富士山初の冬季レスキュー

決定的な役割を果たした和田雄治の業績

和田雄治の功績の中で、富士山でのレスキューを日本で初めて行った事はあまり知られていない。野中至・千代子の冬季富士山頂気象観測は様々なメディアによって知られているが、それは和田雄治の存在なしにはあり得なかった。あまり光があてられていないが、決定的な役割を果たした彼の業績を2つ紹介したい。

 

まずは山頂観測のスタート時点における役割である。和田は野中の意気込みに呼応し、彼に測量機器を貸与、指導し、観測の基礎を作った。更に和田は至の妻、千代子の登頂にも力を貸した。2時間おきの観測の傍ら日常の雑事を一人で行うなど到底無理であると、千代子は夫に内緒で登ることを決意。彼女は和田に気象学会の入会金を添えてその決意を表明した。和田は理に叶った千代子の願いを認め、漸く夫婦での観測が可能になった。和田雄治が発端を開いたのである。

 

しかし想像以上に過酷な山頂の環境が二人の体調を蝕み、観測は82日間で中断することとなった。慰問隊が二人の予断を許さぬ状況に驚き、他言無用との至と千代子の懇願もあったが、今は時なしと和田に報告した。和田は即、救援隊を組織し富士山頂へと向かった。満足な道具などなく、強力二人がいるとは言え、警察官や彼自身も含め冬山の訓練をしたこともない素人集団と言っても差し支えない。ましてや12月の極寒のさなか、登って下りるだけで奇跡であるにも拘らず、二人の人間を救出するなどまさに無謀な行為だった。彼らの武器は「絶対に二人を救出する」という思いのみであっただろう。

 

こうして誰一人遭難することなく、はからずも富士山頂での、そして恐らく日本の冬山での本格的な初めてのレスキューは成功した。これがなければ野中至・千代子の冬季観測の評価もどうなっていたか分からず、孫である筆者もここにこうしている事はなかっただろう。

 

野中 勝