

 

 

 

 

 

到・千代子夫妻に面会 

病勢危急にあるも口止めされる

 

 

 

 

 

 

 

 

翌十二日午後十時勝叉恵造同熊吉の両氏先づ発し、余等三人次で発して山頂に向ふ、此の日風稍穏やかなりしを以て、頂上に達することを得たり、頂上本社社前の邊は雪甚だ深きも、其の他の處は多くは岩石露出し殊に意外なりしは中央舊(きゅう)噴火口中に積雪の割合に深からざることなり、十一時四十分剣ケ峯観測所に着す、訪ひし者、訪はれし者、互に手を握て無事を祝し、彼一句是一句歓談時の移るを知らず、而しも午後に至り風勢の再ぎ猛烈ならんことを慮り、盡きぬ名残を惜しみながら午後一時十分別れを告げて剣が峰を出発す

報知新聞1895年(明治28年) 12月18日 雪中の富士登山 (続)

 

 

 

 

 

 

 

 

至氏は重ねて「君よ願くば僕をして僕の志を成さしめよ、果たして僕の願ひを容れられなば、下山の後は堅く此の事の秘密を保ち、至の親戚盟友何人たりとも實を告げ給ふこと勿れ、只だ至は無事に山巓に在りと語り給はれ」と懇々委嘱したれば、勝又氏は是非もなく之を承諾し、此に袂を分ちたり

報知新聞1895年(明治28年) 12月18日 野中至氏の現状(病勢危急に瀕す)

18日 

 

和田雄治 到・千代子救出のため御殿場へ

 

 
     

20日  

 

 

 

 

 

和田雄治一行11名滝河原から登山開始

 

 

 

 

 

 

和田技師は野中氏夫妻の下山を促さんが為め、随員御厨警察署長筑紫忠晴、御殿場停車場詰巡査平岡鐘次郎の二氏並びに剛力斎藤鶴吉、勝又熊吉、鈴木政太郎、福島與一、勝又万次郎(以上玉穂村中畑の者)高杉宇之吉、稲葉五三郎、同菊平(以上御殿場の者)の八名と共に、去る廿日午前六時三十分、瀧河原出発富士山巓に向かひたり  東京朝日新聞 1895年(明治28年)12月26日 野中氏夫妻の下山詳報

21日 

人夫4名が観測所に到達

 

22日 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和田雄治一行 観測所に到着(午前11時)

到を説得

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和田技師野中氏を説く 頓(やが)て和田技師は野中氏に向ひ、見受くる處君は容易ならざる病症に罹れるが如し、今にして下山せざんば、空しく屍を山頂に晒すのみ、斯道に取りて些の益する處なし、越年は今年のみに限らざるにあらずや、實は過日勝又恵造氏が訪問せしとき、君の病に悩めることを口止めされしにも拘わらず余に密告せしにより、余は其の筋にも稟議する處あり、病気の軽重に拘らず、是非とも下山せしむるの任を帯びて来れり、今日は一個人の和田雄治ならず気象台技師和田雄治なり、君にして下山を諾せずんば、強制して任務を全うすべし、と粛然として言い放ちけるに、至氏は慨然大息し、僕先生の好意は感謝に堪えず、然れども僕今中道にして止まば誰れか復た此の事業を成就するものぞ、一旦死を決して登山せしからは縦令割腹して屍を雪中に曝すとも決して貴命に応じ難し、と頑然として聞かず、和田技師は、至氏の厳父及び実弟よりの書簡を示しつつ、此の書面は依頼によりて持参せしも、余は元と野中家の使者にあらず、官命を帯びて此に出張せるものなり、故に此の二通は渡すも渡さざるも余の勝手なれば、先づ君の応答如何によりて決すべしとて、尚ほもしきりに下山を勧めたり、野中氏は暫く感慨に沈みしが、父及び実弟の音信は見たし、左らばとて下山するは潔(いさぎよし)とせざる處、暫し思案に暮れたるが、終に和田技師が将来の善後策は余が厭迄も引き受けたり、此の事業を中道にして廃するが如き事なきは余断然之れを請け負ふべし、と言ふに及んで、野中氏は漸く然らば貴命に随ふべしと答へしにぞ、和田氏は此に始めて厳父と実弟の書簡を渡したりとなん、夫より野中氏は然らば荷物をも片付くべしと立ち上がりにバッタリ倒れて起つ能わず、蓋し既に歩行出来難き程に衰弱し居たるなり

