分類NO | N009 |
タイトル | 野中至氏の富士山観測所 |
著者 | 和田 雄治 |
出版社 | 博文館 |
出版年月 | 1896年(明治29年)1月5日 |
判・頁数 | |
ISBN | |
掲載箇所 | 「太陽」第2巻第1号 |
所蔵 | |
備考 |
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(左写真)巻首に掲くる圖中第一は観測所の前面を自ら撮影したるものにして入口の少しく下に居るは野中至氏なり
又第二は本年夏期中央気象台に於て観測所と為したる東口の室にして 前面叉は上部にあるは気象器械 入口に起立せるは同台の技手助手等なり(P200)
分類NO | N009 |
タイトル | 富士山觀測所ノ記 |
著者 | 和田 雄治 |
出版社 | |
出版年月 | 1895年(明治28年) |
判・頁数 | |
ISBN | |
掲載箇所 | 氣象集誌. 第1輯 1895年 14 巻 10 号 510-513 |
所蔵 | |
備考 |
雑録 富士山觀測所ノ記 和田 雄治
本會會員野中至氏の富士山頂に氣象観測所を設置し、自から率先し測者となり越年を試んとするの企圖あることは讀者の知了せる所ならんか。今や野中氏は素志を貫き、斯の勇牡なる企圖をして遂に事實たらしめ、去る十月一日より豫期の觀測を開始するに至れり。余は過般、富士山觀測所を視察するの官命を帯び、九月中旬、野中氏と共に登山し、滞在五日にして諸器械の装置を整へ下山せり。盖し中央氣象壹は富士山滞在中氣象觀測の事を野中氏に囑託されたるを以て、特に此命ありたるなり。茲に記する所は乃ち、余の滞山中目撃したる大要を叙するものにして觀測所設立に關し数年來野中氏の焦慮したる顛末及び其建築に際し、材料の運搬、人夫の使役等の爲め、同氏の嘗めたる難苦の如きは既に本誌に掲くあれば之を略す。
野中私立觀測所は 富士山頂剣の峯にありて舊噴ろの西南隅に位したる最高峯を占む地盤は熔岩の凝結したるものにして凹凸極なく隨て平坦の地を得ること甚だ易からず。是て以て一 方には互巖で破辞して一方に之を畳積し、僅に入九坪の平地て得たりと謂ふ。斯く狭隘なるにも拘らす、特に此點をとして敷地となしたるは山頂の最高點に觀測所を設けんが爲めなり。實に此地は海面を抜くこと直立三千八百米( 凡そ我が三十五町)にして、在來の小屋に比すれば其高きこと凡そ七十米なり。而して敷地の東北二方は深さ三百米の舊噴口に臨み、南方は稍低き圖丘ありて遠く相豆駿遠の山海を眺め、西方は一連の斜面にして富士川流域を眼下に望み甲信の高嶺に対峙し山上佳景此地を以て最とす。
觀測所は木造の平屋にして南北三間、東西二間あり、棟の高さ九尺なり。而して屋内は三問二等分し、其の北方にあるを器械室、南方にあるを居室となし、各西壁に一窓を備ふ。中間の一室は物置にして条子て南北兩室の通路となし、又居室の暖氣をして直に器械に感せさらしむるが爲とす。入口は則ち中室の西面に設く。屋外の寒風吹入するも居室器械室に直通せさる装置を施せり。屋根は厚き杉皮にて葺き蔽ふに尺大の熔岩數十塊以てす。又東壁は巨巌に密接し、其他の三面は硬石を堆積して外壁となせり。故に外貌を一見すれば恰も銃眼を備へたる石堡を望むが如く、其堅牢なる知るべきなり。現に九月七八日に渉りて山頂に非常の颶風あり。一秒時の速度五十八米に達し、一間に封する風壓三百五十貫を超渦したれども毫も損傷を見ざりき。
