新田次郎の小説「芙蓉の人」には、入会を希望して会費を送った千代子の手紙が、返送されてくることが書かれている。しかし、この小説は名著であっても、細かいところでは必ずしも史実に忠実ではない。
このことを、昨年末お会いした野中到・千代子夫妻の孫にあたる野中勝氏のお話から初めて知った。その例として、二人が山頂で瀕死の状態で観測をしている間になくなったことになっている長女・園子が実は、下山後7歳で亡くなったことが、戸籍から明らかである(野中勝氏)。
「よみがえる富士山測候所2005-2011」(土器屋・佐々木編著、成山堂、2012)のp4、に「(新田(気象庁元測器課長藤原寛人氏)が岡田武松元中央気象台(現気象庁)長の勧めで書かれたこの本(芙蓉の人)は史実には忠実である)」と書いたのは間違いであり、不明をお詫びして削除をお願いしたい。
このような事情で、千代子と気象学会の関係も調べなおす必要があるのではないかと考えた。気象学会側のデータを調べるため、元本NPOの理事で、気象学会・元理事長、昨年結成された「気象学史研究会」のメンバーの廣田勇・京大名誉教授にお願いしたところ、同会メンバーの藤部文昭・首都大学東京特任教授の下記のような興味深いメールを頂いた。
両先生の許可を得て、ここに引用させていただくが、「千代子が気象学会員であったかどうかについて」まだはっきりした結論は出せないがいろいろな情報が入手できた。また、『芙蓉の人』では、「男尊女卑の明治の男性」の見本のように描かれていた和田雄治技師が、少なくとも千代子の手紙を気象学会へ届ける労をとった方であったことがわかり興味深い。
なお、廣田氏からは根本順吉氏による佐藤順一追悼文もいただいた(URL)。今後、富士山測候所の基礎を築いたもう一人の恩人である佐藤順一についても、本バーチャル博物館に入れたいと思っている。
2018年1月13日の(廣田氏経由)藤部氏メールを引用:
野中千代子が気象学会に入っていたかどうかを調べましたが,決定的な情報が見つかりませんでした。これまでに集めた情報をお知らせ致します。
以上長くなりましたが,千代子の入会の有無は今のところ「五分五分」という感じです。
戦前の気象学会の規約類についても,機会を見て資料を探してみようと思います。
藤部文昭
なお、藤部氏から、引き続き下記のようなメールをいただいた。千代子の入会の有無には少し否定的要素が増えたかもしれない。
藤部氏メールの一部を引用:
1923年の気象集誌に総会記事が載っていました。前年度の物故者に野中千代子の名前はありませんでした。とすると,千代子は会員ではなかったのかも知れません。
答えは山本哲氏によって明快に出されました。千代子は気象学会員でした:
2018年9月7日の本ホームページ「スタッフブログ」,「野中千代子は気象学会員だった!山本哲氏の明快な回答」 で紹介しましたが、明治28年(1895年)の大日本気象学会会員禄に二人の名前が載っていたことが判明しました。この部分についても、『芙蓉の人』の記述は新田次郎のフィクションであることが分かりました。