和田技師の親切  和田技師は野中氏の師事せる人、此度官命を帯びて氏を下山せしめんが為、幾多の危険と艱難を拝して任務を完ふせしが、其の帰着するまでの間は駕篭の側に付き添ひ、丁寧に労りつつ、瀧河原まで徒歩して従へり、見るもの其の友情の篤きに感ぜざるはなかりき 報知新聞1895年(明治28年) 12月26日 野中至氏の現状(病勢危急に瀕す)

 

 

到・千代子を伴って下山開始(午後2時)

八合目の小屋着(午後7時)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

剣ケ峯を立退く 和田技師は暇取りては明日の天気の程も分からねばとて、急ぎ立て器械類は必要のものは取り外して、他は据え付け置き、最低温度の如きは自己器械にて分るように仕掛け置き、彼の鬼熊をして至氏を負わしめ鶴吉をして千代子を負はしめて、剣ケ峯の観測所を立ち退きしは、其の日の午後二時頃なりき

八合目に達す 千代子は衰弱甚だしきも至氏の如くならず、従って背負ふにも造作なかりしが、至氏は極めて衰弱せる事とて、胸部を剛力の背にいつることを苦しみ、流石の鬼熊も手に余し一生懸命となりて今は礼儀作法も打ち忘れ「クマが付き居れば野中は殺さぬ」と声を掛けて励ましながら、頻りに道を急ぎしも、何分十七貫目もある大の男を毛布其の他にてクルミたることなれば、重さは重し、歩行為に捗らず、時に背合わせに負いて見ても是れ叉危険なれば之を中止し、遂に無理やりに野中氏を八合目の小屋に負ひ込みしは午後七時頃なりしが、千代子は日の中に疾くに着し居たり

人事不省  至氏が八合目に至りしときは既に人事不省となりしが、和田氏以下手を盡して介抱せし為め、暫くにして蘇生せり、叉鬼熊も絶頂の難所を必死となりて来たりしより心身疲労したるも大事は至らず、併し肝心の剛力にして此の位なれば、和田氏の如きは始終野中氏を励ましてシッカリせよと気を付けられりと

報知新聞1895年(明治28年) 12月26日 野中氏夫妻の下山(続)

23日 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

八合目小屋を出発(午前8時)

三合目で医師瓜生駒太郎が診察

太郎坊到着(午後7時)

滝河原の佐藤與平次方に到着(午後9時)

厳父勝良氏と対面

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八合目を出づ 二十二日の夜は八合目に泊まり明けて二十三日午前八時出発登下山の途に就き、道を宝永山腹に取り、俗に走りと称する急坂を下りて、三合目に出でたり、此の日は野中氏が前日背負ひ方を苦しがりしを以て善き工風もがなと衆議を凝らし、遂に山馴れたるを以て名を知らるる勝又萬次郎氏の議に基づき、背負ひ子二つを丁字形に合わせ、此の上に野中氏を背合わせに負う事となせしに、大に具合よく病者の苦痛を減じ、夫妻とも此の仕掛けにて三合目まで無事に達するを得たり、至氏を負ひしは、矢張り例の鬼熊なりし

医師の診察  三合目には医師瓜生駒太郎氏が出迎ふるあり、此処に始めて医師の手当を施すを得たり、其の診断書の要領は左の如し

至氏  脈拍は九十二至にして最微呼吸急迫顔面少しく浮腫等の諸症あり救急療法を施す太郎坊に於て再診諸症前に仝じ

千代子 脈拍は八十九至呼吸急迫顔面蒼白にして嘔吐の気味あり嘔吐を催せしこと三合目にて一回馬返しの下にて一回帰着後諸症減退す

両人とも足部に紫色を呈し凍傷の症候あり直に治療を施せり

報知新聞 1895年(明治28年) 12月26日  

25日 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三浦博士が診察 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

野中至氏の其の後の病状を聞くに、気分はおひおひ快(こころよ)き方(かた)に向ひ居れるも、足部(そくぶ)は凍傷にて動かず、叉腰も立たざる有様なり、又帝国大学医学部の三浦博士は大学総長以下各職員総代として瀧河原に出張し、同地に一泊、去二十五日野中氏を診察したる由なるが、病症は脚気とのことにて、素(もと)より生命には別条なき見込みなり又其の妻女も同じく脚気の由なれど、是は至って軽症なりと

其の他寺尾東京天文台長も見舞の為同地に赴き、東京静岡辺の有志者中にも続々見舞いに赴くものありて、目下看護方々瀧河原に赴き居る野中勝良氏は、殆ど来客の送迎に暇(いとま)なき程なりと云ふ

東京朝日新聞 1895年(明治28年) 12月28日  野中氏の病状と三浦博士