今回當觀測所に備へたる器械は水銀晴雨計、乾濕計、最高寒暖計、最低寒暖計、電氣附風力計、雨量計、各壹箇にして皆な中央氣象壹の検定を受くたるものなり。別に小形雨量計一箇、 普通寒暖計三箇、 回光儀一 箇を附屬せり。而して晴雨計は器械室西窓の前面に一寸角の立柱を設けて之に懸垂し、家屋の動揺をして暗雨計に及ぶこと無からしめ、寒暖計は該室の北壁より約三尺立方の戸棚を張出し、其中央に掛壹を立て乾球濕球最高最低の四箇寒暖計子装置せり。日棚の室外にある五面は薄板を以て閉ぢ、雪片の飛入することを防ぎ、只器械室に面したる一面のみの開閉を自在ならしめ、室内より觀測の便宜に供せり。又風力計は屋外北方の巖山に据へ、護護線て居室に引入し電氣盤に接績せしめたり。双雨量計一箇は居室直上の棟材に固定し、漏斗の下管を屋根裏に出し之より鉛管を垂れ、以て雨雪水を室内の潴器二流下せしめ、他二器は室外の高巖に露出し、專ら雪量の觀測に供するものとす。其他室外には子午線を書したる日時計壹あり、回光儀壹あり。後者は沼津測候所と相通じて時刻を正すに用ひ、前者は後者の用を欠きたる時の為に備へたり。
野中氏の私立觀測所は其講造の堅牢なる儀器の正確なる前述の如し。而して今や氏は強固なる身心を以て專ら觀測に鞅掌し、氏の妻君莫人の傍に在て炊事を助くるあれば明春野中君夫妻の安全歸京するは期して待つべく本邦に在て一 万尺以上の高層に於たる冬季の氣象を知るを得るは實に野中氏夫妻の賜にして、氏等の歸京に際しては必らずや志士振て歓迎するなるべし。
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N011
分類NO | N011 |
タイトル | 富士登山日記 |
著者 | 和田 雄治 |
出版社 | |
出版年月 | 1896年(明治29年)12月28日 |
判・頁数 | |
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掲載箇所 | 氣象集誌. 第1輯 1896年 15 巻 1 号 18-27 |
所蔵 | |
富士登山日記 理學士 和 田 雄 治
昨二十八年は余の爲め富士山の當り歳なりしか。九月中旬、二三同僚と登山したるに、十二月に至り、復た雪中の登山を試むるの好機を得たり。但、惜むらくは昨年末の登山は學術研究の目的にあらずして特種の要務を帯びたるが為め、器械としては最低塞暖計と改良空盒晴雨計の二箇を携へたるに過ぎさりし一事なり。茲(ここ)に記する所は則(すなわ)ち雪中登山の概況にして學術上の価値一も之なしと雖(いえど)も多少歷史上の材料ともならんと考へ、拙文を顧(かえりみ)ず集誌の余白を藉(かこつけ)ることと爲せり。讀者幸に之を諒(りょう)せよ。
十二月十八日
午前八時新橋停車場を發し、正午靜岡縣下御殿場に着す。停車場前の吉島屋に休足す。同店に會するもの、御厨警察分署長、警部筑紫忠德君、同分署新橋駐在所詰巡查平岡鐘次郎君、郡會議員勝又惠造君、佐藤與平次君、福島儀作君外數名の有志者にして特に余を迎られたるなり。同店に於て暫時諸氏と協議を爲せしに、人夫食料等の用意を爲すには少なくも一日を要するを以て、登山は明後二十日と爲すの止むを得ざるを聞き、遂に其の意見に從ひ、且つ東京に電報して食料の急送を請求し、午後五時玉穗村字中畑に到り福島方に投宿す。御殿場は諸事便利なりと雖(いえど)も登山準備を爲すには成るべく山麓に近接するの優れるに若かざるを以て轉(うつ)したるなり。同家には玉穂村長松井永賜君を始め、同村役場員其他有志者數名待受け居りたるに、而して松井村長東京より帰郷する由に付、余は御殿場に於て氏を待合せ居りたるに遂に會せず、是に始めて面談するを得たり。又中央氣象台より電報して曰く、明日は雨雪なきも風強からんと。此の電音に接し、登山を二十日に延引したるの愈好都合なりしを知れり。 此の日快晴にして徴温終日無風なりしも、富士山を望めば烈風時々起り、山頂の如きは積雪飛揚すること、恰も濃霧の如し。
十二月十九日
終日防寒具食料品等の準備に從事し、且つ人夫の撰定、又は各自分擔の任務等に就き、松井村長に謀る所あり。同氏の盡力に依り携帶品分擔(ぶんたん)の明細書二通を作り、一通は筑紫警部に、一通は余之を收むる事となせり。 此日快晴無風、朝夕稍寒し。苟(いやしく)も余暇あれば障子を開けて山頂を仰ぎ、常に雪風凄然たるを望みて心中無量の感動起せり。
十二月二十日
登山者一行は午前五時字瀧河原佐藤與平次方に集合するの約を爲せしを以て、午前四時、旅装を整ひ喫飯を終りたるも、人夫の來るもの一人もなく、且つ前夜命し置きたる乗馬も來らず。時に五時數分を過ぎ、山頂稀紅を帯ひ將に東明に達せんとす。由て福島氏と共に徒步龍河原に到る。當時余の著服は左の如し。 上部 毛織「メリヤス」肌著二枚「フラネル」二枚 紙鞄一枚 毛糸編襦袢一枚 羅紗胴著一枚 羅紗上衣一枚 羅紗二重合羽一枚 下部 毛織「メリヤス」二枚 紙子一枚 真綿脚絆 毛糸編靴下一足 厚羅紗織足袋一足 外に二重毛織手袋、軍用厚羅紗手袋、狐毛襟巻等なり。瀧河原には筑紫警部、平岡巡査等の昨夜來宿泊し、出發の用意整頓し、只人夫の集合を待ちつつあり。又官幣大社三島神社宮司桑原芳樹君我が一行を送らんが爲め、昨夜來著せるあり。又玉穂村の有志者數名出張して萬端の斡旋を爲し、一行に助力を與へたり。而して我が一行中不慮の事變に際會して食物の欠乏を来すが如きあらんも謀りがたきを以て、ビスケット若干、鶏卵二個、黄橘二個づつを各自に携帶せしむ。 午前六時過平岡巡査に請ふて人夫を屋外に整列せしめ、余は登山中の心得方を申聞(もうしきか)せ、且つ宮司桑原君は余に尋て諭撫する所あり。爱?に余は筑紫平岡兩氏と共に馬行太郎坊に嚮(むか)へり。一行十一人にして其氏名左の如し、 技師和田雄治、警部筑紫忠德、巡査平岡鐘次郎、人夫頭勝又熊吉、人夫齊藤鶴吉、同鈴木政太郎、同福島與一、同勝又萬次郎、同高杉卯之吉、同稻葉哲三郎、稻葉菊平 山麓と雖も傾斜急ならず、且つ未だ積雪なきを以て、所謂裾野の平原を疾驅するは甚だ興味を覺へたり。午前九時太郎坊に達し、焚火を爲して暖を取り、登山の用意を為す。則ち足部には真綿を巻き藁沓(「ごんざう」と稱し足甲まで編上げとなる)、内には打藁を入れ、又沓下には「かんじき」を固着す(「かんじき」は鋳製丁字形の打物にして各端に尖歯を附し、氷雪を蹈碎するに用ふ)且つ是まで駄馬を以て運送し來りたる糧食、薪炭、夜具等を人夫に分擔せしめたり。是に於て見送人數名と別れを告ぐ。登山を爲せり盖し太郎坊は、中畑登山口にして淺間神社の設あり。此の地を以て樹木繁殖の界限とす(海面上の高さ約千二百米)太郎坊より登ること四五百米に至れば積雪點々として現はると雖も、其厚さ僅々二三糎に過ぎず。只崖谷に在ては數尺の積雪あるが如し。 午前十時半頃二合室に達す(海面上の高さ約千八百米)焚火を爲し、飯團數箇を喰ひ小憩の後ち出發す。二合以上に於ては積雪稍深く、且つ其表面閉ぢて堅氷の如くなるを以て「カンジキ」容易に牙止せず、時としては鳶口を以て上部の堅氷を粉碎し、時としては鳶口氷を水中に突入して登らざるを得ざる所あり。斯の如くして、午後三時五合室に達す(海面上の高さ約二千六百米)室口には積雪數尺ありて容易に開き難きを以て人夫三四名をして氷雪を排除し、戸扉半面を破りて漸く三尺四方位の入口を得たり。室内の四隅は積雪頭上に及ぶと雖も、其の中央は僅に寸餘に過ぎず。又家根裏は氷柱雪花交も下垂し、其の美なること水晶宮に入りたるが如し。然るに焚火を爲すに際り、其の一時に融解して落下するに至りては、恰も雨中に在るに異ならず。雨具を著け席筵を被りて漸くにして凌ぐを得たり。 此日終日快晴時々朔風の風雪を飛來せしことありと雖も、或いは之を巌陰に避け、或いは雪上に打臥して免れ、遂に甚だしき妨害を蒙らざりし。今夕炭俵二三を室外に積みて點火して、山下に安著の信號を爲せり。
藁沓「かんじき」及び鳶口の図
十二月二十一日
昨夜來最低寒暖計を室外軒下に橫架し置たるに、其の表面悉く水装し、爲に最低温度を得りき。午前八時、一行五合室を發し、六合(海面上約二千八百米)を經て午前十一時七合室(海面上約三千米)に達し、辛じて該室を穿開し、食事を爲せり。五合以上に在ては傾斜稍々強く、殆んど三十二、三度にして、而かも積雪甚だ深しと雖も、幸に其の表面は凝結するも三四合邊の如く堅氷ならざるを以て步行却て容易なるを覺へたり。唯昇登に從ひて、風力強きを加へ、一たび烈風起れば吹雪を為し、咫尺(しせき)全く辨ずべからず。且つ氣温俄に低下するを以て鼻耳手足の冷却すること甚しく、為に一時自由を失することあり。余は東京出發に先ち、防寒帽と称し鼻耳に被ふべき装置あるものを購入し、筑紫警部の好意により紹織の遮眼布を得たりしも、激烈の吹雪に遭遇しては其の効なきを覚えたり。寧ろ頭上より毛布類を覆被する方優れるが如し。 正午後過七合室を発す。是に於て人夫中八合に迂回せず直路黒岩を攀躋して頂上に向ふの捷徑にして速達の望あることを説くものあり。之を賛するもの三名に至る。然れども人夫頭熊吉なるものは曰く、捷徑は捷徑なりと雖も俄然烈風が起るあらば之を避くるの策なく、数年来登山を業とするものに於ては敢て危険なかるべしと雖も、今日は官吏の登山を助くるの任務を帯ふるものなれば、出來得る限り危險を避けざる可からず、故に八合に迂路取ること最も適当なりと。依って余輩も後説を賛し、且つ反對連中に説諭を加へたれども遂に聽かずして一行に別<このあと一行飛んでいるのでは?>太郎、與一、卯之吉の四名とす。 午後一時過余輩は八合室に達す(海面上約三千三百米)時刻尙ほ早しと雌も室の開鑿は午後三時までに終らざれば寒氣の爲め手足自由を欠くに依り頂上に達するは明朝となし、今夜は八合室に入らんとの議に一決し、直に人夫四名は各鳶口を以て入口の氷雪を破り、僅に二四尺方の雪門を開き、前日の如く爐邊に一夜を明したり。唯先に一行に分れたる人夫は、副食物、布団、毛布類を持行きたる爲め、二三の席筵を除の外、別に防寒具なきが爲め、夜間は寒氣甚しく爐邊にあるも背部は氷の如く、且つ携帯の飯團、切餅、牛乳、黃橘等凍らざるものなく、之を炮るも全く變質して舊に復せず、僅に飢餓を凌ぎたるに過ぎず、且つ焚火を以て雪塊を融解し、以て飲料水に供したるが故に、其味なきは勿論、灰燼の爲め半濁色を帶び、到底下界に於いて口にすること能はざる汚水なり。 此日夕刻ょり雲起り、雪風の室上を吹くこと凄然一步も室外に出つべからず、遂に山麓に信号を為す能はず。
十二月二十二日
爐邊に一夜を明し、早々燒餅數片を咬り、手足の防寒に注意し、且つ前日來の經驗上、外套なきも防寒に妨げなきのみならす、却て風衝の爲め害あるを悟りたるを以て、此日は輕装を為し、僅に「ビスケット」、鶏卵、黃橘を腰部に著け、寒暖計一本、時計二箇外に羅錶、蠟寸燐、賓丹、手帳等を懐中にし、午前八時、八合室を發せり。然るに幸にも前夜來の烈風は九合以上の積雪を吹揚し、窪所を除の外は山骨を露出し、一見夏時に異ならざるを以て九合以上の登山は意外に容易にして、午前十時過山頂に達し、前日別行したる人夫四名に出合せり。内一名の日く、昨日頂上に達するや直に劍の峯に登り、野中夫妻を訪問せしに異狀なしと。是に於て余は筑紫警部、平岡巡查、人夫頭熊吉の三名を随へ、他の人夫は社務所近傍の一室に置きて剣の峯に登れり。 午前十一時、野中私設觀測所に著し、屋外の模様を望むに、前日の烈風の爲めか屋上の如き一點の積雪なく、雨量計は整然と露出し、昨年夏自から装置したる風力計の如きも無事に回轉し、事の意外なるには一驚せり。而して西面の口扉を開き、野中君と呼びつつ居室に入れり。該室は元來四畳敷なるも防寒の爲め紙帳を以て折半し、且つ赤毛布を垂れて幕と為し、僅に二尺に四尺の入口を備へり。妻君先づ紙帳の入口を開擧して余輩を誘導す。而して其の内部を窺ふに約六尺四面の中央に小形の暖爐あり。釜を掛く沸湯の用意中なるが如く南壁の傍に洋燈を點し、其傍の淡閣たる所に至氏の静定せるあり。其の容貌は去夏新橋停車場に一别を告ぐたる時に比すれば恰も異人を見るが如く、顔面は蒼灰色を帶びて腫脹し、毛髪は長く伸て乱縫に似たり。相互暗涙を啜して別後の無異を賀し、尋て筑紫警部、平岡巡査を紹介し、又余は妻君に初對面の挨拶を了れり。 |
OM-51
資料番号 | OM-51 |
資料名 | 富士登山和田技師の復命書 |
年代 |
1896年(明治29年) 1月2日(木) |
新聞社 |
讀賣新聞 |
元データ |
国立国会図書館所蔵・大森久雄氏提供 |
内容 | 左の一篇は気象観測者野中至氏が富士山巓に於て病に罹れる為、中央気象台技師和田雄治氏が官命を帯び雪中の登山を試みたるより、遂に無事野中氏を下山せしめたるに至るまで、其前後の顛末を詳記したる、氏の復命書より和田技師登山の模様、野中至氏下山の次第は既に報道したるが、今之を見るに同調異趣更らに感慨の湧来ると覚ふ、依て講ふて、之を左に録す |